5

いまこうして目の前を行き交う人たちの、いったい「何」が僕には見えていると言えるのだろうか。

 すこしばかり草臥れてところどころ塗装の掠れた大広場の赤茶色のベンチに腰を下ろしたまま、目の前を流れゆく光景をぼんやりと僕は眺める。

 夕暮れが通り過ぎるすこし前のこの時間は、ちょうど子どもたちが学校から帰るころらしい。おしゃべりに夢中なまま連れだってあるく子どもたち、母親らしき女性に手を引かれて歩く幼い男の子、歳の離れた弟の手を引いて歩く男の子、ひとりで歩く女の子――それぞれにきっと明かせない痛みや不安があり、多くの人がみな、それらひとつひとつに無関心なまま、自らの日々を生きることに必死でいる。

 自分たちがこうして『生き延びる』ことが出来たのはきっと、あまたの幸運に恵まれたからに過ぎない。もし彼らの声にならない声に気づくことが出来たのなら―その時の自分は、果たしてなにを選ぶのだろうか。

 いつしか胸の奥に刺さった棘の訴える鈍い痛みを前に、僕はただ苦笑いでやり過ごすことくらいしか出来ない。こんなの、ただの思い上がりの傲慢にすぎないことくらいは誰かに言われなくたってわかっているのに。

 ゆるく唇を噛みしめるようにしたままぶざまに視線を泳がせていれば、見慣れない人たちの群に紛れるように、よくよく見知った影が現れる。

 すこし風が冷たくなってきたからだろう、首もとにはやわらかな素材の焦げ茶色のストール、華奢な身体はざっくりとした編み目の濃紺のカーディガンにくるまれている。

 ――気づいてくれるだろうか、果たして。すこしばかりの期待と不安、その両方が入りまじるような気持ちで軽い会釈で挨拶を試みれば、ぱたりと足を止めてくれた彼のほうからはうんとゆっくりのまばたきが返される。

「こんにちは、偶然だね」

 すこし癖のあるやわらかな髪を揺らしながら投げかけられる言葉としどけない笑顔に、心はたちまちに音も立てずにゆるやかに滲む。

「隣、いい?」遠慮がちなささやき声を前に、ちいさく首を縦に振ることで僕は答えてみせる。

「めずらしいね、こんなところで会うなんて」

 ちいさな町なのだから、さほどおかしなことでもないのだけれど。

「いい日だよね、きょうは」

 まっすぐにこちらを見つめたまま、静かに瞼を細めるようにしながら告げてくれる言葉を前に、照れくささを感じずにいられず、思わずぎゅっと口をつぐむ。ぎこちなく視線を泳がせるそのうち、すこしばかり骨ばったしなやかな手の中に旧式のカメラがそうっと携えられていることにいまさらのように気づく。

「ねえ、それは」

 指を差し示すようにしながらそうっと尋ねてみれば、ゆっくりのまばたきとともに、おだやかに言葉が告げられる。

「買い物のついでに撮ってみようって、そう思って」

「写真は昔から?」

 そうっとかぶりを振るようにして、彼は答える。

「ここに来てからなんだ」

 どこか遠い場所をまなざすように、やわらかに瞼を細めながらの言葉が投げ返される。

「ここに来る前に―本をもらったんだ、大切な人から。いろんな場所、いろんな時間の空ばっかりが写された写真集で。ありふれたように見えるのに、どれひとつとったって同じものなんてなくて。たぶん一生かけたって僕がこの目ですべてを確かめることはできないような豊かな色彩が溢れていて。すごく大切で、毎日眺めてたんだ。でもその時にいた場所にはもういられなくなって。迷ったんだけれど、その本はその人にあげることにしたんだ。僕はもう大切なものならみんなもらったから、これ以上は受け取れないって思ったんだ―あの人が持ってくれている方がきっといいから。それしか渡せるものがなかったから。それからすこしした後、あの時貰った本を自分でも探してみようと思って。それでも、いつまでたっても見つからなくって――それなら自分で撮ればいいんだって、なんだかすごく自然にそう思ったんだよね」

 細く不確かな糸を手繰るようにおぼろげに―それでも、確かな思いを込められた言葉が静かに紡がれていく。

「お店で働かせてもらうことになって、はじめてもらったお給料でカメラを買うことにしたんだ。ほしいものなんて思いつくことがほとんどなかったから、なんだかそれだけでうれしくって、すごくわくわくして」

