2.肉まんとビデオテープ ――2006年3月18日 【中編】


「懐かしいな、ノーマルの靴だ」

「……じろじろ見んなよ」

「そー言うなって。近いうちにスラップにするの?」

「まだ早いよ。お金がかかるし、今はノーマルで十分」


 受付を済ませて、靴を履く。ノーマル、と男に言われたこの靴は、俺の持っているロングトラックの靴のことだ。一流選手必須のスラップスケート靴に行く前に履くものだとされている。

 今は小学生でもスラップを履く選手が多いが、小学一年でスラップを履くやつはそんなにいないだろう。大体、小学校の三年にもなると、大体ノーマルからスラップへと履き替える。

 ただ……スラップに履き替えるまで、俺がロングトラックを続けているかは疑問だ。少年団の先生には、運動神経がいいしいいところまで狙えると言われてはいたが、同じスケートでも、別の競技に惹かれている自分も確認していたから。


 釧路クリスタルセンターは通年開放のリンクだ。勝手についてきた(バス代は頂いたのだが)あの男はしばらく話しかけたあと、ちょっと用があるから、と言って再び受付へと向かっていった。

 三月の半ばで春休みになっていたが、ぱらぱらとしか客の姿はない。……わりといい時間に来た、と嬉しくなった。これで、十分に別の練習が出来る。トウガードをつけて氷上に降り立った。

 足首をしっかりまげて、腰を落とす。後ろで手を組んで、直線に滑る時の基本姿勢でゆっくりと体を慣らしていく。


 だんだんとスピードを上げていく。その横を。

 真っ黒な影が通り過ぎて行った。


 その影は、ぱらぱらとしかいない客の合間を、豪速で過ぎていく。一瞬たりとも両足で滑っている時間はない。自由自在にエッジを動かして、幾何学的な文様を氷の上いっぱいに描いていく。――描かれたトレースは、複雑すぎて意味が分からなかった。

 丁度人が開けたところで飛び上がった。……前向きに。ゆっくりとした回転で、しっかりと3回半回ったのがわかった。


 あのビデオの人と同じジャンプだった。前向きで飛んで、3回半回って降りてくる。

 20年以上前に活躍した、憧れのフィギュアスケーターと。


 端で暫く、その滑りをじっと観察していた。後ろ向きで滑る。右足だけで滑る。二つあるエッジで、内側のエッジに体重を掛ける。左足だけで何回も回る。端から端まで、片足だけで滑る。

 バス停であったあの男だった。俺に肉まんをせびった時のだらしない感じや、軽薄な感じはまったくなかった。真剣で、しかしスケートそのものを楽しんでいるような雰囲気があった。黒いTシャツと、黒のジーンズ。シンプルな私服でするすると滑っていく。


 本気で滑れば、純粋なスピードでスピードスケートの選手にフィギュアの選手が適うわけがない。

 だが、あらゆる動きを行いながら、という条件が付けば別だ。


 15分以上その姿やトレースを観察したあと、リンクから上がってロングの靴を脱ぐ。小銭入れの金と、一枚だけ残った貸靴無料券があるのと……帰りのバス代まで十分残っているのを確認して、貸靴コーナーに向かった。

 フィギュア用の靴を履いてリンクに戻る。まだまだ疲れを知らないようで、未だにリンクの端から端を細かく動いたり飛んだりしていた。


 フィギュアとロングトラックの靴は全然違う。ロングトラックの靴は、まずエッジが足の裏の長さを超えている。一般開放時にロングトラックの靴で滑る場合、必ずトゥガードをつけなければならない。事故を未然に防ぐためだ。


 小遣いに余裕があるときは、ロングの靴ではなく貸靴を利用していた。トウガードつけていても危険なのには変わりないし。それに……。

 前向きで、腰を落としてゆっくりと滑っていく。フォアで滑るのはロングでずっと練習していたことだ。スピードスケートは、基本、後ろ向きでは滑らないから。


 落とした腰の位置を上げて、腰を下げないで速く滑れるようになるまで、かなり時間がかかった。勿論、速いスピードで滑るだけではなく、そのスピードを保ったまま飛ぼうとする恐怖に慣れるまでも。膝を曲げて、身体とエッジを方向転換させる。……何とかバックでは滑れるようになった。


 再び向きをフォアにする。左足で踏み切って――氷の上に叩きつけられた。


 俺に出来るのはここまでだ。きちんと教わっただけではなく、一年に及ぶ観察の結果だ。後ろ向きですべる。前向きに切り替える。左足で飛び上がろうとする。――ちゃんと着氷できたことはない。原因が何か分からないが、やってみるしかないんだろう。

