皐月31日
19
『……空港までの飛行時間は2時間5分を予定しております。それでは、ごゆっくりおくつろぎください』
シートベルトがしっかり装着できていることを何度も確かめる。緊張で口のなかがからからに渇いていた。
飛行機に乗るのは初めてだ。そもそも空港に着いてから飛行機に乗る為の手続きすら難しくて泣きそうになった。ようやく座席に着いてから辺りをきょろきょろと見回してみるもののなんだか落ち着かない。空席が目立つけれど、他の乗客は落ち着いていて、急に恥ずかしくなってくる。
再びアナウンス。飛行機がゆっくりと進み始める。窓際の席なので、外に顔を向ける。機体は大きく回って、ちょっと止まった。やがて轟音と共に加速して、突然ふわっと体が浮くような感覚。
思わず目を瞑ってしまう。
……しばらくしてから、恐る恐る目を開けて窓の外に顔を向けた。身を乗り出して、窓に両手を貼りつける。
胸が、高鳴る。
あたしの視界いっぱいに映るのは、巨大な、巨大な剣。
「ニムロド……!」
どうしても飛行機に乗ってみたかった理由。それは、ニムロドを上空から見たかったから。
ただの大きな剣としか認識していなかったけれど、空から見る大剣はまるでファンタジー世界の勇者が持っているような凝ったデザインをしていた。柄には丸を組み合わせてできた幾何学模様が繊細に彫り込まれていて青と黄色と赤の宝石が散りばめられている。刃の部分は丁寧に磨かれているようで、静かに太陽の光を受けて厳かに輝いていた。刃の下の方にも、柄と似た模様が彫られている。
「思い出した」
ファンタジー、で突然過去の記憶が呼び起こされる。
「あたしは、たしかに、言った」
*
*
*
そう、あれは、初めて月の王に会ったときの話だ。
あたしは施設のリビングの隅っこでお気に入りの童話を読んでいた。
大きくて分厚い装丁のファンタジーで、勇者が魔王から世界を救うというストーリー。何回も何回も読み返しているので装丁はぼろぼろになっていた。
影が近づいてきたので顔を上げる。長い銀髪の男性があたしを覗きこんでいた。
『どうして他の子どもたちと遊ばないのですか』
耳を澄まさないと聞こえないような静かな声だった。
朝礼で説明があった、特級言語修復士だった。どうしてこんな辺境の児童養護施設に来たのかは知らなかった。どうせ施設長がおべっかを使ってもてなすんだろうし、その施設長はあたしのことを嫌っていたから、自分には関係ないと思っていた。
『気味悪がられてるから。剣に見えるような奴は不幸を呼ぶって』
『剣……?』
あたしは本を閉じて、壁一面の窓の外、曇り空の奥に見えるニムロドを指差す。
『あれが剣に見えるのはあたしだけなんだって。本の読みすぎで頭がおかしくなったんだって。だからあたしは早く消えた方がいいって皆言う。ねぇ、お兄さんには、普通の人間には、あれが何に見えるの?』
すると特級言語修復士、月の王はしゃがんで、あたしに目線を合わせてくれた。
『私にはただの×××に見えます。しかし、君にとってあれが剣であるなら』
びっくりした。目線を合わせて、きちんと話しかけてくれる人間に出会ったのは何年ぶりのことだろう。
月の王はあたしの頬に残る腫れにそっと指先で触れてくる。
咄嗟にはねのけようとして挙げた手を下ろす。他人に触れられるのは恐怖でしかなかったのに、何故だか不快感が湧いてこなかった。
頬に残っていたのは前の晩に施設長に叩かれた跡。この頃のあたしは全身に痣や腫れが絶えなかった。
月の王がひどく悲しそうな表情になる。
『あれが剣に見えるなら、それはいつか君の大きな武器となってくれるでしょう』
『武器?』
『言語修復士を目指しなさい。君には素質があります』
瞬きを繰り返す。
……未来の話をしてくれる人間に会ったのは、初めてだった。
『そうやって、本をたくさん読むといいでしょう。言葉をたくさん覚えて、15歳になったら上京しなさい』
無理難題だった。後見人もいないあたしに、上京する方法なんてなかった。申し訳なさ程度に嘲笑を返す。
『無理よ。あたしは一生ここから抜け出せずに死んでいくんだわ』
『君がここから出たいのなら私が援助しましょう。どうですか?』
今度は目を丸くするしかなかった。
突然、この大人は何を言い出すのだろう。でも騙されていたとしてもあたしには失うものがそもそもない。もし提案が事実なら、あたしにとって何よりの救いだった。
言葉が自動的に零れ落ちる。
『ここから、出たい』
忌み嫌われ、負の感情のはけ口にされ、本を読んで現実逃避するしかない子どもが、未来を決めた瞬間。ほんとうに一瞬の出来事。
『よく言えました』
月の王が、あたしの頭をぽんと撫でた。
