タイムパラドクスな八畳大学生の恋

夜凪ナギ

√1 別れ

「中島さん、私たち別れましょう」


 最後にそう言い残して、僕の彼女、吉村さんは去っていった。


 そして僕はこの八畳一室の薄汚い自室に取り残されたのである。


「どうしてこうなったのだ」


 素晴らしいキャンパスライフを送ることを夢見ていた僕の気分は、さながらマリアナ海溝に落ちたようだった。


 それから数週間かけ、マリアナ海溝から抜け出した僕は、物事を、過去を冷静に見つめなおしていた。


 あれだけ仲の良かった吉村さんが、突然別れを切り出すはずがない。過去に僕が何かやらかしたに違いない。


 僕はこの八畳の部屋に籠り、考え、考え、考え続けた。


 この部屋は大学入学と共に一人暮らしを始めるにあたって入居したアパートだが、何かと不具合が多いのである。


 どこからともなく隙間風が吹き、シャワーからはいつまでもお湯が出ず、隣人の騒音に悩まされ、挙句の果てには火災報知器が誤作動するほどだ。


 何か霊的な力でも働いているのではないのか。


 そして今晩も僕は、すでに夜中の1時を過ぎているのにも関わらず、鳴り続けるギターの音と共に、自分の過去と吉村さんについて考えていたのである。


 しかし、いくら考えても別れを告げられた日の吉村さんの顔が頭から離れないではないか。


 そもそも吉村さんは残酷過ぎではないか。わざわざ僕の部屋で別れ話など、今後僕がここで生活するたびに脳裏に別れが浮かび上がるではないか!


 ご飯を食べるときも、「ああ、ここで別れを告げられたっけ」


 優雅にお茶を飲んでいるときも、「そういえば、別れたとき僕はここに座っていたな」


 筋トレをするときなんかも、「あ、ここ、別れる直前まで吉村さんが座ってたとこだ、クンクン」


 なんてことになってしまうだろう!


 もうこれ以上部屋で考えてもだめだ。


 僕はそう思い、夜中の街に繰り出したのである。




         〇




 僕の住む場所は滋賀県の琵琶湖の東側で、都会ではないが田舎というほどでもない、何とも中途半端な場所である。


 そして、部屋にいるのが嫌になった僕は、一人琵琶湖沿いを歩いているのであった。


 かすかに聞こえる波音が、僕をあざ笑うようだった。


 しばらく歩くと、砂浜にぽつんと小さなテーブルと椅子があり、そこに老婆が座っているのが見えた。


 僕はその老婆に吸い寄せられるように近づいていった。


「こんばんは」


 老婆の髪の毛は真っ白で、服装はいかにも占い師といった格好をしている。


 そしてテーブルには水晶玉が置いてあり、暗い夜の中、怪しく光を放っている。


「あの、あなたは」


「私は占い師じゃ。あなたは今困っておるな」


 全身に電流が走る感覚がした。


 この老婆、今僕と出会ったばかりなのに、僕の考えていることを当てたではないか!


「ど、どうしてそれを」


「私は占い師じゃからな」


 そういって老婆は、水晶玉の周りをぐるぐると撫で始めた。


「いったい何を」


 僕がそう聞き終わるときには、すでに老婆の手は止まっていた。


「はいこれ」


「これは?」


 そういって渡されたのは小さな懐中時計であった。


「それは時間を巻き戻すことのできる時計じゃ」


「なんと! 時間を巻き戻せる」


 老婆は僕の手のひらに時計を置き、「はい一万円」と言って僕のポケットから財布を取り、金を抜き取って足早に去っていった。


 その時の僕は、「何と良心的な老婆であろうか、このような品物をたったの一万円でくれるなんて」、などと思っていたが、冷静に考えてみるとばかげた話である。


 そもそも時間を巻き戻せるなんて、小学生も騙せない冗談である。


 しかし僕はその時計を、宝石でも持つかのようにアパートに持って帰ったのである。




          〇




 次の日の朝。


 窓に何かがぶつかる音で目が覚めたが、ベランダを見ると蝉が落ちているのでおそらくそれだろう。


 昨日の出来事はすべて夢なのではなかったのかと疑えるほど、目覚めの良い朝だった。


 しかし、僕の手にしっかりと握られた時計を見ると、夢ではなかったらしい。


 僕は懐中時計をゆっくりと開いた。


 ミシミシと音がし、開いたその時計は、普通の時計であった。


 やはり騙されたのだ。


 僕はそう思い、むき出しになった時計の長針を、指先でチョンとつついた。


 すると、窓に何かがぶつかる音がした。


 僕は身体を震わせて驚いたが、ベランダを見てみると蝉が落ちているだけであった。


「今日は蝉がよくぶつかるな」


 そんなことを思っていたが、起きてすぐに見かけた蝉がいないではないか。


 僕は机に置いてある眼鏡をかけ、ベランダに出た。


 しかしいくら探しても蝉は一匹しかいない。


 まさか。僕は左手に握られた懐中時計をひらき、再び長針をゆっくりつついた。


 ドン。


 今度は僕の顔にぶつかったのであった。


 しかし僕は、朝から蝉が顔にぶつかり、小便をかけられているのにもかかわらず、心は踊っていた。




 これで吉村さんと復縁できる!

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