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「……? ここは、どこ?」


 上体を起こすと工房にいた。だけど誰もいない。どうして工房のなかだと思ったんだろう? 真っ暗で空間の大きさは分からないし何も置かれていないのに。何の香りも、しないのに。

 バレッタに手を遣って存在を確認して、胸を撫でおろす。よかった。バレッタは、ある。


「青葉マーナさん。はじめまして」


 声のする方に体を向けると、目の前に同じくらいの背丈の少女が立っていた。


「ようこそ、言祝ぎ言語修復事務所へ。ご挨拶が遅れましたが、所長の『言祝ぎ』です」


 白金色のツインテールに、フリルたっぷりの淡いピンク色のワンピース。眠っているところしかみたことのなかった伝説の特級言語修復士、言祝ぎ姫。

 突然の出来事に言葉が出てこない。


「安心してくださいね。当事務所へのインターン生として許可を出したのは紛れもなくわたしです。どうですか、学びはありますか?」

「え、えっと、……はい」


 見た目こそあたしと同じくらいでも、中身は違うのだとなんとなく理解できる。微笑みが穏やかで、優しい。このひとは、あたしよりもずっと大人だ。

 碧色の双眸がこちらを見つめてくる。


「せっかくの機会なので、わたしからひとつ。この【さびしい】は、櫛の持ち主の記憶が詰まった感情です。そしてこれが、マーナさん。あなたの、【さびしい】」

「えっ」


 いつの間にか、言祝ぎ姫がふたつの同じ言葉を掌に、天秤のように載せている。


「あたしの……?」

「どうですか?」


 比べてみなさい、という問いかけなんだろうか。

 ふたつとも同じ言葉の筈なのに、櫛の方は淡く柔らかな光を放っている。だけど、あたしのものは、黒というより闇に近い色をしていて、ざらざらとした見た目をしているし、櫛の方より大きい。


「あたしの方が、さびしそうです」


 言祝ぎ姫が口角を上げる。


「マーナさんにはそう見えるでしょうし、おそらくイノルも同じような解答をするでしょう」

「それは、言祝ぎ姫やホクトさんは違う答えをするっていうことですか?」

「ふふ。聡明ですね」


 大きく首を縦に振り、言祝ぎ姫はふたつの【さびしい】をわたしの掌へ同じように載せた。


「! 冷たいっ」


 櫛の方は氷のように冷たくて思わず声をあげてしまう。そしてどちらも、ずっしりと重たかった。櫛の【さびしい】を再び両手で持ち上げて言祝ぎ姫が言う。


「見た目だけで持ち主の感情を測ることは、不可能です。いつも楽しそうに見える人間でも、心の奥底にある湖で何をたゆたわせているかは、他人が一切推して知ることはできません」


 あたしは、言葉を発する代わりに息を呑んだ。


「感情は、どちらが強いかを比べる必要性なんてないのです。感情に蓄積された記憶は十人十色です。言語修復士の業務内容は言葉の対照ではありますが、強度の比較ではありません。マーナさんの【さびしい】感情は、マーナさんだけのものですし、そうでなければいけません」

「自分だけの、感情」

「その軸をしっかり持っておかないと、言語修復士は言葉に飲まれてしまうでしょう」

「あの……」

「なんでしょうか」

「どうして今それをあたしに教えてくれるんですか? 起きて言ってくれても」

「申し訳ないのですが、わたしには眠りながら蒐集しなければならない言葉があるのです。そうですね、目が醒めたときにはここでのことは曖昧になっているでしょうから、お伝えしましょう」