『では、ひとつだけ約束してください。今後一切、剣のことは口にしてはなりません』
*
*
*
あぁ。どうしてそんな大事な記憶を忘れてしまっていたんだろう。
翌日、あたしは施設長室に呼び出され、驚く施設長の目の前で、月の王からディクショナリウムを受け取った。施設長はすぐに異動になった。山奥のよく分からない施設に飛ばされたのだと耳にしたけれど真偽は知らないし興味もない。
約束。ニムロドが剣に見えると公言しないこと。
誓い。言語修復士になって月の王と再会すること。
いつの間に後者ばかりが強くなってしまったのか。あたしはたくさん本を読んだし、勉強したし、誰にも屈さないように生きていこうと思った。記憶はいつの間にか都合よくまとめられてしまっていた。
ちっぽけなプライドで、がちがちにかためられて。
気づいていないのは、忘れてしまっていたのは、あたしの方だったんだ。
もう涙は残っていないと思っていたけれど、鼻の奥がつんとしたので、唇を噛んでなんとか堪えた。
*
*
*
「ようこそ、マーナさん!」
リュックを背負い直して空港の到着ロビーに出ると、アオイさんが駆け寄ってきてくれた。赤毛の天然パーマも、丸眼鏡も水玉模様のワンピースも、なんだか懐かしく感じてしまう。
胸元にはネックレス。アオイさんのディクショナリウム。
「お久しぶりです。突然遊びに行きたいなんて言っちゃってすみません」
「そんなことないわ。来てくれてとってもうれしいです」
歌姫の引退宣言を目にしたらいてもたってもいられなくなって、帰省休暇届けを出したあたしは……北ではなく、南へ来てしまった。
嘘をついて、黙って、ひとりで。
30分ほどリムジンバスに揺られて、市街地のバス停で降りる。
あまりの陽射しの強さに目を細めてしまう。
「もう、夏の暑さですね」
「首都より5度は平均気温が高いんじゃないでしょうか。半袖で過ごせると思いますよ」
バス停のある大きな道路に、ぱんぱんに詰まったゴミ袋が不規則に置かれている。不思議に思って眺めていたらアオイさんが遠くを指差した。
「あれは火山灰です。この街は雨よりも火山灰が降るんですよ。ほら」
アオイさんが指差した先には大きな山がそびえたっていた。
「灰っていうことは、噴火するってことですか? 大丈夫なんですか」
「うーん。小さい噴火は断続的に起きているので慣れちゃっているんですよね」
のんびりとした答えが返ってくる。
あたしにとっての雷みたいな感覚なんだろうか。
そんなたわいない会話をしながら少し歩くと、繁華街の外れの小さな喫茶店に着いた。
分厚い木でできた看板には『芋喫茶ツチガヤ』と彫られている。どことなくすすけて見えるのは火山灰の所為だろうか。
「ここがわたしの実家です。2階が住居になっているのでまずは荷物を置きましょうか」
「ありがとうございます。お邪魔します」
勝手口みたいな玄関からすぐ2階に上がる。
会いに行きたいと連絡したとき、狭くてもよければ泊まってもいいと言ってもらえたので、お言葉に甘えることにしていた。ただでさえひとりで旅行するのも飛行機に乗るのも初めてのことなのだ。ひとりでホテルに泊まるというのはちょっとこわかった。
荷物を置かせてもらって喫茶店へ降りて行くと、休憩時間らしく店内にお客さんはいなかった。
アオイさんがぱんと両手を叩く。
「そうだ。マーナさんに食べてもらいたいものがあるんですが、お腹の空き具合はどうですか?」
「大丈夫です」
「よかった。ちょっと座って待っててくださいね」
そう言うとアオイさんはエプロンをつけてキッチンの奥へ消えた。
10分くらいして、トレイに小さなパフェを載せて現れる。
「じゃじゃーん! ポテトチョコレートパフェです」
丸いグラスのなかに、スイートポテトとハート型のチョコレートが可愛らしく飾られている。
「チョコレート、って」
座ったままアオイさんを見上げる。
アオイさんの苦手な食べ物。そして、歌姫ルリハの、好物。チョコレート。
あたしの向かいに座ったアオイさんが困ったように微笑む。
「試作してみたもののやっぱりチョコレートが苦手で。アオイさんが来てくれるって言ったから、どうしても食べてもらいたかったんです」
あたしはスイートポテトとチョコレートを細長いスプーンですくって口に運ぶ。
「美味しい、です」
「よかった。今度からお店のメニューに加えようと思います。やっぱり、わたしは何かを一からつくるのが好きみたいです」
「……デザイナーには戻らないんですか?」
「うーん。未練がないと言えば嘘になりますけど」
「アオイさんっ、……」
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