私情まみれのお仕事 侵入編

赤川ココ

第1話

 緑の国。

 その意の名前を持つ、その広い敷地の入場口で、エンはつい立ち尽くしてしまった。

 想像していたものと、違う。

 いや、緑も田舎だからと言う理由以外で、生え揃っているようだが、気楽に承知したのを悔やむものが、入場口の遥か奥の方に建っていた。

「どうかした?」

 傍で見上げる女は、その顔が強張っているのを見て、気遣いの声を上げた。

「顔色が悪いけど、日を改める?」

「いえ……」

 日を改めると言う事は、今日のこの突如として湧き出て来た緊張を、別な日に持ち越す、と言う事だ。

 それは、冗談ではなかった。

 だが、一応、確認の声を上げる。

「ここって、植物園じゃ、ないんですね」

「え。いや、地元にあるのに、わざわざ他県に来る必要、ある? そこまで、植物に興味、ないんだけど?」

 やはり、植物園だけでは成り立たないから、遊園地も兼業している、という訳ではなく、遊園地そのものらしい。

「そう、ですか。いや、勘違いしてました、すみません」

 何とか返すエンに、女は首を傾げた。

「別に、謝る事でもないけど……一緒に、遊んでくれるんだよ、ね?」

 いつもの優しい笑顔を引っ込め、少し心配そうに問う女に、男は精一杯の笑顔を向けて頷いた。

 ……事の発端は、二日前の昼間、だった。

 古谷ふるや家が代々守って来た山に建てられた、昔仕立ての一軒家で、エンは久しぶりに家の事に精を出していた。

 そこへ、二人の女が訪ねて来たのだ。

 一人は、今一緒にいるみやびで、もう一人は仲のいいメルだ。

 長身で、黒く長い髪を流した美人の雅とは真逆の、小柄で明るい栗毛の髪を持つメルは、時代の流れに順応し、今はバッサリと髪を切り、瞳の色と同じ翡翠色の石をはめ込んだピアスを、両耳に付けていた。

「お前もさ、もう少し人生楽しみなよ。髪は勿体ないから、切らなくていいけど、化粧するとか、ピアス嵌めるとか……」

「でも、穴を開けるんだろ? 痛くなかった?」

「今まで負った怪我に比べれば、屁みたいなもんだよ。それに、昔は、もっと処置が雑だった」

 女たちが、話を盛り上げる中、エンは静かに茶を出し、手軽な菓子も用意する。

 しばらく前から行っていた、ご無沙汰していた方々や、その親族にご挨拶をする作業が一段落し、今日からこの家の掃除に精を出そうと、いきり立っていたのだが、これからその機会はいくらでもあると、気を取り直して接客していた。

