(3)支配者の眼

 話し終わって、息を吐く。


 もっとも、実際に呼吸している訳ではないのだが。

 心臓さえ止まっているが、生前の癖は未だに抜けない。

 本当、嫌になる程の虚構的現実世界。


 聞き終わっても、サトーは黙っていた。

 だから「わたし」もそれ以上話さず、じっと窓の外を見つめていた。

 と言って、別段重苦しい雰囲気という訳ではなかった。どちらかと言うと、空気のように希薄な沈黙だった。

 いつでも、話そうと思えば話し出すことのできる──だけどそれ故に、話す必要は無いと感じられるような。そんな沈黙だった。


 やがて、観覧車は地上へと降りて来た。

 夢のような一時は、こうして呆気無く幕を閉じたのだった。


「ねえ、サトー。どうして貴方は、わたしを殺そうとはしないの? あの子がああなっちゃったのも全部、わたしに責任があるって言うのに」


 降りる寸前、先を行くサトーの背中に向かってふと、疑問に思ったことを尋ねてみると。


「木頭蒼葉は三年前に死んだ。今俺が殺すべきなのは、日向蔓であってお前ではない」


 と、今頃何を訊いて来るんだと言わんばかりの、どこか疲れたような口調で応えられた。


「ふぅん。何だか羨ましいな、それって。あー、わたしもいっそ貴方に殺して貰えたら楽になるかも知れないなぁ」

「どうしても殺して欲しかったら、正式に依頼することだ。もっとも、自分を殺してくれなんて言って来る依頼主は居ないし、そんな依頼は受ける気にもならないがな」

「えー。見かけに寄らずケチなのね、貴方って」

「何を言う。こっちだって生活がかかっているんだ。金にならない仕事はしない。日向蔓は特例なんだよ」


 そう応えた、サトーの表情は心なしか明るい気がした。普段無表情なだけに、ちょっとした変化が直ぐ目に付く。

 ほんと、ちっとも変わらないな、こいつだけは。


「さてと。そろそろ行こうか。もうすぐ日が暮れちゃうしね」

「ああ。……だが、本当にこれで良かったのか? 俺はまだ、お前に礼らしいことを何もしていないが」

「何言ってるの。そんなもの、最初から期待して無かったわよ。さ、行きましょ。ぐずぐずしてると置いて行っちゃうわよ!」


 言って、彼の前を走り出す。

 彼の顔を、まともに見て居られなかった。


 好きなんじゃない。

 もう人間ですらない「わたし」に、人を愛する資格なんて無い。


 でも決して嫌いじゃないし、出来ればずっと一緒に居たいとも思ってしまう。

 そんな泥棒猫みたいな自分が嫌で、情けなくて堪らなくて。

 でも彼と居ると嬉しくて楽しくて、凄く安心できてしまう。


 ああ、くそ。

 人間らしい感情なんて、遥か昔に置き去りにして来たと思っていたのに。



 ああそうだ、「わたし」はサトーが好きなんだ。

 狂いそうになる位、「わたし」は彼のことが好きで。

 そんな自分が、どうしようも無く嫌いだった。



 だから、「わたし」は走った。

 彼への未練を振り切ろうと。幸せだった記憶など、早く忘れ去ってしまおうと。

 全ての想いを捨て去るべく、ただ「わたし」は走り続けた。



「…………」



 一体どの位走ったのだろう。


 足を止めた時には、既にサトーの姿は無く。

 闇に彩られたその世界には、唯一つの生物も存在してはいなかった。


 あるのは死体。

 それも一つではない。無数に散らばる死体の中に、「わたし」は立ち尽くしていた。


 ──どうしよう。

 「わたし」、これと同じものを前にも見た気がする。確か、これは。


「屠殺、回廊」


 震える声で呟き、思わず一歩後退る。

 と、何かにつまづき「わたし」は転倒した。

 その衝撃で、水飛沫ならぬ血飛沫が上がる。


 何につまづいたのか、考えるまでもなかった。

 切り取られたばかりの、人間の生首だ。それも恐らくは、「わたし」の良く知る、あの人の──。


「どうして」


 何故今頃になってこんなものを見せられなければならないのか。

 もう「わたし」は日向蔓ではなく、「観察者の眼」も持ち合わせてはいないと言うのに。

 なのに何故、見えてしまうのか。


 答えは、すぐに見つかった。


 ばしゃばしゃと水音を立て、誰かがこちらに向かって来る。

 その手には銀色に光る鎌が握られていて、冷たく見下ろして来るその瞳には、見覚えがあった。


 かつての木頭蒼葉にして、現在の日向蔓。

 「観察者の眼」を受け継ぎし「彼女」が今、復讐の鎌を携えて「わたし」と対峙している。


「わたしを、殺しに来たの?」


 そう訊いても、「彼女」は応えてくれなかった。大きく鎌を振り上げる「彼女」。

 「わたし」は咄嗟に身を捻り、その一太刀をかわす。


 ──完全にかわしたはずだったが、右肩から先がごっそり切り落とされていた。

 痛みは無い。そうだ、これが屠殺回廊。


 殺害という行為に特化された、悪夢の如き幻像だ。


「なるほど、処刑場としてこれ以上相応しい場所は無い、か」


 再度鎌を振り上げる「彼女」に対し、「わたし」は糸を解き放つ。

 仕留める。否、これで仕留めることができなければ「わたし」の死は決定するだろう。


「高貴なる(ノーブル)──」


 指先から紡ぎ出す糸の総数は五つ。

