30. 423号室

 その時、ふとした違和感があっという間に膨れ、それは何者かが乱暴にこの廃墟を走り回っている足音だと悟った時の感覚、身の毛もよだつとは正にこういう事を言うに違いない。それは二人も同じだったらしく、俺達はそれぞれの絶望的な顔を咄嗟に突き合わせた。

「とりあえずこっちだ」

 向かって右側の423号室へイーライが入り、俺達も反射的に続く。すると部屋のセンサーが俺達の存在を感知し、明かりを照らしてくれた。今、この四階で、明かりが点いている部屋はここだけに違いない。「423号室に人がいる」と大声で叫んでいるようなものだ。こういう時ばかりは、便利さが裏目に出てしまう。

 とにかく、部屋の奥へ身を潜めるべきか、ドアの側に立って相手の状況を探るべきか迷ってふらふら部屋の中を彷徨っている間にも、足音はどんどん近くなっていく。声には出さないものの、俺達の誰しもが何かしらの助けを必死に求めていた。

 突然、音が止んだ。数秒間、何も聞こえなくなったかと思うと、再び足音が再開する。しかもさっきよりはっきりと、かつ迷いなくこちらへ向かっている。俺達の足跡、或いは明かりを辿っているに違いない。

 埃の灰色がかかった部屋の白い明かりが、自分の目の中へ溶け込んでくるような感覚。まるで俺以外の全てが、洗濯機の中へ放り込まれてぐるぐる回っているかの様な感覚。何か敵に抵抗する手段を考えなければならないと思うが、どうすればいいのか分からない。もしロボットに見つかったとして、それから上手い事逃げられるだろうか。相手は機械だ。逃げられたとしてもすぐに追いつかれるだろうし、その前にエドが食堂前で捕まった時の様に、その強靭な手で腕なり肩なりを掴まれて動きを封じられるだろう。

 足音がすぐそこまで迫る。俺は目を固く瞑る他に何も出来なかった――

「あっ、いた!」

 その声に、ロボットの持つ無機質さは含まれてなかった。むしろ、聞き馴染みのある声だ。そろそろと目を開けると、部屋の入口を塞ぐように立っていたのは――

「エド!」

 肩で息をしているエドのご自慢の黒髪は、今やあちこちに乱れまくっている、イーライがふらふらと側に近付いて、その人物が果たして本物なのかどうかを確かめるかのように、エドの肩なり背中なりをばんばん叩く。

「お前、無事だったのか!」

「うん、なんとか逃げ出せた……って、痛い、痛い!」

 その人物はエドだと信じられるだけの確信を得たイーライは漸く手を下ろし、ぐったりと項垂れた。「驚かすなよ」と溜息交じりの声が聞こえる。

「エドモンド君、一体どうやって逃げ出せたんだい」

「ああ、蹴りを一発食らわしてやった。そしたらあいつ、機械の癖に怯んでやんの」

 誇らしげに胸を張るのはいいが、それ、ちょっと具合が悪いような……。ジャックも俺と同じ事を考えているのか、浮かない顔をしている。

「へえ?それで、ロボットは壊れたのか?」

「え?いや、多分、そこまでは出来なかったな……。逃げるのに必死でよく分からなかった」

 なるほど。はっきりとした事は分からないにせよ、そのロボットがまだ生きているとしよう。そして、エドが逃げた道をそいつが辿って来たとしたら……。

「エドモンド君、出来ればそいつにとどめを刺しておいてほしかったな」

 ジャックの顔はゲリラ豪雨が降りだしそうな程曇っていた。今ばかりは、このパン人間の言う事に同意する。イーライも眉間を押さえて顰め面をしていた。この非難がましい雰囲気、そしてジャックの言わんとしている事を、流石のエドも察したらしい。

「ま――まあ、次に襲って来たら、そん時は叩きのめしてやるさ」

 ぶん殴っちゃえば大丈夫、とエドは空元気を装って笑顔だが、こめかみを伝う汗を俺は見逃さなかった。事の重大さが呑み込めてきたようだ。

 叩きのめす、と簡単に言ってくれるが、もしエドを襲った一体を倒す事が出来たとしても、仲間の死を察知した外に残っているロボット達が、仇討ちとばかりに俺達を狙いに来るのが関の山だ。しかもその内の一体は、既にこの廃墟に入り込んでいるかもしれない。もしロボット達全員を片付けるとなれば、そいつらに等しくダメージを与えなければならない――そんな術は、存在しないのだが。

「あ」

 イーライが不意に、顔を上げた。俺にも聞こえた。至って一般的な速度で廃墟の階段を上る、固い革靴の足音。今度こそ、政府のロボットで間違いない。そのまま四階を過ぎ去ってくれれば良かったのに、案の定ここを探索するつもりらしい。足音がこちらに近付いてくる。イーライが歯ぎしりと共に、「いいか、とりあえず走るんだ」と、ドアの外を凝視しながら、俺達の方を見ずに呟いた。エドはいつでも飛び掛かれるようにさっと身構えたが、握りしめた拳が震えている。俺はただ、向かいの空っぽな部屋を見つめる事しか出来なかった。

 ロボットがこの423号室のドアの前に近付いてくるまでの、ほんの数秒間。ただ、俺の体内時計が、それを一時間程の長さにまで引き伸ばす。

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