第4話

 ハンクスが死んだのは今から半月ほど前のことだ。その一年前からハンクスは不調を訴えていた。しかしタンガスに休んでいるよう言われても「動いていた方が気が紛れる」と言ってハンクスが休むことはなかった。


 タンガスのメルイトは旅をして生活をしている。旅と言ってもナダの森やサーマ湖の周りを順繰りに巡っているだけだが。ナダの森では獣を狩り、サーマ湖では魚を捕る。捕ってきた獣や魚は食料にもなるが、革細工や薬膳の原料として使われる。メルイトの中で狩りをするのは主にタンガスとキディアで、それを加工するのはハンクスとダルニスの仕事だった。トーヤはまだ生まれて十年ほどだからなにか特別なことをすることはなかったが、強いて言うなら薬膳の材料になる草や木の実を集めるのが仕事だ。


 いつもと同じような日だった。空は高く、空気は少し湿っている。その時メルイトがいたのはナダの森だ。集落から三日ほど歩いたところに簡易的な拠点を作って獣を狩っていた。十日ほどこの周辺で狩りをしたらサーマ湖に向けてまた出発しようということになっていた。


「上手くなったもんだな」


ダルニスの手元を見てハンクスが言う。ちょうど前日にタンガスとキディアが狩ってきた獣の皮を洗っているところだった。


「ハンクス、寝ていないとだめじゃないか」


作業に集中していたせいでダルニスはハンクスが近くに来ていることに声を掛けられるまで気付かなかった。ハンクスはこの拠点に着いたあたりから病状が悪化していた。ダルニスは集落に戻って療養した方が良いと何度も言ったが、ハンクスは大丈夫だと言うだけだったし、長であるタンガスもハンクスが大丈夫と言っているのだからと言ってダルニスの言葉を聞き入れてはくれなかった。確かにこのメルイトは集落に戻ったからといってハンクスが十分に療養できるような家があるわけではない。いつも集落で過ごす時は、顔見知りのメルイトが普段物置に使っている小屋を間借りして使わせてもらうのだ。それでも集落にとって自分たちは、外から物資を運び込む数少ないメルイトの一つだ。ハンクスだけでも世話をしてくれるメルイトがいるのではないかとダルニスはタンガスに提案してみたが、タンガスは少し困った様子で「ハンクスが嫌がるだろう」と答えただけだった。


「トーヤはどうした?」


ダルニスがハンクスを支えようと手を差し伸べると、ハンクスは大丈夫だと言うように首を振ってそう言った。


「トーヤは近くで木の実を探しているはずだ」

「そうか…」


ハンクスは言うとその場に腰を掛けた。ダルニスにも座るように目で促す。


「たぶん私はそう長くない」


ハンクスは言った。その声は幼い頃に物語を語ってくれた声よりもしゃがれていて、ダルニスは悲しくなった。


「そんなこと言わないで…」

「死期くらい自分でわかる」


ダルニスの言葉を遮ってハンクスは言った。その目はいつも以上に澄んでいて、その言葉が真実なのだと教えてくれた。


「ダルニス、お前は本当によくやってくれている。私が今までやってきた仕事を代わりにやってくれて感謝している。さらに私の心配までしてくれて、私はお前に感謝してもしきれないよ。だけど、どうあがいても、もう長くはないんだ」


「あとどのくらいなの?」


ダルニスは聞いてから、聞かなければ良かったと思った。聞きたくない。ハンクスが死ぬことなど認めたくない。


「タンガスとキディアが戻ってくるまでもてば良いんだが」


とても残念そうにハンクスは言った。日はまだてっぺんまで昇っていない。タンガスとキディアが戻ってくるのはおそらく日が落ちる直前だろう。


「二人にどんな顔をして説明したら良いの…」


「お前に辛い想いをさせてしまってすまない。けど、タンガスには今朝出かける前に伝えてある。もしかしたら二人が戻るまでもたないかもしれないと」


「それなのにタンガスは狩りに?」


ダルニスは非難交じりに言った。


「タンガスを責めるな。私が狩りに行ってほしいと言ったんだ。できれば皆、いつも通りに過ごしてほしいと」


「どうしてそんな…」


どこかで鳥が鳴いていた。木々は風に揺れ、どこかで咲いている花の匂いを運んでくる。


「ダルニス、死を恐れてはいけない。人はいずれ死ぬのだから。死は特別ではない。だから私は皆にいつも通り過ごしてほしかった。だけどダルニス、お前には託さなければいけないことがある」


「託さなければいけないこと?」

「そう、おそらくこれはお前にしか託せない」


ダルニスはハンクスの次の言葉を待った。ハンクスは少し迷っている様子だったが、意を決したように言葉を繋いだ。


「このメルイトを絶やさないでほしい」


ダルニスは「そんなこと」と呟いたが、ハンクスの至極真面目な顔を見たら何も言えなくなってしまった。


「お前のことだからそんなの当然だと言うと思ったさ。だけど、メルイトを絶やさぬよう存続させるには、それ相当の知恵と力が必要だ。ただ子を産み育てるだけではメルイトを存続させることはできない。子が成長するのには時間がかかるし、その子が一人前に仕事をこなせるようになるのにも時間がかかる。だからこのメルイトを絶やさぬよう、お前の知恵を働かせてこのメルイトを引っ張ってほしい」


ハンクスの言葉は今まで深く考えたことのない、しかし無意識のうちに理解していたことだった。とはいえ、それを実行に移していたのはハンクスだ。


「私がこのメルイトを?」

「もちろんこのメルイトの長はタンガスだ。けれどタンガスはメルイトを存続させることにあまり興味がない」


ハンクスの顔は悲しげだった。金色の髪に艶はなく、肌はカサカサに乾燥して皺だらけだ。ダルニスはそっとハンクスの手を握った。その手も皺が深く刻まれている。最近はダルニスがハンクスの代わりに仕事をしていたから手荒れが減ったと言っていたが、長年酷使してきたその手の皮は厚く、歴史を感じさせた。


「心配しなくていい。私はこのメルイトを愛しているから」


ダルニスの目から涙が零れ落ちた。初めてハンクスに出会った時の記憶が蘇る。


「ありがとう。お前のその言葉を聞いて安心したよ」


ハンクスは握られていない方の手でダルニスの目から溢れる涙を拭った。ほんのりと熱を帯びたその手がぽうっと薄く光った。手だけではない。ハンクスの体全体が薄く発光している。


「ああ、最後の姿なんて人に見せるものではないのに」


ダルニスに触れていたはずの手がまるで湖の淵にある白い砂のようになり、崩れてさらさらと地に落ちていく。ダルニスは人が死ぬのを間近で見るのは初めてだった。普通は崩れていく姿を見せないよう、ひっそりと一人で死んでいくものだから。


「ハンクス…」


ダルニスは名前を呼ぶことしかできなかった。ハンクスから発している光に日の光が溶け込んで、光が増しているように見えた。先ほどまで指先だけだった崩れは腕にまで到達している。視線を下に向けると足も同じように末端から太ももに向かって崩れている。


「最後までお前に甘えてしまってすまない…」


ハンクスは言葉を続けようとしたようだったが、口がぱくぱくと動くだけで音は聞こえなかった。ダルニスがハンクスの頭を抱えようとした瞬間、ハンクスの体の全てが、弾けるように砂と化した。残ったのはハンクスが着ていた服だけだった。


「ああ…」


言葉にならない音を発しながら、ダルニスは残された服をそっと持ち上げた。さっきまでそこにいた人はもういない。全てがこの土地に帰ったのだ。

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