「……そうなんだ」

 ぽつりとささやき声を落とせば、どこかためらいまじりの笑顔がそうっと被せられる。

「ごめんね、こんなこと急に話して。困ったよね」

「そんなこと」

 打ち消すようにとゆるやかにかぶりを振り、かすかに震えたまなざしをじいっと見つめるようにしながらなけなしの言葉を紡ぐ。

「うれしいよ、聞かせてもらえて」

 だから言わないで、そんな風に。言葉に出来ない思いをそうっと飲み込むようにすれば、胸の奥でかすかな棘のような痛みがうずく。

「……ありがとう、」

 ひどくありふれたはずのそんな言葉が、どうしてこんなにもやわらかに胸を軋ませるのだろうか。

「ねえ、それってフィルムカメラだよね?」

「あぁ、うん」

 大切な宝物のように手の中に携えられたがっしりとした黒い機体をぼうっと眺めるようにしながら、僕は答える。

「懐かしいなって思って」

「ねえ?」

 子どものように首を傾げながら、あまやかな声が落とされる。

「現像されるまでわからないのがいいよなって思ったんだ。フィルム一本使ったってまともに見られるのが一枚か二枚あればいいほうだった時なんていくらでもあって、そう思えば、偶然の力のおかげで、思いもよらなかったものが撮れていることがいくらだってあって―たしかに僕が目にしたはずの光景が、ひとたびレンズを通すと自分では思ってもいなかったものに変わっているんだ。技術がないからそんな風に言っているだけなのかもしれないけど、そんな積み重ねもなんだか面白くって。まるで、新しい世界をまなざす瞳を手に入れたみたいで」

 誇らしげなまなざしの奥で、幾重にも乱反射するかのようなあざやかな光がきらめく。

「似ているね、なんだか」

 ぱちぱち、と遠慮がちなまばたきで答えてくれるあまく澄んだ琥珀の瞳をじいっと見つめるようにしながら僕は答える。

「いまさらみたいに思い出せた気がする、物語を書くことを手にした時のことを」

 いつのまにか喪いかけていた、心を踊らせるような想いを。

「……そうなんだ」

 すごくうれしい。おぼろげに掠れた言葉は、やわらかに鼓膜に響き渡ると、心ごとおだやかに震わせてくれる。

「教会にいるとね、」

 ひとりごとめいた無防備な――それでいて、確かな輪郭を携えた言葉が傍らでやわらかに響く。

「ほんとうにいろんな人が、あの場所を訪れるんだ。家族がいる人、ひとりぼっちでいる人。ちいさな子どももいれば、大人の人もいる。自分はいまとても満たされていて幸福だと教えてくれる人も中にはいるけれど、大抵の人が自分ひとりでは抱えきれないような悩みや不安を抱えている。人の数だけ苦しさは違って、誰もその人たちの代わりになってあげることは出来ない。それでも神父様と話すそのうち、その人たちの心の扉はゆっくりと開いていくんだ。やがて教会からそれぞれの居場所に帰って行くその時、門をくぐってくれた時よりもずっと、みながそれぞれに誇らしげな優しい笑顔をしてくれているんだ。それを目にするたびに、なんだかすごく優しい気持ちになれるんだ」

 かすかに揺らいで見える深く澄んだ琥珀のまなざしは、目の前を通り過ぎていく人々の行き交うさまを、いとおしげなようすでじいっと捉えている。

「赦されているみたいな気持ちになれるんだよね、自分がこうして生きていることだとか、ここにたどり着いたことみんなが」

「……うん、」

 やわらかな相槌で答えるこちらへと、包みこむようなたおやかな笑顔が返される。

「あのね、」

 静かに目配せを送るようにしながら、どこか遠慮がちに彼は尋ねてくれる。

「また会ってくれる? 教会でも」

「君が赦してくれるならね」

 答えるかわりのように、慈しむような笑顔がそっと手渡される。



「――それで聞いたんだ、今年はどんな仮装をする予定なの? って。そしたらみんな、得意げに笑いながら言うんだ、『当日までないしょだよ、そうじゃないとつまらないでしょ』って」

