第9話 そのドアの向こうには……

 彼女のくちびるに触れた夜、俺はいくら泣いただろうか。


 涙はとっくに枯れ果てて、悲しい気持ちが頭の中を支配するとともに、何度も何度も彼女の悲しい顔、嬉しそうな顔、明るい笑顔がぐるぐると思い浮かぶ。

 

 俺は自分自身の気持ちがよく分からなくなっていた。

 

 俺は彼女と別れることで罪悪感が消えて、彼女もこんな俺とは違ったいい人と出会えるようになって、お互いに良くなるはずだと思っている。確かに寂しいかもしれないけど、一緒にいて不幸になるよりはよっぽどマシだ。


 そうやって頭では考え理解しているのに、一方で別れを想像するだけで、悲しみが止まらない。


 気づけば部屋には朝日が差し込み、徐々に明るくなっていく。俺はその時ちょうど、ベットの上で一睡もできない夜を明かしたところだった。


 俺がベットから半身起き上がりぼんやりと明るい部屋を見ると、すぐに玄関のドアが目に止まる。


 もちろんこれまで三年以上も見てきたドアだから、目に止まるの当然のことかもしれないけど、それよりも今すぐにそのドアの外から彼女が中に入ってくれないか期待している自分がいるような気がした。


 俺はそんな自分を許せなくて、大きく首を振る。そして、別の方向に視線を向ける。どうせ、次彼女に会ったときにそのごく短い単語を言えばすぐ済むこと。そうしたら、すぐにでも俺も彼女も解き放たれるはずだ。それなのに……


 目を逸らそうとすればするほど、玄関がの奥にいるかもしれない彼女が気になって、しょうがなく目を向けてしまう。


 結局、意志の弱い俺は玄関のドアから目が離せない。


 今すぐにでも透き通った声の彼女が、明るいトーンで入ってくるシーンを何度も想像して、何を言われたらどう言おうかなんてことまで考えてしまっている。


 たぶんこれは、やっぱ彼女が美人だから男として美人と話したいという思いが期待させるんだと思う。俺はそんな汚らわしい欲望を持った男なんだ。それなら余計にも彼女と別れなきゃいけない。


 俺は自分の頬をつねると、その想いから振り切ったように振る舞い、立ち上がろうとしたとき……


 「ピンポーン」とここ最近じゃ聴き慣れた音が耳に触れる。

 


 耳に触れた瞬間からふと気づけば俺は自然に玄関のドアの前に立っていて、鍵に手をかけていた。体の自然な動きに自分でさえ恐怖を感じたけど、そのカギに掛けた手が止まることはなく、そのままの勢いでドアを押し開ける。すると…………


「よっ!」


 出てきたのは、朝からずいぶん爽やかなイケメンの、一夜だった。


 予想外の来客に「あっ……おう……」と驚いたようにおどおどしてしまう。


 すると一夜は何か思いついたように「詩乃じゃなくてごめんね」と少しにやけた顔をするので、悔しくなった俺は「ちげえよ!」そのからかいを切り捨ててから、疑問を口にする。


「こんな朝早くからから、なんの用?」


 振り返って部屋の時計を見れば、針は七時半を示していた。『ちょうどこの間彼女と話した俺の起床時間だ』と、また脳内に彼女との記憶が浮かぶから、俺が頬をつねると一夜に「寝ぼけてるの?」と不思議な顔をされたので、「そんな感じ」とかわす。そして一夜は口を開き用件を口にする。


「ちょっと、詩乃から伝言を預かったのと……」


 そこまでいうと彼の爽やかで柔らかそうな雰囲気の表情が少しだけ固くなる。


「それと俺個人として詩乃のことで幸谷と話したいことがあるから、ちょっとお邪魔してもいいかな」


「……わかった」


 俺は一言返事としてつぶやくと、ゆっくりとドアを大きく押してから一夜を部屋の中へと入れる。


 一夜に背のひくい机を案内すると、冷蔵庫を覗いてまだ来客用のジュースを買えていないことを思い出す。次彼女がくる時まで……

 俺は首を振り、棚から新しいコップを取り出すと、それに温かいお茶を入れて、背の低い机へと運ぶ。そして、一夜の向かい側に座り、男二人で座りにも小さすぎる背の低いボロの机で向き合った。


 一夜は、そのコップに口をつけると「お茶か、渋いな!」と言うから、「それ、妹にも言われたから」と至って淡々とした口調で返した。


「そう……その節はウチの妹がお邪魔したな」


「君の妹さん、勝手に入るからびっくりしたよ」

 

