第44話

 開け放たれた窓から燦燦と光が注いでいるのに、ボクは待ち合わせの一時間前に目を覚ました。ヘッドフォンを取って寝ぼけた頭を生ぬるい水でなんとか起こす。鏡に映るのは相変わらず冴えないボクの顔で、左頬はまだ少しばかり腫れているように見える。


 ガーゼか何かしていこうかと思い、それを却下する。そんなことをすれば、きっと葵は気にしてしまうだろう。あぁいうことは思い出さないほうがいい。


 そしてスマホの時間を見て、冷静に焦っていた。指定の駅までは二十分。ということはあと十分ほどしか時間の猶予はないということだ。


 さっさと用意を済ませて家を飛び出す。サンダルで三歩ほど歩き、Uターンをして家へ戻る。多田から事前にライブの時はスニーカーで来た方がいいという教えを思い出し、急いで靴下に足を通してスニーカーに履き替える。


 駅までを走り改札をくぐると息が上がって苦しい。夏の十五時半の全力疾走は、ボクから滝のような汗を発生させた。

 ホームにある自販機で水を買っていると、また前みたいに肩を叩かれた。PV撮影時のようなお下げにTシャツと黒のスキニー姿の凜が笑っていた。


「こんにちは。すごい汗だね?」


「寝坊してな」


 水を一気に飲み干すと、タイミングよく電車がやってきて乗り込む。冷風がボクの汗を引っ込ませて、むしろ濡れた背中が冷たいほどだった。

 空いた電車の椅子に腰かけると、後は勝手に目的地まで運んでくれる。Tシャツの襟元を仰ぐと、冷風が腹まで流れてきてそれがやけに心地いい。


「あれ、ほっぺ腫れてない?」


「え? あー、昨日ちょっと帰る時に、こけた?」


「小泉くんもこけたりなんてするんだね」


 おかしそうに笑う凛に、ボクは咄嗟に嘘を吐いた。昨日のあの出来事なんて、なくていい。誰も知らなくていいんだ。そういえば人に嘘を吐くのも初めてだな。

 震えたスマホを取り出すと、倫太郎から連絡が入っていた。


『開場三十分前までには行くから!』


『わかった』


 簡素なやり取りを終えると、凜は不思議そうに目を丸くしていた。


「ごめん、見えちゃった。誰かと待ち合わせしてるの?」


「約束なんだ。アイディア提供料の支払い」


「ふうん……?」


 目を丸くしたまま、ベッドタウンを通り越して都会へと近付いていく。街はすぐそこだった。そこに葵はいる。


「ね、小泉くん」


「どうした」


「好きな人、できた?」


「え?」


 凜は少しばかり悲しそうな、それでも必死に取り繕うように笑っていた。


「前よりなんか、よく笑うようになったなぁって思って」


 優しそうに微笑む凛に、ボクは数瞬考える。鑑賞会をした日、ボクは確かに好きな人なんていないと言っていた。ボクはあの頃からきっと葵が好きで、それを自覚していなくて。だからボクはもう胸を張って言える。


「……あぁ。出来た」


「そっか。そっかぁ……」


 太陽が照り付けて窓から光が降り注いでいる。ボクも凜もずっと窓の外を眺めていた。アナウンスが目指していた駅はもう次の停車駅と伝える。いそいそと降車に備え、ボクらは街の大きな駅に降り立った。


 改札を出ると既に葵が待っていて、ボディラインが強調されるキャミソールにショートパンツ、そしてスニーカー。小さなボディバッグを胸元に下げて、腕にはラバーバンドがいくつか付けられていた。アップにされた髪は、胸元が涼し気な分いつもより露出が激しく見える。


「時間ピッタリじゃんね! さ、行こ! 物販始まってるよぉ!」


 どぎまぎするボクをよそ眼に、意気揚々と先陣をきって葵が歩き出す。ボクは少し後ろを歩く。二人の姿があのPVを思い出させる。徐々にキルハイのTシャツを着た人が増えてきて、そんな人たちが皆ちらちらと二人を見ていた。


「な、なんか視線を感じるよ葵ちゃん……」


「だってもうPVの再生回数一万いってるんだよぉ? あたしらが出てたんだから、そりゃあ目立つっしょ~!」


 快活に笑う葵の腕に絡みつく凛に、葵は何も気にしないと言わんばかりに歩を進める。そしてようやくついたライブハウスには、既に大勢の人がいた。


 キルハイとピエロの物販では人の多さが目に見えるほど違ったが、ピエロのグッズをちらほら身に着けている人もいて、ボクはなんだかくすぐったい気持ちになった。メンバーでもないのに、こんな感情は間違っている気もするが。


「さ、行こ~! 二人とも何か買わないのぉ?」


 そして迷わずピエロの物販列に並ぶ葵に連れ立ち、ボクたちはピエロの物販物を吟味する。ミニアルバムのジャケットが前面にプリントされ、バックの襟元にピエロのロゴが印字されているTシャツを三人で買い、葵はその場でTシャツを着る。


 葵はそれに追加でラバーバンド。凜はミニアルバムを購入していた。ボクはといえば流されるがままTシャツを購入し、せっかくだからと汗に濡れたTシャツから真新しいTシャツに袖を通した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る