「一理あるね、それは」

「かわいいんだよ、みんな。君にも見せてあげられるのが楽しみだなぁって」

 うっとりと瞼を細めてみせながら語られる言葉には、いとおしさとしか呼べない感情がひたひたと満ちている。

「それで、君は?」

 遠慮がちに目配せを送るようにしながら、やわらかなささやき声が落とされる。

「どんな風に過ごしていたの、ハロウィンは」

 こちらをじいっとのぞき込むまなざしは、期待を秘めた色を宿すようにしながらやわらかに輝く。

「ああ、それならね……」

 子どものようなまっすぐな瞳に促されるまま、ゆっくりとたぐり寄せる記憶の中に、『彼』の姿を不器用に書き足していく。


 あの日を境に、すこしずつ変わりはじめていったことがふたつある。

 ひとつめは、肌の上をさらうような冷たい風を避けるようにと教会の聖堂の中で、神様に見守られながら話をするようになったこと。もうひとつは、こんな風にして、乞われるような形で子どものころの『架空の』思い出話を語り聞かせるようになったことだ。

 うれしかったこと、楽しかったこと、苦しかったこと、悲しかったこと――自分でもうんと奥にしまって忘れかけていたような思い出の蓋を開いて聞かせるその時、必ず、そこにはいなかったはずの『彼』の姿を僕は書き足す。

 いくつもの思い出の断片と空想をパッチワークしてでたらめに作り上げた光景を、それでも彼はうんと興味深げに身をのりだし、瞳を輝かせるようにして耳を傾けてくれる。

 だから僕は、不器用な物語を紡ぐことにこんなにも必死になる。――これがほんとうに神様に赦してもらえることなのかはわからなくても、それでも。

「―いつも怖い顔でにらみつけながら吠えてくる大きな犬がいて、僕も彼もその家の前を通らないように遠回りしてるくらいだったんだ。だからあそこだけはやめようねって言ってたのに、いっしょにいたグループの子が『次はここにしよう』って言うんだ。僕たちは列のいちばん後ろに並んで、気が重いまま先頭の子がベルを鳴らすのを見ていた。そしたら玄関からは、お菓子のたくさん詰まったカボチャのバケツを持ったご主人と、マントに三角帽子で魔法使いの仮装をしたご機嫌なようすの犬が現れて」

「かわいいね」

 くすくすとうれしそうに笑う顔をじいっと見つめながら、みるみるうちに安堵の色が広がっていくのにただ身をまかせる。

 ――途中までは、ほんとうのこと。ただあのころの僕の隣には、手を握りあってくれたちいさな男の子はいなかったけれど。

「楽しそうでいいなあって思うんだよね、僕の住んでいるところではあんまりさかんじゃなかったからよけいに。いまは大人向けの催しも多いみたいだけれど、やっぱりああいうお祭りは子どものためのものでしょう?」

「大人がやると本格的すぎて微笑ましく見られない時のほうが多いしね」

「ほんとうだ」

 笑い声は、すこし乾いた空気の中にやわらかに滲んで溶けていく。

「それにしたって面白いよね、古代民族のあいだで生まれた風習がこんな形で現代にまで広がるだなんて」

 死者の魂を迎え入れるとともに悪霊を払い、豊穣を願うお祭りだという本来の意味が忘れ去られ、いまやすっかり非日常を楽しむ特別な機会として広がっていることは、ある意味ではとても幸福なことなのだろうと思うのだけれど。

「世界中に同じような風習があるらしいよ。ある国では死者の魂が行き来するための乗り物を用意するし、ある国では骸骨を飾って亡くなった人たちが帰ってくるのを盛大にお祝いするんだって」

「むかし本で見たことがあるよ。灯りの点いた舟を川に流したり、ランタンを夜空に放つ習慣もあるんだって」

「それだけみんなが大切に思っているあかしだよね、忘れないでいようって」

 寂しげに洩らされる言葉には、隠しようのない心からの思いが静かに刻まれている。

 流れゆく現実をやり過ごすように生きていれば、止まった時間も、そこにいてくれた相手のことも、心に刻みつけ続けていくことは容易いことではない。鎮魂の儀式とはその実、去っていった者のためなどではなく、残された者のために執り行われることなのだ。

「前から思っていたんだけれどね」

 そっと首を傾げるようにしながら、遠慮がちなささやき声は落とされる。

「ご先祖様が帰ってくるだなんて言うけれど、僕たちは会ったこともないような何代も前のおじいさんやおばあさんが帰ってきたって、誰がわかってあげられるんだろうなって。向こうだってそうだよね、血がつながっているだなんて言っても、生きている間に会ったこともない人間だなんてただの他人でしょう?」