 実年齢も近いらしい二人は、年がかなり下の男のその接客に短く礼を言い、更に話し込んでいたが、雅がふと顔を上げた。

 客間に当たるこの部屋の奥の、仏間の方へ目を向けて、目を瞬く。

「あれ、あそこ、抉れてたっけ?」

「ん? どこ?」

 メルも振り返ってそこを見て、目を丸くする。

 そして、そ知らぬふりで部屋を出て行こうとするエンに、声をかけた。

「お前、あんなところを壊したのか?」

「人聞きが悪いですね、壊したんじゃないですよ」

 ついつい振り返り、訂正してしまった。

「迷い込んだ雀を外に出そうとして、当たっただけですよ」

「……雀?」

 朝方の事である。

 襖を開け放って空気を取り入れつつ、この辺りの部屋を掃除し始めたのだが、その時に、一羽の雀が飛び込んだのだ。

「一羽だけだし、昼もまだまだ先だったんで、直ぐに外に逃がそうと……」

 そう思って軽く手を振って、外へと誘導している内に、左手まで振るっていたのだ。

「……なあ、お前さ、そろそろその左手、治療を考えねえか?」

 事の次第を最後まで聞かぬうちに察し、メルが呆れたように切り出すと、雅も真顔で同調した。

「そうだよ、まだこの辺りは、野生の雀が多いから素早いけど、下手したら無駄な殺生するところじゃないか」

「そうなんですよ。しかし、ロンが、無理と言った、治療をするとなると……」

「キョウに頼むしか、なくなっちまうな」

 エンが困ったように言う言葉を受け、メルが頷くと、雅は眉を寄せて唸った。

「でも、その辺りの自信は、あるのかい? セイは、大丈夫だったけど」

「ありませんよ、これっぽっちも」

 ある若者が持つ力は、本人の体力を使うものだ。

 視力を失ってでも、死なせたくないと考えさせた相手ならまだしも、嫌っている義理の父の倅では、力を補おうとは思わないだろう。

「でも、そのままじゃあ、普通の生活だって、ままならないじゃねえか。いつまでも、待たせてんじゃ、ねえぞ」

 睨みながら言うメルに、エンはきょとんとして返した。

「待たせるって、誰が、待つんですか? ……ああ、そうですよね、いつまでもここで、ひきこもる訳にもいかないか。セイの安息の地、らしいですからね」

 性にも合わないと苦笑した男に、小柄な女は目を剝いて身を乗り出した。

「お前、本気で分かってねえのかっ? そんなはず、ねえよなあっ?」

「な、何ですか?」

「雅を、いつまでも待たしてっと、直ぐに他の男が攫ってくぞっ」

 ついつい目を見張ったエンは、そのまま雅へと目を向けた。

 見返す女も同じように、目を見張っている。

「私を攫う男って、いるのかな?」

「中々、難しいと思いますけど」

「ねえ?」

 顔を見合わせる男女に、メルは大袈裟に溜息を吐いた。

 呑気すぎる上に、老齢夫婦の様な和み方だ。

 まだまだ、そんな時期ではないはずなのに。

「お前らさあ、正直なところ、どこまで行ってるんだ?」

 ずばり、そんな質問をするが、そんな露骨な問いに、顔を赤らめる二人ではない。

「どこまでって……どう言う意味合いで、言ってるんですか? 意味合いによって答えが変わるんですけど?」

 穏やかに訊き返すエンに、メルは辛抱強く訊いた。

「どこか二人きりで行くとか、そういう、デートとかは、してねえのか、一度も?」

「行きましたよ、ねえ?」

「うん、行った行った」

 男の投げかけに雅が頷き、その友は少し顔を緩めたが、次の言葉で落胆した。

「あの時は、京都を通って、江戸の方に行ったよね」

「……それは、もしかしなくても、昔修業した時の、話か?」

「そうだよ」

 この二人、数百年前から、師弟の間柄である。

 年若いエンの方が師匠で、雅の方が弟子だ。

 本当は父親の後を継いで、剣術を習おうとも思ったが、それは弟分のかいが興味を持ったようなので、雅は気になっていた男が、全く別な分野を得意としていたこともあり、譲ったのだった。

 二人きりの旅、という色めいた事態から一年後再会した時には、何故かその色めいた部分をすっ飛ばし、熟年夫婦の間柄のような、今の空気の関係になってしまっていた。

 何故なんだっっ?

