一枚の銀皿

きょうじゅ

カウディオの槍くびき

「その男を獄から引き出せ」


 私がそう命じると、牢番の兵士は無言で小さく敬礼し、牢の鍵を開けた。すると、中にいた男がのっそりと起き上がり、億劫そうに、しかし丁重にこちらに向かってローマ流の礼節の仕草をする。


「これは、マゴーネ閣下。お久しぶりです。また拷問ですかな。これ以上、今さら何の話すべきことも残ってはいないと、以前に申し上げた通りですが」


 この男の名はレグルス。マルクス・アティリウス・レグルス。かつてローマの執政官として軍を率い、チュニスで行われた戦いにおいてわがカルタゴ軍に敗れて虜囚の身となり、以後五年ほどの間、ここカルタゴ市の政治犯収容所に収容されていた。


「違う。お前を拷問しに来たわけではない」

「では、処刑の日取りでも決まったのでしょうか」


 そう言いつつ、男はかすかに微笑んですらいた。まったく、ローマ人という奴らは。


「それも違う」

「だからといって、まさか釈放というわけでもないでしょう」

「それが、半分はそうなのだ。これはカルタゴ議会の決定によるものだ」

「まさか」


 流石に驚いたようだった。レグルスの片目が、一瞬だが大きく見開かれる。


「そのまさかだ」

「というと、わたしはローマに帰れるのですか」

「里心があるのか」

「そりゃあ、無くはありません。ローマの将軍といえどもね」

「帰れると言えば、帰れる。ただし、条件がある」

「そうでしょうね。どういった条件でしょうか」

「我々の戦争 (第一次ポエニ戦争)はまだ続いている。お前は、ローマがシチリア島を完全放棄しイタリア半島まで撤退するという条件のもと、カルタゴとローマの間に和議を結ばせなければならない。講和が成ったら、お前は釈放だ。そのままローマに帰国してよい。講和が成らなかったら、或いはこの任を拒むのならば、お前は再びそこの牢獄に繋がれ、ゆくゆくはバール・ハモン神への生贄と捧げられることになるだろう」


 そう言われて、レグルスは考えているようだった。


「まあ、今すぐ去就を決めずともよい。ともかく、食事と風呂の用意をさせる。講和使節を務めてもらうとなれば、それなりの装束格好というものがあるからな」

「分かりました」


 そういうわけで、カルタゴの外交官であるこの私、マゴーネの屋敷に、レグルスを連れていくことになった。

 まず、レグルスに現在の戦況を教えなければならない。五年も牢獄にいたのだから、そのあいだ戦況は様々に移り変わっている。一番最近の一番大きなニュースと言えば、もちろんそれはローマ艦隊がシラクサ沖で嵐に遭って230隻の戦列艦のうち150隻を喪失したという一件だ。その話を聞かされたとき、レグルスの目は沈鬱そうであった。

 そのほか、嘘を教えても後でローマ人と討論する際にボロが出るだけだろうから、嘘偽りはなく、包み隠さずもろもろの戦況を細大もらさず語る。


「温かい食事と風呂テルマエのもてなし、感謝いたします、マゴーネ閣下。お話は分かりました。確かに、ローマにとってもここは講和のしどころでしょう。その任、引き受けさせていただきたく思います」

「そうか。そう言ってくれると助かる」


 話はその線で進められることとなった。講和使節としてローマに向かわなければならない。もちろん、私も。

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