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 工房。

 言語修復士が『ディクショナリウム』に関する作業を行う為の空間で、言語修復事務所には設置が義務づけられている。

 ディクショナリウムとは何か。それは、人間の言葉を守る為の外部装置だ。この世に生を受けたときひとつだけ授けられて、共に成長していく。結びついた人間の得た言葉を蓄積して、そのひとの人生を豊かにしてくれる。

 そんなディクショナリウムにまつわる事象を扱うのが、世界共通国家資格である言語修復士なのだ。


 森のなかにいるような落ち着く香りがする。空気が澄んでいて、息を吸う度に体内が清められていくようだった。作業時に精神を集中させる為のお香だろうか。

 書類はあんなに乱雑だったのに、工房はおそろしいくらいに整頓されていた。壁際には作業用のデスク、棚には整然と並べられてラベリングされた箱。照明の下、部屋の中央には透明な丸いハイテーブルが置かれている。


「さて、マーナちゃんにはこの工房に積もり積もった埃を掃除してもらおうと思います。貴重品もたくさんあるから壊したりしないように」


 いつの間にか湊の手にあったハンディモップを両手で押しつけられる。

 言われてみれば、たしかに箱や棚にはうっすらと埃が積もっている。

 ……どちらにせよ単純作業、ひどい雑用係だ。湊の思いつきで言いようにされていることがどうしても我慢できなくなって、ハンディモップを床に叩きつけた。


「盛大に手から滑ったね」

「あたしは掃除係をする為にここへ来たんじゃありません! 言語修復士になる為に有益なことだけを学びに来たんです!」

「うーん。でも、最初に言った通りここではあまり学べることがないからなぁ。これでもさっきから一所懸命考えてたんだけど」

「居眠りばっかりだったじゃないですか」

「ははは、よく見てたね。でも特級言語修復士の工房なんて普通に生きてたら入れるものじゃないから、なかなか希少な体験だと思うよ」


 それはたしかに正論だ。


「でも、指示してくる人間に信頼性がありません。貴方はほんとうに中級言語修復士で、ここの所員なんですか? 適当に仕事をしていてそのランクだなんて信じられません」


 辛辣しんらつな指摘をしたつもりだったのに、湊はなんと笑い出した。大人の男性が爆笑するのを見たのは初めてで、驚いて後ずさる。

 湊はひとしきり笑うと目尻にたまった涙を拭った。


「マーナちゃん、いいねぇ、若いねぇ。気に入ったよ」

「あなたに気に入られても嬉しくありません。というか名前で呼ばないでください」

「まぁまぁ。これでも、試験さえ受けたら上級になれるって多方面からお墨付きをもらっている身なんだ。せっかくだから勝負をしようか」


 湊がとうてい信じられない言葉を並べて棚から取り出したのは、ひとつの指輪だった。幅広で、中央に乳白色をした楕円の宝石が埋め込まれている。


「これは上級への昇級試験の練習問題のひとつ。よく見てごらん」


 掌の上に置かれる。

 顔に近づけて見てみると、宝石はうっすらと濁って、ひびが入っていた。


疑似ぎじディクショナリウム。大学校の実習でも使ったことはあるよね」

「ありますけど、指輪は初めて見ました」

「実際の指輪は希少なものでなかなか遭遇しないから、疑似品も少ないんだよね。さて、大学校で現在首席のマーナちゃんに、これからこの指輪の損傷を確認して修復してもらおうと思います。やり方は他のディクショナリウムと同じでいいよ。今まで2年とちょっと、大学校で勉強した成果を見せてごらん。工房のなかは自由に使っていい。制限時間は1時間。どうかな? 疑似品とはいえ指輪を扱えるなんてもしかしたら二度とないかもしれないよ」

「やります!」


 やらない理由なんてなかった。目に物見せてやる。


「威勢がいいね。じゃあ、がんばって」


 ひらひらと手を振って湊が出て行く。


「やってやろうじゃないの」


 学生用の黒衣を羽織りボタンをしっかりと留める。

 意気込みを口にして、デスクライトをつけた。顕微鏡で宝石を拡大すると、細かなひびから微かに青い光が漏れている。

 息を吐き出して大きく吸いこむ。それから、前髪の左側に留めていた三日月形のバレッタを外してハイテーブルに置いた。

 これがあたしのディクショナリウムだ。

 縁取りは薄い金色。透かし模様になっていて、闇の部分には星々が描かれている。ところどころに埋め込まれた色とりどりの光る石は照明を反射してちかちかと瞬く。あたしの大切なディクショナリウム。