 メルは、内心頭を抱え込みたい気分だ。

 大体、この状況も、おかしいのだ。

 エンは、その少し前まで、雅の前から姿を消していた。

 左手に負った大怪我のせいで、生きる希望を失い、失踪したのだ。

 雅も追わず、もう死んだものと受け入れ、それでも沈む気持ちを外に伺わせていた。

 それなのにエンは、雅の前に再び姿を見せた。

 気まずい気分も薄れ、焼け木杭に火が付いてもいいはずなのに、その気配がない。

 メルは、この中で一番の年長だ。

 子供もいて、孫もいる。

 孫の娘の成長や、孫同然の若者の今後も気になるが、今一番気にしているのは、この二人の仲だった。

 年が近く仲のいい、只一人となった友が、幸せになってくれれば、メルは嬉しいのだ。

 意を決し二人を見た女が、顔を見合わせた師弟の男女に切り出した。

「これな、お前らにやる」

 言いながらポケットから出したのは、一枚のチケットだった。

 表面に可愛らしい絵柄と、その施設の名前が書かれ、カップル限定の文字が目立つように書かれている。

「何ですか? それ?」

れんが、バイトの土産に買って来た。カップルで誰かと行けってさ。オレには、そんな相手いねえから、お前たちにやる」

「お前らって……私たち? カップルに、見える?」

 きょとんとする雅に、困った顔のエンが返す。

「見えないですよ。オレじゃあ、あなたの相手としては、役不足です」

「いや、それはないけど、カップル? 甘々に見えるかな?」

「……見えるように、遊んで来いって、言ってんのっ」

 思わず強く言い、メルは半ば脅すように、言い切った。

「蓮が、折角買ってきてくれたんだから、行かねえんだったら、そのチケット代、払ってもらうぞ」

 話がおかしいと、エンが眉を寄せる。

「いや、そもそも、どうして、カップル割のチケットを、メルに買ってきちゃうんですか? あの人の買い物にしては、おかしくないですか?」

「お前、あの子の選んだもんに、ケチ付けんのかよ?」

「いや、そうではなく……分かりました、いくらなんですか? チケット代、払いますから……」

 そう話を落ち着けようとする、空気の読めない甲斐性なしに、メルは低い声で切り出した。

「お前さあ、雅に会いたくねえからって、匿ってやってた恩、いつになったら返してくれんだよ?」

 痛い所をついた女に、男は目を泳がせた。

「……別に、この人に会いたくないから、ではなく、どう言って戻ろうか、考えあぐねていただけで……」

「そのだけで、何年、かかってたんだったっけ?」

「百年」

 メルの問いに、優し気な雅の声が答えた。

「そう言えば、それの謝罪も、まだ聞いてないなあ」

 女がエンの顔を覗きこみ、優しく笑った。

「でも、ここに一緒に行ってくれたら、チャラでもいいかも」

「オレの方も、チャラでいいぞ」

 にやりとしたメルの笑い方は、血の繋がりはないはずの若者と、どこか似ていた。

 ……謝ってしまえば、良かった。

 止まりそうな足を叱咤しながら、エンは雅の横を歩いていた。

 緑の楽園、と言う意味合いの名を持つ、遊園地の中へ。

 気分は、楽園どころか、地獄に向かっているようだった。


 人減らし。

 かつての頭が、そう呼んだ祭りがある。

 覇権や領土をめぐる争いが大きくなり、戦になっていく例は、どこの国でもある。

 縄張り争いは、生き物の本能だ。

 だが、その時の頭カスミは鼻で笑った。

「人間の最も高い能力は、本能を抑える力のはずなのだが、それと背中合わせにある能力が、厄介なのだ」

 それが、屁理屈をこねる能力、なのだと言うから、人間はろくでもない生き物だと分かる。

 人同士で争うのは、人情を考えると躊躇うが、欲に飲まれた者はうまい言い訳を声高に唱え、人々を取り込んでいく。

「まあ、我々も、似たような言い訳を元に、人を集めてしまったのだが」

 正確には、拾った者が居つき始めたと言った方がいいが、カスミがそう前置きして切り出したのが、人減らしという祭りだった。