 もう一回。氷屑を払って立ち上がった。


「余計な力を抜いて、ジャンプの前にブレーキを掛ける感じでカーブしてみな」


 意識の外側から声がかかる。力、抜いたら飛べないんじゃないのか? 飛ぶ前に、一瞬止まるようなイメージなのだろうか。

ジャンプに入る前、力を抜いてエッジでカーブを作る。左足で飛び上がって――

「降りられた……」

 右足が、確かに氷を捉えていた。

 初めてだった。半回転宙を舞って、片足でちゃんと降りられたのは。



 ……リンクの縦長の窓から、茜色の光が差し込んでいる。開放時間は後一時間残っているけど、タイムリミットだ。五時までには家に帰るように言われている。


「君、どうやってそれ出来るようになった?」


 帰る前。リンクの外でバナナ牛乳を飲んでいたら、隣に座っていたあの男が聞いてきた。そういえばまだ名前を聞いていない。……そういう雰囲気でもなかったし。飛ぶ前に一言アドバイスを投げてくれたのは、こいつだったんだろう。


 身長は確かに高い。だが、あれだけ激しく動けるんだから、結構筋肉がみっちりついていると思っていたら、意外に細身だった。足の筋肉は違うのだろうけど。

 滑れるという環境以外、フィギュアに関しては俺にそろっているものは何もない。何せ、靴もなければ教える人間もいないのだから。


「ビデオとか、人が練習しているのを観察してたんだ」


 これが紛れもない事実だ。

 フィギュアのマネはスピードの靴ではうまくできない。これは経験からだ。エッジの形や靴の性質が、そもそも違うのだ。


 始まりは一年前。一本のビデオテープだった。押入れの中にしまったアニメ映画を探していた時、DVDに紛れていたふるいビデオテープを発見したのだ。表紙には「1985年、東京」と書かれていて、見なければ中身が明かされなかった。


 幸い、ビデオデッキは捨てられていなかった。気になってみたところ、それは20年以上前に東京で開催されたフィギュアスケートの世界大会だった。テレビ放送されていたものをわざわざ録画したらしい。祖父の趣味はスポーツ観戦だったが、録画したものを丁寧に残していたのは驚きだった。


 後から知ったことだが、祖父が一等のめりこんで観戦したのがフィギュアだった。なんでも、若い頃に札幌五輪のフィギュア競技を会場で観戦し、赤いドレスを着た銅メダリストの女性に魅了されたことがきっかけだったようだった。


 ビデオは何度も繰り返し見ていたらしく、画質が異常に悪くなっている。だが、画質なんて気にならなかった。


 旧ソ連の選手だった。それまで俺の中のスケート、というものは、前向きに滑ってスピードを競うものだった。


 だが、その選手は。一切のスピードを落とさずに、複雑怪異な足の動きをしながら、飛んでは回って、そしてまた後ろ向きになって滑って、足を再び複雑に動かして……。4分半を見終わった時には、頭がぼうっとしていた。


あの動きはどうやったらできたんだろう。スピードスケート並みに速いスピードを保ちながら、どうやってあの動きをするんだろう。無尽蔵なスタミナと、流れて止まることのないあの演技は。……ただ、前向きに滑るだけでは、あの技術は持つことはできまい。


それ以来、ビデオを見返しては同じ動きをまねようと努力した。後は、たまにこのリンクが行っている短期間のフィギュア教室で教えていることを、聞いたり観察したり。スケート少年団の合間を縫ってこっそりと練習していた。……スケートリンクの無料券をもらったりもして、浮いたお金でフィギュア用の貸靴を借りた。

さすがに一年で、それも子供の俺があんなことをすぐに出来るとは思ってない。が……。それでも限られた時間の中で何度も何度も練習するうちに、後ろ向きに滑るのと、半回転だけは習得できた。


 俺はフィギュアに興味を持った経緯を、懇切丁寧にその男に教えた。

 何故かにやにやと笑われたが、不快には思わなかった。


「何で笑うんだよ」

「いや、だって俺が君ぐらいか、それより小さい頃の世代だよ? よく見つけたね」

「……あんた、結構年いってんだな」

「失礼な。俺はまだ23歳だよ。まぁ……君、なんて名前?」

「鮎川哲也」


 そういえば自分の名前も名乗ってなかった。名乗るような雰囲気でもなかったのだけど。

 バス停で会った男は、コートのポケットに手を突っ込んで何かを俺に渡してきた。


「興味あったら、見学においで。あー、腹減った。俺も帰るかなー」


 手渡されたのは一枚の名刺だ。漢字は難しかったけど、丁寧に読み仮名が振ってあったから何とか名前を確認することが出来た。ツツミマサチカ、というのが本名らしい。


 名刺の裏を見た。当時は読めなかったが、今なら何と書いてあったかはっきりわかる。―98年長野五輪日本代表、02年ソルトレイクシティ五輪5位入賞。02年、03年世界選手権銅メダル、04年世界選手権銀メダル。05年引退。現在はプロスケーター、そしてコーチとして活動中、と。



 ――それが、7歳の頃。今の先生との初めての出会いだ。

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