ピストル・スターに届かない

時任時雨

1話

 現実から離れた人を見ると、独特の息苦しさを感じる。キャンバスという世界に閉じ込められているからだろうか。理由はよくわからないけれど、とにかくそんな窮屈な世界を見ることに私は楽しみを見出すことができない。私は人物画を楽しめるタイプの人ではないのだ。

 だから、その誘いに乗ったのはたぶん気まぐれ。


「……ほぁー」


 何を考えているのかわからない、曖昧な声を出してみた。何かそれっぽい感じがする。こう、絵を見て何か感銘を受けていますみたいな声。あいにくと私の感受性はそこまで豊かではない。絵を見て、そこから受けた感情は自分の世界には繋がらない。


 どうしてそれなのに美術展なんてしゃれた場所に来ているのか。その答えは男友達に誘われたからである。チケットが余ったから一緒に行かないかという話だった。普段ならこの手の誘いは断っているのだけれど、どういうわけか先週の私はOKを出してしまったのだ。気まぐれとしか言いようがないだろう。


「楽しいか?」


 私の様子を見かねたのか、彼はそんなことを聞いてくる。気を使わせてしまって申し訳ない。


「正直、そこまで」


 風景画でもあれば少しは楽しめたのかもしれないけれど、今回の展示は人物画がメインのようだった。苦手なものを見せられて楽しい気分になる人はいない。


「ごめんな、何か付き合わせちゃって」


「私こそ。今は『ううん、楽しいよ』って言うべきだった。ごめん」


 まあ気を使わせている時点でちょっと楽しめてないなということは感づかれているだろうし、そこを誤魔化してもという話だ。今更過ぎる。


「そういうとこあるよな、茜って」


「そういうとこって?」


「取り繕わないというか、正直というか、素直というか。とにかくそんな感じ」


「そうかなぁ」


 自分ではそんなつもりはないのだけれど、周りから見たらそう見えるらしい。


「俺はお前のそういうところ、好きだけどな」


「そう? ありがと」


「…………」


 何かおかしかっただろうか。彼が絶句している。


「どうかした?」


「何でもないよ。次行こうぜ次」


 美術展はほどほどに。何かちょっとオシャレなカフェで昼をすませ、そのあと軽く買い物をしてその日の外出は終わった。帰りの電車に揺られながら、今日のことを振り返って話をする。彼も私も話し上手というわけではないけれど、普通に会話出来ていたと思う。


「なんだかんだ楽しかったよ。それじゃーね」


 私と彼は降りる駅が違う。先に降りるのが私だ。てきとうに手を振りながら彼に別れを告げる。けれど別れを告げたのに、彼はそこにいた。


「こっちに用事あるの?」


 降りるとは聞いていなかったので、少し驚きながら質問してみる。その質問には答えず、彼は神妙な顔をしながらこんなことを言ってきた。


「茜はさ、人を好きになったことってあるか?」


 人のいない無人駅に、ピンと糸が張り詰めた気がした。


「あるけど、どうして?」


 彼が振ってきたのはよくわからない質問だった。生きていれば人を好きになったり嫌いになったり、大抵の人はそういうことを経験すると思う。


「そういう意味じゃなくて。人を恋愛対象として見たことがあるかって聞いてる」


「恋愛ね……」


 だからこの手の誘いは断っていた。こうやってめんどうくさいことになるから。


「正直に答えるなら、わかんないよ」


 私にはわからないのだ。人を好きになるということ、人に好かれるということが。もちろん辞書的な意味でならいくらでも説明できる。けれど経験としてそれを語ろうとすると、途端に私の口は重くなっていく。それでも何とかして彼にこのことを伝えた方がいいと思った。


「ほんとによくわかんないんだよね。一緒にいたいと思えば好きなのかな。それとも話したいと思うのが好きなのかな。心、体? どっち? ていう感じというか。何をもって私がその人のことを好きになったっていうことになるのかなー、みたいな。人に好かれるってどういうことなんだろうな、とか」


 我ながらさすがに口下手がすぎる。何を言いたいのか結局よくわからないけど、なんとなく伝わったかなと思い彼の顔を見る。


「俺は茜が好きだよ」


「美術展でも言ってたよね、それ」


「友達としてってことじゃないからな、あれは」


「言わなきゃわかんないよ。言われなきゃわかんない」


 言われたってわからない。


「だから今言ってる。俺は茜が好きだって」


「やめてよ」


 だから、気まぐれ。

 こんなことになるくらいなら、最初から行かないって選択を取るのに。


「私はわからないから。だから、ね? やめて」


 いつも最初から言っているのに、みんなそうだ。心のどこかでみんながわかっているものと考えている。恋愛というのは普遍的なものだと思っている。高校二年生になって未だ初恋すら経験したことのない私に、その前提は重く伸し掛かる。