「押し込み先を探すにも、限度があるからな。多くなった仲間に、息抜きも兼ねて暴れて貰わんとな」

 そんな言い訳をして、カスミはその息抜き先を戦場に指定した。

 出来るだけ大きな戦の中で争う陣営に、仲間を分けて送り込み、互いに殺し合わせる。

 仲間は鬱憤を晴らせ、大幅に人数を減らせる、一石二鳥の祭りだった。

 それを始めた頃からいるロンとメルは、その祭りに紛れて危うい存在になりそうな仲間の息の根を、しっかりと止めて来るのが、習いとなっていた。

 カスミの思惑を引き継いだ二人は、この時もそれとなくこの祭りを切り出したのだが、それが群れの解体に至るとは、思いもしなかった。


 その祭りで、ジュリとジュラが逝った。

 寿命が近いと感じていた二人は、それぞれ思い描いた死にざまをして、思い残すことはなかっただろう。

 だが、後に残った者たちは、そうはいかなかった。

 ジュラの死に立ち会った男は、その遺体を守りながら戻る途中襲撃を受け、左腕を損傷した。

 ジュリの死に立ち会った若者は怒り狂い、その死を招いた者達と、自分に不満を持つ仲間たちを抹殺した。

 当代の頭であった若者は、怒りを治めた後群れの解散を告げたのだった。


 その一月後、それは起こった。

 戦の場から引き返し、日本の南部の田舎に身を潜め、ジュラジュリ兄妹を荼毘にふして、ようやく落ち着いた頃だ。

 生き残った仲間たちは、殆どがこの国の者ではない。

 若者の落ち着けそうな所がこの田舎の寺なのだが、この頃の日本はまだまだ容姿の違いに目くじらを立てる傾向があった。

 若者一人が髪色を誤魔化している分には目立たないが、それを大勢でやってしまっては、怪しい集団と丸わかりだ。

 よって、若者により崇信した仲間たちは、断腸の思いでその場から距離を取った。

 いつか、傍に戻って仕えられる時は、必ず舞い戻ると心に決めて。

 兄妹の二人と、他の者たちの葬儀を終え、仲間たちも去り、若者の周囲にいる者たちも、落ち着き始めた一月後、突然変調をきたした者がいた。

 若者の兄貴分で、カスミの息子であるエンが、料理の最中包丁を利き手から取り落としたのだ。

 野菜を切っている最中に取り落とすのも珍しいが、その後拾おうとした手が、固まったまま動かなくなってしまい、本人も呆然とした。

 表面上、利き手の左手は負傷から立ち直って見えるのだが、改めてその怪我の具合を見たロンは、眉を寄せて尋ねた。

「……エンちゃん、一体、何をしてこんな事になったの?」

 当時はそんな場合ではなく、怪我の手当だけをしてもらったのだが、エン本人もそれでいいと感じていた。

 あんなことをしでかした割に、そう重い怪我ではなかったと、安堵していた位だったのだが……。

「だから、何をしたんだ?」

 初めてその怪我の具合を見た雅が、優しい笑顔を浮かべてやんわりと尋ねた。

「……銃口に、手を突っ込みました」

「何の?」

 唖然としたメルの隣で、雅は全く変わらない声音で重ねて問う。

 その、いつもと変わらない笑顔がとても怖く、エンはつい首を竦めてしまいながらも、静かに答えた。

「近くで発砲しかかっていた、大砲、です」

「……」

「お前……いつから、そんな馬鹿になったんだっっ」

 ごもっともだ。

 あの時は、必死だったのだ。

 すぐ傍で息絶えたジュラを、妹の元に戻したいと、その為の障害は、全て握りつぶす覚悟で、目的地に急いでいたのだ。

 だが、あれがぶっ放されていたら、周囲を巻き込んだ大惨事だった。

 火薬に火がついたところに突っ込んでしまい、砲の中で爆発してしまったから良かったが、暴発して周りを吹っ飛ばしたから、結構な威力だったと思う。

「……でしょうね。神経を焼き切っている程だもの。無事だった神経も、この一月で壊死しているわ。これでは、良くなっても動かないかも。切り落とさなくていいだけ、まだまし程度にしか、回復しないかも知れないわね」

