この世の果てのマリィ

高山しゅん

追憶

20XX年9月 東京・渋谷

「この渋谷において、最も美しいものはなんだと思う?」


 松濤しょうとう1丁目の細い路地を山手通り方面に向けてゆっくりと歩きながら、マリィ博士は隣の少女に尋ねた。


「なんですか博士。酔ってるんですか?」

「まあまあ、いいから答えたまえよ」

「うーん……」


 中学生になったばかりといった容姿の少女は軽く首を傾げると、ちょうどタイミング良く視界に入ってきた学校のグラウンドを指差した。


「若者たちのきらめき、とか」

「フッ」

「いま鼻で笑いました?」

「心にもないことを、と思ってね」

「えーいいじゃないですか。ギラギラしてて、胃もたれしそう」

「それに関しては同感」

「で、正解は何なんですか?」


 ねるように催促する少女を見て、マリィ博士はほんの少し口元を緩めた。


百日紅サルスベリの花だよ」

「……なにかの比喩ですか?」


 少女は念のためキョロキョロと辺りを見回すが、それらしい木は見当たらない。


「文化村通りの街路樹さ。来る時に見ただろう?」

「覚えてませんよ。人すごかったですし」

「そりゃ残念。赤や白の花が長い間咲き続けるんだ。とても美しいよ」

「それが、渋谷で最も美しいもの?」

「いかにも」


 少女は騙されたような、がっかりしたような顔をして見せた。


「それって……博士の主観じゃないですか」

「何を言っているんだねクモザキくん。美醜なんて主観でしか語れない事柄だろ?」

「それなら、あたしが最初に言ったきらめきだって正解じゃないですかー」

「きみが本当にそう思っているなら、そうだろうね」

「……ま、思ってないですけど」


 クモザキ助手はぺろりと舌を出して見せた。

 自分が年相応の感性を持ち合わせていないことは先刻承知なのだ。


「だろう? まったく、きみはその歳で達観し過ぎだよ。もう少し子供らしさを発揮してくれてもいいんだぜ?」

「らしさって言葉、あたし嫌いです」

「お、今のはちょっと子供らしかったな」

「もー!」


 夜の渋谷とは言え、人々が集まる華やかな通りから一本も二本も離れた道はとても静かだった。

 どこからともなく夜の虫の声が聞こえてくる。時折すれ違う人も、黙々と帰路を急ぐ大人たちばかりだ。

 しつこい残暑もようやく少しは落ち着いてきたのだろう。並んで歩くマリィ博士とクモザキ助手を撫でる風は涼やかで、どこか枯れ葉のような香りが含まれていた。


「博士、なんか駅から離れていってません? この道で合ってます?」

「合ってないよ」

「堂々と言うなこの人は……こんな時間に未成年を連れ回してたら逮捕されますよ」

「そりゃ勘弁願いたいね。でも、もう少しだけ付き合っておくれよ。私はねえ、あのひしめく人間たちの中に割って入っていくのが苦痛でならんのだ」


 大げさに手を振り上げ天を仰ぐ博士をちらりと横目で見ながら、クモザキ助手は、ああ、やっぱりこの人ちょっと酔ってるなと思った。

 もういい大人なのに、本質はとても子供っぽい人なのだ。時々自分の方が保護者になったのかと錯覚してしまうほどに。


「それでわざわざ遠回りしてるんですね」

「まあね。あーあ、下らない会食なんて来るんじゃなかったな」

「そういうこと言わないで下さい」


 いいですか、とクモザキ助手はぴっと人差し指を立てて見せる。


「コアからエネルギーを取り出すなんて馬鹿げた研究をしてる博士みたいな変人に、決して少なくないお金をドブに捨てるかの如き覚悟で捻出してくれている奇特なスポンサー様が、さらに高級料理まで奢って下さるっていうんですよ? 笑顔で感謝しつつ靴を舐めるくらいしないと」

「ちょっ、クモザキちゃん? なんか毒が強いよ!?」

「なんだかんだ言いながらたらふく食べて頭ぽやぽやしてる博士には、ちょうどいい薬なんじゃないでしょうか」

「まったく優しい助手だよ。愛がみるね」


 やがて左手に見えてきた公園の入り口に、マリィ博士はごく自然な足取りで入っていった。クモザキ助手はやれやれとため息をつきながら、黙って後に従う。遠回りをしたいという博士の希望ならば仕方がない。


「でもあのスポンサーの人……カナザワさんでしたっけ、変わってますよね。いつも会食に息子さんを連れてくるなんて」

「あー……そうねえ」


 足元がおぼつかない暗さの中で下りる急な階段は足を滑らせそうで、クモザキ助手は無意識のうちにマリィ博士の服を掴んでいた。それでも喋り口調はいつも通りに大人ぶっていて、そのギャップの可愛らしさに博士はこっそりと笑みを漏らした。


「見た感じ、小学校3、4年生くらいでしたかねー。別に一人でお留守番できないような歳でもないでしょうに」

「ま、おせっかいなのさ。あいつは」

「? どういう意味です?」

「さーてねー」

「博士はいつも肝心なことを教えてくれないんだから……」


 夜の池は闇に沈んで何も見えなかったけれど、サワサワと木の葉を擦りながら通り抜ける風は、ここが渋谷であることを一瞬だけ忘れさせてくれるようだった。


         ◆


 1995年、ブルキナファソの鉱山から発見された半透明の水晶玉のような物体……俗にコアと呼ばれることになるそれは、単なる鉱物ではなく、見た目に反して非常に複雑な構造をした人工物、いわゆるオーパーツであることが調査によって判明した。

 このコアは集積回路に似た性質のものであるらしいということまでは分かったものの、ではそれをどのようにして利用するのか、その方法の取っ掛かりすら掴めない状況だった。

 そしてその翌年、世界中のあらゆる地域で同時多発的に、このコアと同じものが出土するようになった。

 鉱山はもちろん、ボーリング調査の現場、解体した家の基礎部分、果ては田んぼの泥の中から。常識的にありえない場所から次々と見つかるコアは、明らかに何らかの異常事態を感じさせるものだった。


 ある研究者は言った。

 未来からの干渉を受けた可能性がある、と。

 熱力学的に不可能とされている時間遡行そこうについて真面目くさった顔で言及する研究者を、しかし笑い飛ばせる者はさほど多くなかった。

 この異常事態は明らかに、そんなフィクションめいたことでも起きなければ説明がつかないというたぐいのものだったからだ。

 鍵はコアにある、と誰もが思った。

 1995年の時点では10年先まで予約が埋まっていた研究対象は、幸いなことに、今や掃いて捨てるほど有り余っていた。

 我先にと研究者たちはオーパーツを手に取り、世界中の誰もがその未知の物体の動向に注目していたが――やがて、その熱狂は緩やかにいでいった。


 2000年代に入った現在でも、コアに関する研究の行き着く先は見通せない。

 しかし、どうやらそのちっぽけな水晶玉は今すぐに我々の生活を激変させるような夢の物質ではないらしいということは、徐々に一般の人々へと周知されていった。

 そうして少しずつ、人の意識は日常へと戻っていく。

 結局の所、地殻変動が起こったわけでも、宇宙人が襲来したわけでも、世界規模の疫病が蔓延したわけでもなく、ノストラダムスの大予言はなかったことになり、使い道のよく分からないオーパーツが大量に出土し続けていること以外は、これと言って世界に大きな変化は起こらなかったのだ。

 当たり前の今日が終わり、きっと明日も続いていくのだろう。

 誰もがそう信じていた。

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