 縁もゆかりもあったような人間はみな、自分たちと同じく黄泉の国の住人になっているはずなのだし。

「……ほんとうだ」

 感心したようすでぽつりとつぶやけば、どこか得意げなようすの笑顔がそうっと返される。

「でもほら、もしかすれば普段から見守ってくれているだなんてことだってあるんじゃないの」

「僕はごめんだけれどね」

「え、」

 きっぱりとした口ぶりに、思わずまばたきをしながらそうっと視線を送るようにする。いつになく冷たい色を宿した瞳は、ここではないどこか遠い場所をまなざすようにしながらため息まじりの言葉を静かに落とす。

「だって、そうじゃない? なにひとつ関わることも出来ないのに、見下ろすことだけは余儀なくされるだなんてそんな残酷なこと、僕ならきっと耐えられない」

 言葉尻はかすかに震えていて、それでも――揺るがない強い意志が込められたそこに宿っているのは、まざまざとした絶望としか言えない色だ。

「……ごめんね、急にそんなこと言って。驚かせたよね」

「謝らないで」

 それを聞かせてもらえたこと自体は、喜ばしいことだと感じているくらいだから。

「ねえ、」

 こちらを気遣うようにぎこちなく笑みを浮かべながら、おもむろに彼は尋ねる。

「君にはいる? 帰ってきてくれたらいいのにって思うほど会いたい人って」

「……あぁ、」

 顎に手をあて、すこしばかりの思案に明け暮れるそぶりをみせるようにしながら僕は答える。

「冷たい人間だと思われるだろうけど、それでもよければ」

「思う訳ないでしょ、そんなこと」

 くすくすと声をたてずにかすかに笑う声に聞き惚れるようにしながら、遠慮がちに返答の言葉を紡ぐ。

「猫のニィニィにすごく会いたい。ほんのひとときで構わないから」

「……君らしいね、すごく」

 瞼を細めた笑顔に、心ごと締め付けられるようなひたひたとおだやかなぬくもりを味わう。

 


ぱさり、ぱさり。乾いた落ち葉を踏みしめるリズミカルな音が、北風に乗せられてやわらかに耳朶をくすぐる。歩幅の小ささと奏でられる音の軽やかさは、音を鳴らす主の特徴を目にすることはなくともありありと伝えてくれる。

 ――引き返すべきだろうか、ここは。いや、必ずしもそうとは限らないし、一応は。

 不器用ないいわけを胸に、歩みを止めるようにして煉瓦作りの建物をぼうっと眺めていれば、物陰から怪訝そうにこちらを見つめるちいさな影がそうっと現れる。

 木の実のブローチのついた赤茶色のベレー帽、三つ編みに結ってリボンを飾ったつやつやした焦げ茶の髪、濃紺のオーバーコート。

 年頃の女の子なりのめいっぱいのおしゃれでボーイフレンドに会いにきたのであろう姿を前に、思わず頬がゆるんでしまうのを抑えきれない。

「やあ、こんにちは」

 小首を傾げる会釈とともに声をかけてみれば、戸惑いを隠せないようすのこわばった表情を浮かべたまま、ちいさな声での「こんにちは」が返される。

「ディディのおともだち?」

 遠慮がちに、それでもきっぱりとした強い口ぶりで告げられる問いかけを前に、精一杯のにこやかな笑顔を浮かべるようにして僕は答える。

「ええ、そうです。君もそうだよね?」

 照れたようにわずかに肩を竦ませながら、遠慮がちな言葉が投げかけられる。

「神父様に言われてたの、ディディのおともだちに会ったら教えてあげてって。ディディはきょうはお出かけしてるからって。神父様はお仕事中だけれどなにか用事があるなら呼んでくれていいって」

「どうもありがとう」

「……どういたしまして」

 ひどく居心地が悪そうに、それでもちゃんとこちらの目をじっと見つめて話してくれる態度に心があたたまる。ああそうだ、こんな時は――ふいに思い出したように、目線の高さを合わせるようにと背をかがませ、おもむろに僕は尋ねる。

「きょうはデートの日だったの?」

 確か火曜と金曜の夕方、それに土曜の昼下がりに良く会う約束をしていると聞いていたから、大事な逢瀬の邪魔をしないようにその日は訪れないようにとこちらも避けるようにしていたのだけれど。カレンダーを見間違いでもしていなければ、きょうは水曜日のはずだ。

