4.カウンタージャンプの恐怖 ――2015年3月6日 その2【前編】

 世界ジュニアを優勝した後の、今年、2014―2015シーズン。

「15歳まではどんなに実力があってもジュニアカテゴリ」という決まりがある。この年齢制限によって、このシーズンのジュニア残留を余儀なくされた。まぁ、色んな意味で願ったりかなったりだったので、普通にジュニアの大会をこなしていった。


今シーズンの技術面での最大の課題は、ルッツジャンプの矯正だろう。


「今はこれでも成績が安定してるけど、エッジ矯正は早い方がいい。シニアに上がってからだと苦労するよ」

 これは実際に、ルッツを含む6種類のジャンプが得意だった堤先生の言葉だ。


 ブレードにはエッジが二つある。反時計回りで回転する選手の場合、ルッツジャンプは後ろ向きで滑って、左足のアウトサイドエッジを乗せて右足のトウを突いて飛ぶジャンプのことだ。逆に、インサイドエッジで踏み切って飛ぶジャンプはフリップという。左足で踏み切って飛ぶジャンプだが、フリップないし、他のジャンプと大きな違いがある。それは、アウトサイドエッジに乗ることにより、身体にかかる力と踏み切る力が逆になる、ということだ。


 この事からルッツはカウンタージャンプと言われている。


 さて。俺の問題は、ルッツの際、どうしてもインサイド気味になってしまう癖が抜け切れてないことだ。本来アウトで踏み切るルッツをイン――実質フリップジャンプになってしまったり、踏切の時のエッジが不明確だったりする場合、「エッジエラー」と判定される。こう判断されると当然減点されてしまう。これを判断するのはテクニカルジャッジの役割で、インサイドで飛んだジャンプを「エッジエラーのルッツ」とするか、「フリップ」とするかは審判次第。

 シニアに上がる前に、変な癖は直しておきたい。

 真面目にエッジ矯正をしようとすると、トウジャンプは試合でもかなり乱れた。試合でもフリップとルッツ、両方にエラーがつく場合もままあるわけで。

 シーズン中盤あたりでは手ごたえを感じていた。12月上旬のジュニアGPファイナルでは、何とかクリーンなエッジ判定を受けることに成功した。

 それでもまだインで踏み切ってしまう癖が顔を出すことが多かった。練習に練習を重ねて――

 ――まさか問題の左足ではなく、右足があんなことになるとは思ってもいなかった。



 *



 リンクに足を踏み入れて、右足に走ったのは違和感だった。右の滑りが悪い、というか、滑ろうと足を動かすと、その違和感がスケートの邪魔をするような感じだ。


「テツ、ちょっとルッツ飛んでみて。癖が出てるから」

 水を飲みに戻ってきた俺に、先生が指示を出す。


 右足のエッジチェンジ、ブラケット、スリーターンをはさんで後ろに向きなおす。左足のエッジを意識して、インサイドからアウトサイドに切り替えて――

 ――飛び上がろうと突いた右足に痛みが走る。金槌で直接骨をたたいたような。


 このまま3回回ったら、絶対に転倒する。――と、飛ぶ前の一コンマで考えたわけではないが、足がすでに警鐘を鳴らしていたのだろう。2回転で降りてきた。


「どうした? エッジは何とかアウトになっていたけど」

「ちょっとタイミングが合わなかったんです」


 規定上、ショートのルッツは3回転と定められている。本番で、回転を解いて2回転で降りてきてしまったら、GOEでかなりのマイナスが付く上に、プログラムの流れも切らしてしまう。演技構成点にも響いてくる。

転倒しても2回転以上の点数はもらえるのだ。

 ……右足が、笑えないぐらい痛い。


 *



 演技を終えて――右手で軽く、額をたたく。

悪い演技をした時のキス&クライほど拷問なものはない、と思う。それだけ最悪なものをやってしまった。


 ……最初のトリプルアクセルはステップアウト。

 フリップとトウループの3回転+3回転はどうにか決めたものの、後半の単独の3回転ルッツで、1.1倍にされた基礎点をもらうどころか転倒。尚、ルッツは明らかに回転が足りていない上での失敗だった。自分でもわかるぐらいだから、ジャッジは見逃すまい。3つのジャンプ中2つをミスってしまうと、それだけで点数に響いてきてしまう。痛む右足に負担を掛けないように、入口へと足を滑らせていく。


ミスが続いた後、もろもろの要素が重なって滑りそのものが慎重になってしまったことは否めない。後半のスピンとステップでも、仮にレベルが取れていても大きな加点は望めないだろう。

 ショートの曲は、ラフマニノフ。「パガニーニの主題による狂詩曲」の18変奏。フィギュアでもオーソドックスな美しい旋律だが、通常のピアノとオケによるものではなく、クラシックギターの編曲版を使用していた。気に入っているプログラムなだけに、不本意な出来になってしまったのが悔しい。


 苦い顔で戻ってきた俺にエッジカバーを渡した先生は、小さく頷くだけで何も言わなかった。

 だが、


「阿寒湖に飛び込みたい……」

「今の季節は無理だね」


 キス&クライに座ったあとの、ぼそっとした俺のつぶやきはしっかりと先生に聞かれていた。三月上旬だが、釧路の阿寒湖はまだ氷が張ったままだろう。


 電光掲示板に表示された点数。確認したところ、思ったよりもストレスを感じなかった。このぐらいで仕方がない、というのが正直な感想だった。演技構成点も、失敗した割には出たなと逆に驚いた。

 この時点で、最終組3人を残して5位。


「大丈夫だって。最終組に残れなくてもフリーで何とかすればいいのさ。今のルールだったら、フリー次第だよ。まぁ、ショートのアドバンテージも捨てがたいけどね」


 ……俺の性格を知ったうえで気楽に言ってくれているので、それはありがたい。言葉の中に、慰めの要素がないことにも。

先生はフィギュアスケートという競技の性質を言っているだけ。そして、スポーツだから時としてこういう失敗もありうる。それは何も俺に限ったことではない。


 問題なのは、今の俺がフリーの4分を滑りきれるかどうか、ということだ。


 キス&クライから立ち上がる。バックステージに設置されたテレビで、最後の三人の演技を確認する。

 最終滑走者が出てきた時点で、まだ俺は5位。その、最終滑走のイタリアの選手が、俺と同じぐらい冴えない演技を終えた。わずかに俺が上回って、5位。フリーの最終組には何とか残ることが出来た。


 男子ショートの結果は、ロシアのアンドレイ・ヴォルコフが、2位のアメリカ代表ジェイミー・アーランドソンに5点以上の差をつけて首位。3位にはほぼ無名のドイツ選手のミハイル・シューバッハが入り、カナダのアーサー・コランスキーが僅差の4位につけた。


 基本的にスケート選手は、自分の滑走の前に滑る選手の演技は見ない。だから、上位4人がどんな演技をしたかは、よくわからない。

 確信していることは、首位のアンドレイ・ヴォルコフが、その点数にふさわしい演技をしただろう、ということだ。


 ……俺に与えられた点数は、彼に追いつくにはかなり厳しいものだった。

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