「……ごめんな」


 しばらくの沈黙の後、苦みの走った表情で彼は駅を離れた。そんな顔をさせてしまったことに胸がちくりと痛む。


 もしかしたら私は気まぐれなんかではなく、今の自分ならわかるかもと思ったのだろうか。とんだ思い違いだ。結局彼の言う『好き』もわからなかったし、自分の『好き』もわかっていなかった。そんな思い上がりで彼との交流を失うなんて、本当にバカみたいだ。


 私に恋はわからない。そのことをなんとなく考え始めたのが小学六年生の時だろうか。同級生との話についていけなくなっていた。誰が誰を好き、告白した、振られた。そんなことが話題になり始める。


「わからない」というのはそのときから抱えている、悩みのようなものだ。たまに男子に告白されることはあったし、一度は付き合ってみたこともある。それでも全然その人のことを好きにならなかったし、その人が私に向ける好きという気持ちもついぞ理解することは出来なかった。


 告白してきた人は自然と私から離れていく。断られたら気まずいし、私だって断った人にどうやって接していいかなんてわからない。自然に接しようとして、自然に接しようとしていること自体が違和感を生んで、そのまま距離感がぎこちなくなって疎遠になる。


 そんなごたごたしたものを生んでいるのは何か?


 恋愛感情だ。


「でも、本当にわからなくていいのかなって」


 わからないなりに生きていくことくらいは出来るだろう。異性から距離を取って、事務的なやり取りだけにしていけばいい……そうやって割り切れないから、今日みたいなことが起こるのだろうけれど。


「明日から誰と話そうかなぁ」



 〇



「茜先輩、好きです」


「…………な、なんで?」


 思わず聞き返してしまった。


 唯一のクラスでの友人である彼と気まずくなった翌日、私は放課後に後輩に呼び出されて、月が綺麗ですねを受けていた。なんで? とも言いたくなる。『これからは人と気まずくならないようにがんばろう』と決意した矢先なのだ。


「なんで、ですか」


 後輩は首を傾げながら思案している。その動きに合わせて肩のあたりで切りそろえられた、明るい茶色の髪がさらと流れた。


「まず先輩はかわいいですよね」


 かわいい、と来たか。


「私がかわいいっていうことが、私を好きってことに繋がるの?」


「えーと、まあ理由の一つと言いますか。方程式の一部だけ見せられても解は見えないじゃないですか。そういうことです」


 例えがよくわからないけれど、恋愛を方程式とか言い出した人は初めてだ。妙に淡白というか、後輩からは熱を感じられない。とりあえず質問を重ねてみる。


「じゃあ他にも理由があるってことだよね」


「聞かれれば答えられますけど、意味ありますか?」


「意味とな」


「好きな理由なんて全部後出しジャンケンですよ。それよりも先輩はどうですか。わたしの告白に対して、何か思うことはありますか?」


 思うことはある。もちろんある。何故なら、だって。


「思うことっていうか、私、女子から告白されたのは初めてだから本当に何もわからない」


 今までとは『わからない』の質が違った。同性からの告白なんて今まで生きてきて一度たりとも受けたことがないし、しかもそれが仲の良い後輩とくればさすがに戸惑ってしまう。


「昨日も告白されてましたよね」


「それはそうだけど、というか何で知ってるの」


「なら女子から告白されたことくらいあるのでは。茜先輩魅力的ですし」


「いやないよ。だいたい、私は好きっていう気持ちがわからないし……」


 またこれか。また気まずくなって疎遠になって、それを繰り返すのか。けれどここで嘘を吐くのは絶対に違う。考えているうちに、全く同じだということに気づく。

 結局何もわかろうとはしていないのではないだろうか、私は。わからない、わからないとうそぶくだけで何かを変えようと努力をしたことはないのかもしれない。

 言葉に詰まっていると、後輩はなんだそんなことかと言わんばかりに言葉を紡ぐ。


「なら簡単です。わたしが先輩に好きって気持ちをわからせてあげます」

 

 それは今までにないタイプの返答だった。わからないって言うと大抵の人は断るための方便と受け取って、本当のことだとは思ってくれなかった。


「なるほどなるほど。後輩が私に好きという気持ちををわからせてくれると……具体的にはどうやって?」


「話が速い先輩は好きです。具体的に、と言われると何と答えたものかっていう感じですね」


 顎に手を当てて思案に入る後輩。うつむいている彼女の顔を見ると、眼鏡越しに見えるまつげが長いなーとか鼻筋がスッと通ってるなーとか、余計な思考が浮かんできた。それをばっさりと断ち切って、思い浮かんだことを口にしてみる。望んでいることではないけれど。