 ぱちぱち、とまあるい瞳を縁取る長い睫毛をしばたかせるまばたきを繰り返しながら、そうっと彼女は答える。

「きょうは学校の用事がはやく終わったの。だから急に行ってびっくりしてほしかったの」

「そうなんだね」

 いじけたようすで答える姿を前に、にっこりとほほえみかけることで答えてみせる。

「ご挨拶が遅れてごめんなさい、僕はアレン・ウィンストンと言います。すてきなお嬢さん、お名前をお聞きしてもよろしいですか?」

「リディア・コーネル」

 鈴の鳴るような澄んだかろやかな響きで、どこか誇らしげにその名前を告げられる。

「ディディのガールフレンドだよね、よく話を聞いているよ」

 ガールフレンド、という言葉の響きを受けてなのか、ちいさなレディの表情にはどこかうわずったあまい色合いが途端に浮かぶ。

「お兄さんもディディに会いにきたんでしょう? お兄さんも約束してなかったの?」

「……したことがないんだよね」

 ぽつり、と力なく答えれば、まぁるい瞳をぱちぱち、としばたかせるようにしながらの問いかけが投げ返される。

「大人なのに?」

「大人だからだよ」

「どういうことなの?」

 首を傾げて尋ねる姿を前に、やわらかな笑みを浮かべるようにしながら僕は答える。

「大人になるとね、わざわざ約束をしないと好きな人に滅多に会えなくなるんだよ。それなら、いっそのこと約束に縛られないほうがいいなって思って。ここにくれば大抵の場合は彼に会えるけれど、時々はきょうみたいに会えない日があるでしょう。そういう不自由も楽しめたらいいんじゃないかって、そう思ったんだ」

「大人っておかしいのね」

「……僕がそうなだけだよ」

 苦笑いまじりにぽつりと答えれば、向かい相手からは心がほどけたようなたおやかな笑みが返される。

「そうか、じゃあ大人の人が好きな人と結婚するのはそういうことなのね」

「そういうことかもしれないね」

 ぽつりとささやくように答えれば、得意げな笑顔がそれを包み込んでくれる。

「ディディとは」

 瞼を細めるようにしながら、いつもそうするよりも心なしかゆっくりのペースで僕は尋ねる。

「図書館で知り合ったんだよね?」

「うん」

 大きく頭を振り、どこかうっとりとした口ぶりで彼女は答える。

「ママが参加している朗読会のイベントがあるっていうからいっしょに来てお話を聞きにきたら、隣にいたのがディディだったの。私が隣に座ったら『こんにちは』って笑って話しかけてくれて、王子様みたいだなってどきどきしたから最初はちゃんと見れなかったの」

 ばら色の頬を輝かせるようにしてうっとりと告げられる言葉に、思わず頬をゆるめるようにしながら耳を傾ける。

 やわらかに流れ落ちるすこしくせのある艶やかな黒い髪、どこもかしこもなめらかで丹念に削り出された彫刻のようにしなやかな輪郭、煮詰めた蜂蜜のようにとろりとあまやかな光をこぼす琥珀の瞳―そしてなによりも、あやうい無防備さをはらんだおだやかなたたずまい。

 絵本の王子様がそのまま飛び出してきたかのように映っていたのだとしても、なんらおかしくないはずだ。

「絵本に出てきた金色でぴかぴかの宝石飾りのついた王子様もすっごくきれいだったけど、ディディだって負けないくらいずうっときれいだったの。お話の続きもすごく気になったけど、じいって聞いてるディディの横顔があんまりきれいだったからおはなしのあいだになんどもこっそり見てたの。そのうちにどんどんおはなしが進んで、王子様はさいごにはなかよしのつばめと天国にのぼるの。ふたりともすごく幸せにみえたけど、すごく悲しいなって思ったの。あんまり悲しいから涙がとまらなくなって、そしたら隣にいたディディもぽろぽろ泣いてたの」

 伝え聞いていたとおりの顛末に、思わずゆるやかに瞼を細める。なるほど、まるで絵本かなにかの中から飛び出してきたような運命的な出会いだなんて言っても、すこしも差し支えはない。