 指輪とバレッタを隣同士に置いて、空中に人差し指で自分の名前を描き、『引き金の言葉』を宣言する。


「『マーナが命ずる。ニムロドの加護のもと、言葉の共有と復活たらんことを』」


 すると文字の軌跡が発光して、雨のようにふたつのディクショナリウムに降り注いだ。光を受け取ったバレッタと指輪は自らが発光源となる。

 今度はバレッタからゆっくりと、ぼんやりとオレンジ色の文字が浮かび上がってきた。あたしの掌くらいの大きさの文字はいつ見てもネオンサインのようだ。


【りんご】


 紅い皮、黄緑色の皮、かたい皮のなかにみずみずしい果実。

 おやつの時間に出るきれいに皮を剥かれたりんご。

 あたしのなかのイメージ。

 すかさず文字をなぞって光を指に絡め取り、指輪へと注ぐ。

 修復先のディクショナリウムに欠けてしまった言葉を、自らのものと照らし合わせて共有する作業。——これがディクショナリウムの修復方法だ。


【海】

【とんぼ】

【コロッケ】


 次々と文字を絡め取っていく。指輪のひびが少しずつ消えていく。

 自分の知っている単語しか修復させることはできないが、あたしは大学校一の読書家でもある。足りない経験は知識で補うことができる。

 あっという間に直して湊を驚かせてやるんだ。


 ……ところが。

 何度も引き金の言葉を宣言してみたが、急にバレッタが発光しなくなってしまった。ひびはあと一筋残っている。つまり、最後のひとつと思われるものが浮かび上がってこないのだ。


「あたしの知らないもの? 目に見えない事象……?」


 目に見えるものは難易度が低い。ところが目に見えない感情や経験などは答えが見つけにくい。

 不意に掛け時計へ視線を遣るとタイムリミットまで1分を切っていた。まずい。指輪に視線を戻したときだった。


「きゃあっ!」


 ぶわっ。指輪から次々と文字が飛び出す。

 勢いに負けてしりもちをついてしまう。文字が容赦なく溢れかえる。

 1時間経った途端に指輪から注いだ筈の文字たちは消えてしまった。疑似ディクショナリウムは制限時間を超えると、再び文字を失ってしまうのだ。


「どうだった?」


 湊が扉を開けて入ってくる。


「ありゃ」


 部屋を埋め尽くす光る文字。文字。文字。さながら洪水のよう。


「だめだったみたいだね。まぁ、上級試験の練習問題だからできなかったからって自信を失うことはないよ」


 光る文字が溶けるように消えていき、工房は元の静かな空間に戻る。


「さて、それではお手本を見せてあげよう」


 湊は右腕にはめていた黒くて丸い石の連なっているブレスレットを外した。どうやらブレスレットが彼のディクショナリウムらしい。左の掌の上に置き、中央に恭しくひびの戻った指輪を置く。

 その上の何もない空間に、右手の人差し指で己の名前を描く。


「『イノルが命ずる。ニムロドの加護のもと、言葉の共有と復活たらんことを』」


 どっ!

 あたしがひとつずつ浮かび上がらせた文字。湊はそれらを一気に氾濫させ、息つく間もなく人差し指で絡め取っていった。

 大学校の教師陣のお手本よりも早く的確。鮮やかな手さばきだった。こんな修復なんて見たことがない。とにかく、凄まじい光景だった。


「……すごい……」


 思わず息を呑んでしまう。

 そして。

 残ったのはたったひとつの文字。


「答えは、【愛】だよ」


 湊が顔の前に浮かんでいる【愛】を丁重に指輪へと納める。指輪は発光しながら宙に浮かぶと光を吸収し——再びそっと掌に落ちた。


「おしまい」


 あたしが1時間かけてもできなかったことを一瞬でやってしまうなんて。

 我に返ると、悔しさに鼻の奥がつんと痛くなってきた。下唇を噛んで涙が出てこないように堪える。

 湊がすべてを見透かすようにウインクしてきた。


「忘れちゃいけないのは、言語修復士になるということは手段であって目的ではないということさ。まぁ学生としてはかなり頑張った方だと思うよ。さて、初日のインターンは終了! まだここでやっていく気があるなら、明日もおいで。マーナちゃん」