「じゃあ、さ。後輩にとっての好きっていうのを、教えてくれる?」


 努めて明るく言おうとしたが、出来ていただろうか。人の好意を理解することのできない私にとって、他人の『好き』の定義を聞くことはかなりつらい。拷問とまではいかないけれど、興味のない人物画を延々と見せられているようなものだ。

 後輩はきょとんとした顔になったあと、軽く微笑みながら言う。


「先輩の嘘はわかりやすいですね」


「やっぱりバレちゃうか」


「はい、まるわかりです。先輩がイヤならわたしは諦めますよ。先輩が恋という甘い禁断の果実を知らないままでいいなら」


「なんかその言い方だと私、それを知ったら追放されそうだけど」


 かじったら無垢を失って神に追放される、という話だっただろうか。うろ覚えだ。


「わたしたちはアダムとイヴじゃありません。女と女ですし、追放されるなら楽園からじゃなくて一般社会からになりそうです」


「……そうかな? 最近は同性愛も市民権を得ていると思うよ」


 少なくとも表立って批判されるようなことはなくなったと思う。性同一性障害や同性愛、無性愛者などなど。それらのマイノリティに対しての理解はここ数年でだいぶ進んだはずだ。


 一時期自分がその手のどれかなのではないか、と思って調べたことがあるから多少はくわしい。結局どれも私とは違うような気がしてわからなかったから、収穫といえば知識が増えたことくらいだ。収穫が何もないよりはよかったと思っている。


「それでも少数派ですから。というより、わたしはレズじゃありませんよ」


「え、じゃあ何なの。バイセクシャル?」


「先輩が好きなだけです。今まで先輩以外に好きな人いませんでしたし」


「それはそれは」


 最初に好きになる人がこんなめんどうくさい人間で申し訳ないと思うと同時に、何が今まで『好き』を感じなかった彼女を変えさせたのだろうという疑問が湧く。


「もしかして後輩も、好きっていう気持ちがわからなかったことがあるのかな」


「そうですね、先輩に会うまでは。それで悩んだことはなかったんですけど、自分みたいな人は少数派だろうなっていう自覚はありました」


 もしかしたら似た者同士惹かれたのだろうか。いや、私が後輩を好いていることは確かだけど、そういう意味での好きではない。


「それで、どうしますか先輩。わたしは断られても返事をしなくても先輩から離れるつもりはありませんけど。出来れば何らかの回答を示して欲しいな、と思います」


 後輩からはこのやり取りの途中も熱を感じることができなかった。けれど、彼女が本気だということは目が語っている。今までと全く違うのに、その瞳だけは今までと同じだった。


 どこか冷めているのに、ものすごく熱い。

 その熱が私には熱すぎて、眩しすぎて、つい目を逸らしてしまいそうになる。


「……けど、ここで逃げたら前といっしょだなぁ」


「先輩?」


「わかった。返事、する」

 

 たぶん後輩なら私をぶつけても大丈夫だと思う。思った。根が私と同じだったからこそ、理解してくれると信じる。それでダメだったらどうしようもないんだけど。言ってもわからないし、言わないと伝わらない。


「まず後輩とは付き合えない。少なくとも、今は」


 目の前の彼女はそんなことはわかっているというようにこくりと頷く。


「だけど代わりというか、何て言っていいのかわからないな……えっと、これからも友達というか、先輩後輩のままでいたいというか。そうじゃなくて、うん」


「さっき言ってたことですよね。言われなくてもわたしが先輩に、『好き』っていう言葉の方程式を教えてあげますよ」


 そうしないと先輩には受験資格がないわけですし、と続けた。そのよくわからない勉強的な例えはともかく、言いたいことを先回りで言われたので消化不良感が残る。


「なんか私が先輩なのに、主導権を握られてる気がするなぁ」


「別にいいじゃないですか」


 今まで見たことないくらいきれいな笑顔で後輩は言った。


「これからはわたしが教えてあげる側になるんですから」


 この日から私と後輩の、ちょっと変な関係性が始まった。


 どういう風にことが運ぶかはわからないけれど、私を好きになったことを後悔させないようにしたいなぁと思う。そもそも私は好きがわからないから、まずはそこから。


「めんどうな先輩でごめんね」


「先輩のそういうところも好きなんですよ」


 本当に、口の減らない後輩だこと。

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