「だいじょうぶ? ってハンカチを貸してあげようとしたら持ってるからだいじょうぶだよ、ありがとうって言ってから、『誰か大人の人ときてるよね、いまはどこにいるの?』って聞いてくれたの。だからすぐに向こうってステージのほうをさして教えてあげたの。セディママも最初はすごくびっくりしてたけど、すぐによかったねって言ってくれて。でもね、家に帰ってアビーママに話をしたらすっごく怒られちゃったの。そんなのかんたんに信用しちゃだめよ、子どもをねらった悪い大人かもしれないでしょ、余計なことでも話してないでしょうねって。教会の人だって言ってたからだいじょうぶよって言ったのに全然信じてくれないの。ミサで会って紹介した時だってずうっと怖い顔してるのよ。たしかにママが言ってることはおかしくないけど、だからってみんながみんなそうだって勝手に決めつけて怖い顔でじろってにらむのがほんとうにいいことなの?」

 堰を切ったように一息に話す姿には、いまだ色褪せることのないあざやかな感情の色が浮かぶ。

「君はひとめ会ってディディのことが大好きになったのに、疑われたのがすごく悲しかったんだね?」

「うん」

「ママもきっとそれをわかってくれているよ。でもそれ以上に君のことが大切なんだよ。君に万が一のことがあったりでもしたらどうしようって不安でママの胸の中はいつでもいっぱいなんだよ、ごくごく一部の大人の中に、子どもに優しいふりをするのが上手な人がいるのはほんとうのことだからね」

「ディディがみんなに優しいのはほんとうにほんとうよ?」

「いまはママもそれを知ってくれているんだよね?」

「うん」

「ほんとうのことを知ってもらうのには、時間がかかる時があるんだよ」

「うん」

 こくん、とお行儀良く頷いてくれる仕草につられるようにして、三つ編みの髪がふわりと軽やかに揺れる。

「お兄さんもディディが好きなのね?」

 澄んだやわらかな瞳は、ただ純真さだけを溶かし込んだようなひたむきな輝きを放ちながら、まっすぐにこちらを捉えてくれている。

「……うん」

 ぱちぱち、と控えめなまばたきを繰り返すまなざしをじいっと見つめながら、心からの言葉を解き放つ。

「大好きなんだ、すごく」

「だったらおんなじね、私と」

 得意げな笑顔とともに告げられる言葉に、重く縛り付けられたような心は途端にふわりとやわらかに舞い上がる。






「君のガールフレンドに会ったんだよ」

 カウンターの一番隅、ひっそりとこの空間に紛れるような心地になれるお気に入りのその場所で橙の灯りに照らされた姿をそうっと見上げながらそう声をかければ、ぱちぱち、と大きな瞳をしばたかせるようにした興味深げなまなざしがじいっとこちらへと注がれる。

「近くまで行ったんで、ちょっと挨拶でもと思ったんだ。そしたらばったり彼女に出会って。君がいたらびっくりさせたかったんだって」

「……悪いことをしたね」

 すまなそうに頭を下げてみせる姿を前に、ゆっくりと頭を振って答えてみせる。

「気にしないで、そういうこともあるよ」

「まあね」

 苦笑いとともに、まなざしの奥ではやわらかに滲む光が幾重にも重なり合った鈍い光を放つ。

「お母さんの話を聞かせてもらったんだ。君とはじめて出会った時、最初はすごくびっくりしてたって」

「そうなんだね……」

 懐かしむように、やわらかに瞼を細めるようにしながら優しい言葉は続く。

「いまではもう仲良しなんだよ。よく教会のミサに来てくれるんだ。家族の真ん中でいつもうんとうれしそうに笑ってるんだけど、僕の姿がひとめ目に入ると、途端に元気に手を振ってくれて」

 ありありと瞼の裏に浮かぶかのような光景に、思わず口元がゆるむ。

「彼女の家はね、」

 慎重に言葉を選ぶように、ゆっくりとおだやかな口ぶりで彼は答える。

「お母さんがふたりいるんだよ。セディさんが生みのお母さんなんだ。リディアが四歳のころに彼女のお父さんが――セディさんの旦那さんにあたる人だね――その人が、病気で亡くなっているんだ。それから二年経って、改めて一緒になったのがアビーさんなんだ。元は学生時代の友人同士だったんだって。いろいろあったけれどまた三人家族に戻れるなんて思ってなかったって、すごくうれしそうに話してくれたのをいまでもよくおぼえてるよ」