 どうやらあたしはもうすぐ元の世界に戻れるらしい。


「それは【愛】です。わたしには完全な【愛】の辞書をつくる使命があります。その為には、膨大なサンプルが必要なのです」


 愛。また、愛か。いったいそれにどれだけの意味を含められるというんだろう。

 言祝ぎ姫は困惑するあたしに向かって微笑む。


「それからもうひとつあなたに言わなければならないことがあります。これはできれば覚えておいてほしいことです」


 背筋を正して言葉を待つ。


「ニムロドが何に見えるか尋ねてくる人間がいても、絶対にほんとうのことは言わないでください」

「え……?」


 がんばってくださいね。応援しています。そんな言葉が聞こえて、視界がさーっと明るくなっていく。



「あー! よかった! ホクトさん、マーナちゃんが起きたよ!」


 今度は応接スペースのソファに寝かされていた。あたしの顔を覗きこんでいたのはイノルさん。掌をおでこにあててくる。


「よし、熱はないみたいだ。気持ち悪くない? 大丈夫?」

「はい。あの……」

「うん?」


 ホクトさんも湯気の出るコップを持って近寄ってくる。


「言祝ぎ姫と会話しました。内容までは何故だか覚えてないんですけど、たぶん、言祝ぎ姫が助けてくれたんだと思います」


 そうでしたか、とホクトさんの唇が動く。

 起き上がって受け取ったのは熱すぎないホットミルク。なんだか体が冷えた気がしているのでちょうどいい。


「あの、すみません。ご迷惑をおかけして……。櫛の手がかり、ありましたか?」

「何言ってるの、謝らなきゃいけないのはこっちの方! インターン生を負傷させてしまうなんて」


 ホクトさんも隣で頷いた。

 それはたしかにその通りではある。だけど、あたしはやはり、インターン生で、お子さま扱いなのだということを痛感させられてしまう。


「櫛の言葉に異常はなかった。ただ、不思議なことに、持ち主から離れるタイミングでの拒絶反応はなかったみたいなんだ」

「あんなに勢いよく『さびしい』が吹っ飛んできたのに、ですか?」

「そうなんだよ。ただ、なんとなく、言葉の雰囲気から、若者ではなくお年寄りのような気がするっていうのは僕らの見解。とりあえず地道に依頼主の祖父の足取りを追っていくしかないなぁ」


