水無月1日

21

 朝ご飯をいただいて、火山の周りを観光して、アオイさんに空港までついてきてもらった。


「お世話になりました」


 深く頭を下げる。お土産もたくさんいただいてしまって、リュックはぱんぱんに膨らんでいた。


「遠いけれど、いつでも来てくださいね」


 アオイさんが瞳を潤ませながらあたしの両手を取る。


「マーナさん。ありがとう。……本当に、ありがとう」


 やわらかくて、あたたかな手をしていた。


 保安検査場を通り、ずっと手を振ってくれていたアオイさんの姿が見えなくなる。

 待合ロビーのソファで、リュックを膝の上に載せて、月の王から預かった書物を取り出した。

 改めて眺めてみると、闇夜に浮かぶ新月のようだ。ちょうど三日月のバレッタと同じサイズで、まるでここから取り出されたみたいにも思える。

 顔を上げると、窓の外には飛行機とニムロドが、……大剣が見えた。

 深呼吸をひとつ。それから、意を決して腕時計型端末を立ち上げる。

 これまで生きてきて、誰かに助けてもらおうなんて考えたことがなかった。だからどういう風に伝えるべきか悩んだけれど、あのふたりならきっとどんな言葉でも受け取ってくれるだろう。

 そう信じて、メッセージを送る。


『お願いします。力を貸してください』



「びっくりしたよ。ひとりで南へ行ったっていうのもだけど、マーナちゃんに月の王が接触してくるなんて」


 久しぶりの、言祝ぎ言語修復事務所。

 向かいのソファーに座っているイノルさんは困ったように笑い、隣のホクトさんを見た。慌てて頭を下げる。


「か、勝手にすみませんでした」

「……怪我がなくてよかったです。それから、頼っていただいて、ありがとうございます」


  顔を上げるとホクトさんはやわらかな笑みを浮かべていた。ただ、目の下には深い隈が刻まれている。

 ぱんっ、とイノルさんが両手を叩く。


「たしかに! あの頑固なマーナちゃんが僕らを頼ってくれるなんて!」


 慌てて両手を振る。


「いや、でも、ひとりじゃ何にもできないって、成長とは真逆では」


 ホクトさんは微笑んだまま首を横に振った。

 困るだろうと想像していたのに、拍子抜けしてしまう。どこまでこのひとたちはあたしに優しくしてくれるのか。


「ディクショナリウムの試作品ってなんだろうね。どれどれ、って、うわっ!」


 バチッ! イノルさんがローテーブル上の書物に触れようとすると、静電気より明らかに強い電流が走った。


「ひゃー。マジもんじゃん」


 手を押さえながら、イノルさんは目を丸くした。


「特級言語修復士のみが持ち得るものなのかもしれません。そしてそれを扱えるのが、マーナさんの特殊能力、ということなのでしょうか。正解かは判りませんが」

「すごっ!」

「でも、あたしにも中身を開けないんです」


 試してみたものの、決して中を開くことができなかった。

 書物に3人の視線が集中する。


「中身が読めないのに、どうやって言祝ぎ姫を助けろって言うんだろうな、月の王は。内部破壊の修復だって上級言語修復士が束になって挑んでいるっていうのに」

「……すみません」

「あっ、マーナちゃんがだめって言ってる訳じゃないよ」


 イノルさんが慌てて両腕を上げる。

 それでも方法が分からないのは事実だし、あたしひとりではどうしようもない。

 インターンを経て、びっくりするくらいあたしは無力な上に経験だってないのは否応なしに身に染みている。


「自分にできることとできないことを判断できるのも強さのひとつです。今のマーナさんには、マーナさんにしかできないこともちゃんとあります」

「辞書に触れられること……?」

「そうです。まずは、工房で試してみましょう」


 浅日スズヨさんの櫛を扱ったときのように、ホクトさんとイノルさんが黒衣を纏って正装になる。

 あたしも学生用の黒衣を羽織る。久しぶりの、森のような香りを精一杯吸いこむと、いっそう気が引き締まるようだ。

 それから、丁寧に中央のテーブルへディクショナリウムの試作品を置いた。

 ホクトさんとイノルさんがあたしの両隣に立って援護してくれる形になる。


「『瀬谷ホクトが問う。愛情、誠実、希望、幸運。ニムロドの加護がそれらすべてに満ち満ちて、瑕疵の治癒に必要な言葉とは何かを。そして、如何なる言葉も共有され、ニムロドの根源に刻まれるべき言葉を』」


 そしてホクトさんがピアスをきれいな指先でなぞる。


「『湊イノルが問う。誠実、愛情、幸運、希望。ニムロドの加護がそれらすべてに満ち満ちて、瑕疵の治癒に必要な言葉とは何かを。そして、如何なる言葉も共有され、ニムロドの根源に刻まれるべき言葉を』」


 イノルさんが、骨ばった腕にしっかりとはまったブレスレットを翳す。


「『青葉マーナが問う』」

 装飾の上に手を置く。金属でできているのか、冷んやりとしている。

 言語修復士ではないけれど、あたしのなかには今、たしかに祝福の順番がある。


「『希望、愛情、幸運、誠実。ニムロドの加護がすべてに満ち満ちて、瑕疵の治癒に必要な言葉とは何かを。そして、如何なる言葉も共有され、ニムロドの根源に刻まれるべき言葉を』!」


 すると。


「!」


 書物の内側から力がかかって、あたしは咄嗟に手を離す。

 ばさっ、ばさばさ! 勢いよく中身が開く。


「おぉっ。大成功じゃん」


 イノルさんが快哉を叫ぶ。

 そっと触れてみると、1枚1枚、滑らかで艶がある。そこには見たことのない言語が並んでいた。言語修復大学校では複数の言語科目があるけれど、こんな文字は見たことがない。

 助けを求めるようにホクトさんを見上げると、覗きこんでくれる。

 ホクトさんは少し考えるように顎に右手を当てた。


「古代文字なのは確かでしょう。すべては明らかにはなっていませんが、目にしたことがあります。たしか言祝ぎ姫の書棚に辞書のようなものがあった筈です」


 一度事務所へ行き、あたしがきちんと揃えた奥の書棚から辞書を持ってきてくれる。


「恐らくこれかと思います」


 細長くて分厚い本の表紙には『古代文字研究』と書かれていた。


「おそらく表音文字なので、対照表で確認しながら読むことはできそうです」


 何が書かれているかは分からないけれど、あたしがしなければならないことは恐らくこれなのだ。ふたりの顔を交互に見て、決意を口にする。


「やってみます!」

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