「……へぇ、」

 感心したようすで思わずそう呟けば、ぱちりと控えめなまばたきが返される。

「びっくりした? もしかして」

 茶目っ気を交えた問いかけを前に、静かに頭を振るようにして僕は答える。

「すこしだけ、まぁ」

「はじめはちょっと驚くよね、どういうことだろうって。僕も混乱したんだよ、ママなら目の前にいるはずなのに『ママに聞かないと』って言葉が出てくるんだから」

 くすくす、とかすかな声を立てて静かに笑う表情の奥には、どこかまぶしげな色合いがおだやかに滲む。

「人と人の縁ってほんとうに不思議だよね。思いもよらないところで不思議とつながっていたり、ずうっと昔に途切れたと思ったものがひょんなところで結び直せたりするんだから。夢があるなって思ったんだ、当人たちにしてみれば失礼かもしれないけどね」

「ほんとうだね」

 やわらかに笑いかけるようにしながら答えれば、いつくしみだけを溶かし込んだような笑顔がそうっとかぶせられる。

「彼女にね、以前聞いたことがあって」

 ここではないどこか遠い場所をまなざすようにそうっと視線をそよがせながら、やわらかな言葉は落とされていく。

「お父さんに会いたいって、いまでも思うことはあるの? って」

「……それで、なんて?」

 かすかに声を震わせながら尋ねれば、包み込むようなおだやかさで、きっぱりとした返答が投げかけられる。

「別にいいっていうんだ。いまがすごく幸せで楽しいから、不満に思ったり寂しくなったりすることもないからって。それでももし会えたら言うつもりのことは考えてるんだって。『ママや大切な人たちみんなに会わせてくれてありがとう、いまの自分はちゃんと幸せだから、なにも心配しないで』って」

 まぶしげに瞼を細めてみせるあたたかなその瞳の奥に、会うことなど叶わないはずのちいさな少年の影が揺らぐ。

「すごいなって思ったんだ。自分だってそんな風に思えたらいいのかなって――頭ではいくらわかっても、気持ちが追いつかなくって。ほんとうならそんなこと、聞きたいと思ってしまうこと自体がすごく残酷なことのはずなのにね」

「――ディディ、」

 僅かに滲んで揺らいだまなざしをじっとのぞき込むようにしながら、そっと呼びかけてみせる。ただそれだけのことに、心の奥はぶざまなほどに鈍く軋んで震える。

「……ごめん、おかしなことを言って。困ったよね?」

 取り繕うように笑ってみせる姿に、募るような息苦しさをおぼえる。

「あのね、」

 カウンターの下、かすかに震えた掌をぎゅっときつく握りしめるようにしたまま、声を潜めるようにして僕は尋ねる。

「いまは、ここではまだ話せないことなんだよね?」

「――うん、」

 振り絞るようなかすかな声は、波紋のように静かに広がる。

「無理をしないで、お願いだから。聞かせてくれてありがとう、ほんとうに心からそう思っているから、だから信じて」

「……ありがとう」

 いびつに震えた声は、誰かの笑い声に混じるようにしながら橙色の暗がりの中にあわく溶けていく。



 ×月×日

 

ディディのガールフレンドと話したことを彼に話す。

 ひどく息苦しげにまなざしを伏せる姿を前に、かけられる言葉をろくに見つけられない自身のおろかさを思い知らされるような心地になる。

 心を開いてくれることを幸福なことだと思う気持ちは否定せずにいたい。

 それでも、あやういその輪郭に触れてしまうその度、罪悪感めいた気持ちはどうしてもつきまとう。

 

問い続けることしか、いまは出来ない。



 ぱたり、と音を立ててペンを置き、わざとらしいため息をふかぶかと吐き出す。

 どうしたらいいのか、ではなく、『どうしたいのか』。

 正解はいつだってそれひとつなのを知っている。それなのに、ぶざまなまでに足が竦んで身動きがとれない。

 あんなにも悲しい響きをたたえた「ありがとう」を聞いたのはきっとはじめてだ。

 いまはただ、そこに込められた想いを信じるほかないのだろうけれど、それでも。

 心を覆うような迷いにとらわれたまま、ぼんやりとさまようまなざしは壁に貼った一枚のポストカードを捉える。

 曇天の大海原の上には、ゆうゆうと翼を広げた鳥のシルエット。鳥の身体には背景とは対照的なまぶしい夏の青空が繰り広げられている。

 ルネ・マグリットの代表作のひとつ、タイトルはたしかそう、『大家族』


 ねえ、君はこの絵のことを知っている?


 むなしい問いかけを投げかけながら、僕はただ黙ったままゆるく唇を噛みしめる。


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