 気づけばイノルさんは黒衣を脱いで外出用の恰好になっている。


「あのっ、あたしも」


 両肩に手を置かれて無理やりソファに座らされてしまう。


「だーめ。マーナちゃんは、お留守番」


 ひらひらと手を振ってイノルさんが出かけて行った。

 ちらりとホクトさんを見ると、なにかを差し出してきた。受け取ると、それは出前のメニュー表だった。

 ぐぅ、とお腹が鳴る。気を失ってから、それなりに時間は経っていたらしい。


「……そういえば」


 何かを警告されたような気がする。だけど、それが何だったのかどうしても思い出せない。


 ホクトさんはシーフードカレーと根菜ごろごろスープ。

 あたしはから揚げと野菜サラダ丼、ご飯は雑穀米。


「いただきます」


 熱々のからあげは猫舌にとって天敵なのでちゃんと冷ましてから頬張る。から揚げと野菜サラダと雑穀米の割合が同じでとても食べ応えがある。今日も、美味しい。

 ふと顔をあげるとホクトさんは黙々とカレーを口に運んでいた。


「あの……好きなんですか? カレー」


 見ている限り、具材は違えど毎日カレーのような気がして尋ねてみる。昨日だってカレーだったし。首を縦に振ったので、敢えて選んでいるようだ。

 ホクトさんが銀色のスプーンを掲げる。


「カレーは、人生」


 今まででいちばん大きな声量で言ってしまうくらい好きなようだ。


「はぁ」


 意味が分からないので生返事になってしまう。そして会話は発展しないので、静かにふたりでご飯を食べる。

 ここにイノルさんがいたら終始うるさいんだろう。最初は合わなさそうに思えたけれど、実はこのふたりはいいコンビなのかもしれない。


「……あの、イノルさんって、いつもあんな感じなんですか」


 なんとか沈黙を避けようと思って尋ねてみる。


「へらへらしてて、ちゃらちゃらしてて、ちゃんとしてれば普通なのに」


 第一印象がよくなかった所為かどうしても辛辣になってしまう。


「それに、実力は上級言語修復士に劣らないって豪語するなら、昇級試験を受けたらいいと思うんですけど。まさか仕事が増えてめんどくさいからって理由じゃないですよね?」


 言語修復士には初級、中級、上級、特級と四つ階級がある。

 黒衣につけるパンジーのバッジの色は、初級が銅、中級が銀、上級が金。

 昇級試験は年に一度。実務と筆記で基準点を超えたら認められて、そうすると携われる業務の種類も増える。

 特級に関しては資格が公的なものとなったときに定められた特別な十人のみで固定されている。だから、ホクトさんのような上級言語修復士が実質的にいちばん上のクラスに属している。


「もしくは落ちるのがこわいとか? あのひとに限ってそんなことはないですよね」


 すると、ホクトさんは小さく唇を動かした。


「彼には彼なりの葛藤があるんですよ」


 きれいに食べ終わったお皿をローテーブルに置く。

 昨日と似たような回答だったけれど、今日は続きがあった。


「あぁ見えて、イノルくんは誰よりも変化を恐れているのです。この事務所は言祝ぎ姫が所長である故に自分が所長代理を務めています。だから、もし彼が上級の資格を取得したら、自分か彼のどちらかがここから出て行かなければならない。そんな風に彼は考えているんです」

「独立するのがいやっていうことですか?」

「ちょっと違います、かね」

「やっぱり、大人ってむずかしいです」


 ホクトさんが否定とも肯定とも取れない微笑みを浮かべる。



 お昼ご飯の後は、工房で模擬ディクショナリウムの修復練習をすることにした。よく使われるボール形のものを幾つか選ぶ。

 三日月のバレッタを髪から外して掲げた。


「『マーナが命ずる。ニムロドの加護のもと、言葉の共有と復活たらんことを』」


 ぶわっと、球体から言葉が溢れる。

 赤色、青色、黄色。大きさも形もさまざまに見える。


【観覧車】

【パフェ】


 しゃがんで、言葉の輪郭をなぞりながら考える。

 あたしにとって、それは一体どんな意味を持つのか。

 観覧車。遊園地にある、大きな乗り物。

 パフェ。甘いおやつ。

 どちらも憧れていた。あたしだって観覧車に乗ってみたかったし、パフェを一緒に食べたかった。ほんとうの家族と。

 さっきの事故の所為なのか、あたしの隣には【さびしい】という言葉が、青白く浮かんでいる。そっと触れる。温かいような冷たいような感覚が伝わってくる。

 敏感になってしまっているらしい。だけど寄り添ってくれているような気がしてしまう。ただの言葉なのに、おかしな話だ。


「おやつでも、どうですか」


 工房にホクトさんが顔を出してくれて、だいぶ時間が経っていることに気づく。


「あっ、じゃあ今日はあたしが緑茶を淹れます」

「ではお願いします」


 お湯を沸かして、ふたりぶんの緑茶を淹れてローテーブルへ運ぶ。ホクトさんは大きなクッキー缶を開けてくれた。


「美並サラサさんの祖父、ジロウさんは起業家で、かなりの資産家であることが判明しました」


 お茶を飲みながらクッキーをつまんでいると、調べていたことを教えてくれる。

 腕時計型端末から表示させたディスプレイを見やすくローテーブルの上に浮かせてくれた。


「社会貢献にも積極的で恵まれない人々への援助もしているようです」


 しかし白髪の老人は少しも笑っていない。皺の深い、厳しい表情をしている。


「お金があるから、櫛や小箱をつくることができたっていうことですか……? でも、どうして」

「世の中にはマーナさんの知らない世界があるのです」


 ホクトさんの瞳の奥に、見たことのない光が、たゆたう。

 光じゃなくて、闇かもしれない……。それ以上は尋ねることができなかった。

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