 彼は「詩乃らしいな」と少し表情を緩め苦笑いしてから、すぐに戻す。


「それで、詩乃からの伝言なんだけど」


 そう言うと彼は一呼吸おいてから、ポケットからメモを出すと、ゆっくり口を開いた。


「『昨日言ったデートは土曜日お兄さんの家に行くのでそれまで待っててください。それとその日は夕方の五時まではそのお別れの言葉を言うのは禁止です。1日デートに付き合ってからにしてください。』、だって」


 俺はその言葉に俯くことしかできなかった。


 俺が傷だらけの机に視線を落とすと、正面から少し悲しみを帯びた声で「詩乃と別れることにしたんだ?」と聞こえる。それに対しても俯いたまま黙っていると、彼は自ら口を開く。


「別に俺は、幸谷と詩乃がどういう関係になろうが、別にそれで友達辞める気はないし自由にしたらいいと思う」


 そこで彼は口を止める。急な無言に気になって視線をあげると、目があった彼は、真剣な眼差しで俺を見る。そして、力強く言葉を口にする。


「だけど、それでも口を出させて欲しい! 幸谷はなんで詩乃と別れるの? 詩乃のどこがイヤだったの?」


「彼女のイヤなところ……」


 俺は些細ささいほころびでも見つけ出すつもりで、彼女との楽しい記憶を思い返す。しっかり思い返して、しっかりと彼女を見つめて、しっかり感情を思いかえして


 そこで俺は口が止まる。いくら考えても、詩乃にイヤなところなんて見当たらない。無いなんて事あるはずないのに、見つからなかった。俺は黙ることしかできずにいると、返事を待たずに一夜が口を開く。


「昨日詩乃は帰ってきたとき笑顔だったんだ。気持ち悪いくらいに……」

  

 彼は少し俯くとその光景を回想しているのか、顔も苦渋くじゅうに満ちたものになる。 


「明らかに様子が変で部屋で嘆くこともなかった。でも、詩乃の部屋からはただヒックヒックと泣き声ばかりが絶えず聞こえてたんだ」


 彼は顔を上げて、再び俺を見る。その目線は真剣なものから、何かを望むような目線をしていた。


「確かに付き合う別れるは幸谷の自由かもしれないけれど、この間も言ったように詩乃はそんなに強くないんだよ。だから、もしイヤじゃなければしばらくは付き合ってもいいんじゃないか」


 俺はその彼の視線を避けるように再び机に視線を落とすと変わることのない俺の返事を口にする。


「俺は別れた方がいいと思う」


 そう言うと彼は少し机に乗り出し気味に怪訝さを含んだ声音で「なんで?」と言う。


「俺は耐えられないんだ、罪悪感に」


「でも、その罪悪感のせいで詩乃は苦しむけどそれはいいのか?」


「それでも、別れた方がいい……お互いのためにも」


 すると彼は机をバンと叩くと机へ乗り出す。


 叩いたとはいっても、その動作は音もあまりたたないような軽いものだったが、叩いた本人がすごく悔しそうな顔をする。


「何がお互いなんだよ! その決断はお互いでもなんでもなく、詩乃だけ傷つけてるのに、何がお互いなんだよ!」


 彼は少し語気を強めて俺に訴えかけるように言うも、俺が黙って俯いているのを見て、すぐ体を引き浮いた腰を下げる。そして「ごめん、言いすぎた……」と軽くつぶやく。


「でもしばらく付き合ってみることはできないか? ちょっとの間、罪悪感を無視して付き合ってあげられないか?」


「ごめん……」


「そう……」


 そして、この部屋は静かな空間に包まれる。こんなことならテレビをつけておけばよかったと後悔したけど、寝起きの突然の来訪にそんな対策できてなかった。


 ちゃんとカチカチなる秒針が、刻々と時間を刻む中、お互い俯いたままだった。静かな室内とは対照的に、外からは車のエンジン音や人の喋り声だったりがぼちぼち聞こえてきて、一日の始まりを奏でていたが、俺たちの会話はすでに終わっていた。


 しばらくの時間が経ったのちに彼が顔を上げて無理やりに明るく話す。


「暗い話だったね、ごめん! 朝食まだだよね? 食いに行こう!」


「……うん」


 俺たちはそのボロボロの机から立ち上がると、朝ごはんを食べに部屋を出る。そのあと、一夜と一緒に大学へと向かった。


 

 そして詩乃のいない、ひとりぼっちの"いつもどおり"が始まった。

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