 ふらふらしながら寮へ戻ってくると、入り口で寮母さんが声をかけてきた。


「ちょうどよかった。電話が来てるわよ」


 反射的に眉をひそめる。受話器を受け取ると、聞き慣れた声が耳に入ってくる。


『お疲れさま、マーナ。今日からインターンだったんでしょう? どうだった?』

「報告するようなことは何もないです」

『うちから言語修復大学校に入学して、特別に言祝ぎ言語修復事務所へインターンへ行ける子が現れるなんてねぇ』

「施設の為に入学したんじゃないんで」


 ただでさえ疲れているのに、のんびりとした電話主の声に苛立ちが募る。


「何度も言ってるじゃないですか。児童養護施設出身だからどうだとか、そういうの、言われたくないんです」

『まぁまぁ。マーナはいい子だけど怒りっぽいのが玉にきずよねぇ。それが時としていさかいの原因になったりするんだから、言語修復士になるのならもうちょっ』


 ぶちっ。

 途中で通話を切る。受話器を乱暴に戻して両手で押さえた。脳裏に言祝ぎ言語修復事務所でのやり取りが蘇ってきて、言葉が勝手に口から零れる。


「愛なんて知ってる筈ない……。だって誰も教えてくれなかったんだもの」


 幼い頃に実の両親に捨てられてからずっと施設で暮らしてきた。簡単にまとめてしまえば望まれなかった子どもなのだ、あたしは。

 そしてそんなあたしの呟きが届いていない寮母さんも、のんびりと声をかけてくる。


「施設長さんったら心配性なんだからねぇ。マーナ、晩ご飯はどうする?」


 食堂の方からはカレーの匂いが漂ってきているけれど食欲はちっとも湧いてこなかった。


「要りません。日誌書いて、寝ます」

「気が向いたら食堂へ降りておいで。お夜食はいつでもつくれるからね」

「……」



 部屋の明かりをつけると、制服のままかたくて狭いベッドに倒れこむ。

 基本的に2名で一部屋のところを、特待生というだけで狭くても個室にしてもらえているのは、何よりもありがたいことだった。

 施設では当然のように大部屋で自分だけの空間なんてなかったから、ここで初めてあたしは自分の城を手に入れることができたのだ。その結果、部屋には大量の本が積み重なっている。買ったもの、貰ったもの、数えたことはないけれど何百冊と。

 仰向けに転がってバレッタにそっと触れた。

 生まれたときに親から授けられるものはふたつある。ひとつは名前、もうひとつはディクショナリウムだ。

 だけど両方ともあたしは貰うことができなかった。名前は前の施設長がつけてくれたものが気に入らなくてつけ直した。それから、ディクショナリウムは、——。


 ベッドの脇の小さなデスクの上に飾られた写真。

 写っているのは7歳のはにかんでいるあたしと、背が高くて長い銀髪の男性だ。前髪も長くて表情は窺えない。

 特級言語修復士、『月の王』。あたしに三日月のバレッタをくれたひと。

 当時、慈善事業として、全国の施設を巡回しながらディクショナリウムを持っていない子どもたちにプレゼントしていた。

 そのとき特別に撮らせてもらったのがこの1枚だ。あたしの知っている限り、月の王の姿はこの写真のなかでしか確認することはできない。

 児童養護施設で暮らしていた頃、あたしは孤独だった。友人もいなかったし周りからは疎まれながら生きていた。そんな子どもにも月の王は分け隔てなく接してくれたのだ。

 ……そう、今でも鮮明に思い出すことができる。



『開けてごらんなさい』


 場所は、施設の片隅。月の王が渡してくれた小箱を開ける。するとなかには三日月形のバレッタが入っていた。驚いて見上げると、一度頷いて、月の王は言葉を続けた。


『今、私は全国の乳児院や児童養護施設をまわっています。何らかの理由で親に捨てられた子どもたちはディクショナリウムを持っていません。我々言語修復士側からすれば、なるべく早いうちにディクショナリウムを手にしてほしいので、このようなことを試験的にやっています』


 静かな、形容するならばまるで夜のような声だった。

 そして夜に浮かんでいるように三日月はぴかぴかと輝いていて、見ているだけで心が躍り出しそうになる。


『いいんですか』

『もちろん』


 あたしは早速髪の毛に留める。

 そのとき、全身に温かいものが流れていくような感覚に襲われた。まるで欠けていたピースがぴったりとはまったパズルのような何かがあたしのなかにできあがろうとしていた。ディクショナリウムがあるというのは、こんなに精神に作用してくるものなのかと子ども心にとても驚いた。


『似合っていますよ』

『あ、ありがとうございます……!』


 精一杯お礼を言う。

 すると、たしかに微笑んだのだ。月の王は。



 写真のなかのあたしは三日月のバレッタを髪に留めて、照れくさそうに、だけどとても嬉しそうにしている。

 もう一度月の王に会いたくて、力になりたくて、あたしは言語修復士を目指すことに決めたのだ。

 端末を開いて、ディスプレイを空中に浮かべる。そしてインターン初日の記録を書き込んだ。これが1台あればだいたいのことは事足りるようになっている。そして報告を送信すると同時に睡魔に襲われて、そのまま眠りについた。

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