「……そんなに、酷いですか?」

 表面は、すぐに綺麗になったので、そんな大事とは思っていなかった。

「あなたの回復力を考えると、その位にしかならないわね。全く、馬鹿な事をして」

 ロンの声は、呆れより心配が滲んでいる。

 顔を俯かせる男を一瞥し、雅が静かにロンに尋ねる。

「生活に支障がない位には、治りそうですか?」

「それも、エンちゃん次第よ。治るとしても、それなりに努力がいるでしょうし、時もかかるわ」

 エンはその言葉に頷いていたが、落胆は抑えきれなかったのだろう。

 いつもの倍かけて家事をこなし、夕食の片づけまで済ませた後は、自分の部屋に向かって行った。

 つたなくなった男の腕を補う心算で、雅はその日家事を手伝っていたが、表面に出ないエンの傷心が気になっていた。

 その場を辞する男の後を追い、部屋の前でつい声をかけた。

「何か、力になれる事があるなら、何でも言ってくれ。私は……」

「大丈夫ですよ」

 女の言葉を、エンはやんわりと遮った。

 振り返ってしみじみとその顔を見つめ、静かに言い聞かせるように続ける。

「オレ自身の、問題なんですから、あなたが気にする事じゃない。それより……」

 やんわりとした拒絶を受け、言葉を失くした雅は、張り付いた笑顔を見上げたまま、その言葉を聞いた。

「守ると言う約束を、違える事態にしてしまって、すみません。これからは、あなたを守るどころか、自分が生き残れるかどうかも、怪しい。まあ、あなたほどになれば、オレなんかの守りはいらないでしょうが……」

 それでも、その約束があったからこそ、傍にいる言い訳になった。

 言いかけて口を噤み、エンは女を見下ろした。

「本当に、すみません」

 雅は、顔を伏せてから首を振った。

「随分前の約束事を、引きずっていたんだな。そんなの、違えた所で怒る理由がない」

 抑えた声が震えないように、雅は敢て声を籠らせた。

「君が言った通り、私はもう、そこまで弱くない。最近、そう感じるようになれたから……」

 ようやく、男の横に並べると、そう思っていたのに。

 まだ、気遣われている。

 頼ってもらえない。

 この思いに、人は何と名付けるのだろう。

 思いに飲まれたら、その場で膝を折り、泣き出してしまいそうだ。

 雅はその気持ちを無理やり抑えつけ、顔を上げた。

 穏やかな笑顔を見上げ、優しく微笑む。

「こちらこそ、申し訳なかった。あんな口約束を、まだ真面目に守ってもらえていたなんて、思わなかった。勿論、違える事なんか、気にしなくていい。まずは、君自身の事を、大事にして欲しい」

「はい」

「じゃあ、私は、今日は住処に戻る。お休み」

 挨拶の返事は、背中で聞いた。

 踵を返して足早に寺を出、まっすぐ住処へと走る。

 そうすることで、悔しさも悲しさも切り捨てられればと思ったが、山中に入ってもその想いは振り切れなかった。

 

 翌日、眠れなくて重い瞼を開きながら寺を訪れた雅は、慌てふためく家人たちにそれを聞いた。

 エンが、置手紙なしに、姿を消した。

 弟分であるセイをも残し、気遣う事もないまま姿を消したことで、雅はぼんやりと男の行く末を察した。

 もう二度と、生きたあの人を見る事は、無いのだろうと。


 自分の中に、留めておかなければならない感情だった。

 優しく微笑んで踵を返した雅の背に縋りつきたい気持ちを、エンは必死で抑えながら見送った。

 頼られる存在として、雅の前ではいたかったのだ。

 悪く言えば男勝りな女が、自分の前では愛らしい仕草をしてくれるのが、一目ぼれしてしまった男としては嬉しい限りで、甘えさせたいとは思っても、自分が甘えたいとは思っていなかった。

 だが、この時ばかりは、危うく縋り付いて泣き出したくなった。

 呆れられてもいいから、捨てないで欲しいと頼み込みたくなった。

 自業自得の怪我で利き手を使えなくなり、守り手としても男としても、役に立たなくなってしまったのだから、勝手な言い草だ。

 危ういところで留まったのは、それをしてしまった後の悔いが凄まじいと分かったからだ。

 呆れ軽蔑されるだけならいい。

 雅に世話をされる事で、回復に向かうなら、それもいいだろう。

 だが、もしも変わらなかったら?

 そのまま永く、女の世話になる事で、雅の様々な幸せな機会を逃す事態になったら?

 エンはどう考えても、邪魔者にしかならない。

 廊下の向こうにその背が消えた後も、エンは暫くその場に立ち尽くした。




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