 それら全てを、「彼女」目掛けて撃ち出していく。


「……線形芸術(ラインアート)!」


 糸の一本が鞭のように「彼女」の手から鎌を打ち落とし、残り四本の糸が「彼女」の身体を拘束する。

 勝負は一瞬で決していた。


 そうだ。かつて日向蔓が屠殺回廊を発動させてしまう度に、木頭蒼葉はこうして抑えてくれた。

 だから「わたし」は傷付かず、誰かを傷付けることも無かったんだ。


 そう。だから今度は「わたし」の番。

 「わたし」が「彼女」を止める番なのだ。


「アハハハハハハハハハ」


 ──だけど。

 「彼女」は笑って、糸は簡単に解けてしまった。


「馬鹿な。ノーブル・ラインアートが、効かないと言うの?」


 呆然と見つめる「わたし」をよそに、「彼女」は落ちていた鎌を拾い上げる。

 その黒き双眸は鮮血色に変化し、全身は白銀に輝き始めた。


 ……違う。これは「彼女」なんかじゃない。もっと異質な、別の何か。

 俗な言い方をするなら、それはまるで。


「白い、天使」

「バイバイ、オネエチャン」

「──あ──」


 死神の正体を知った、その次の瞬間には。

 「わたし」の意識は、身体ごと両断されていた。



 それで終わり。


 今までかろうじて生き永らえて来た「木頭蒼葉」という人格は。

 天使のごとき死神の手によって、無造作に破壊されてしまった。

 後に残るものなど、何も無い。


 日向蔓であることを放棄してまで手に入れた、唯一無二の人格が消滅したのだ。

 残るものなど、何も無いはずだった。


 だから「わたし」は、本当に終わってしまったのだと思った。



「…………」



 意味の無い夢を見た。


 夢の中では、小さな男の子と女の子が喧嘩をしていた。

 喧嘩の原因は分からない。


 男の子が殴ると、女の子は「わっ」と泣き出してしまう。

 でもその後すぐに彼女は石を拾って、それを男の子にぶつけた。

 今度は男の子が泣き出してしまう。


 二人はなかなか泣き止まず、「わたし」はその様子をじっと見つめていた。

 やがて親らしき人が来て、彼らの手を引いて帰って行った。


 そこは夕暮れの公園で、「わたし」には見覚えが無い。

 これから何が起こるのかと「わたし」は成り行きを見守っていたが、それ以上は何も起きなかった。

 結局「わたし」は、幼い男女の他愛も無い喧嘩を見せられ続けたことになる。


 だからそれは、本当に意味の無い夢だった。



 取るに足らない、極めて些細な──だけど「わたし」にとっては、かつて夢見た幼い願望なのだった。



 それは。

 いつか必ず、そんな日が来ると信じて。



 永遠に訪れることの無かった、夢の一幕。



 ◇◆◇◆◇



 朝の日差しを眩しく感じて、わたしは目を覚ました。


 最近どうも、寝覚めが悪い。

 だからわたしは、わざと部屋のカーテンを開けたまま寝ることにしている。朝が来ると、自動的に朝日で起こされるという仕組みだ。

 まあそのせいで外からは中が丸見えになっているが、特に見られて困るものなどはこの部屋には存在していないので問題無かった──。


 と思っていたのだが、どうやらそうでもないらしかった。


「おはよう、日向蔓」


 彼の声に、わたしは飛び起きる。

 まさかと思ったが、部屋の中にはサトーの姿が在った。

 何となく、慌ててカーテンを閉める。


「さ、さささ、サトー!? な、何で貴方が、わたしの部屋に!?」

「何を言う。ここはお前の部屋じゃないぞ」

「へ? で、でもここは、確かに、わたしの……あれ?」


 まじまじと部屋の様子を観察する。

 言われてみれば確かにそこは、わたしの部屋ではないようだった。

 良く似た家具の配置ではあるのだが、細部が微妙に異なっている。


「あれ? ここ、どこ?」

「ヒムカイカズラの部屋だ。分かるか? お前が昨日、訪ねようとしていた部屋だよ」

「えー……?」

「お前が道端に倒れているのを発見したんでな。お前のアパートよりこっちの方が近かったから運び込んだんだ。まあ、突然のことでヒムカイカズラには迷惑を掛けてしまったと思うが……って、聞いてるかお前」

「あー、うん。まあ、何となく分かったけど」


 なるほど、つまりここは現在の彼女の住処か。本当に、何となく理解した。

 だからか、あまり実感が湧かないのだが──。


「って、ちょっと待ってよ。昨日ここに運び込んだってことは、あの子はわたしの姿を見たってこと!?」

「ああ。と言うより、お前を最初に発見したのは彼女なんだが」

「え、えええええっ!?」


 今度こそ、わたしは本当に驚いた。

 実感する暇すら与えられず、サトーの口よりもたらされる衝撃の事実の数々。

 不鮮明だった思考が、にわかにクリアになっていく。


「ちなみに彼女、今は台所で食器を洗っていたりするぞ。もうすぐ戻って来ると思うが。その時にでも、事情を聞いてみたらどうだ?」

「じょ、冗談じゃないわよ……! ま、まだ心の準備というものが!」

「準備も何も。向こうはお前のこと知らないんだから、大丈夫だろ?」

「知らない、って」


 何を馬鹿な、と言い掛けて。わたしは気付いた。

 そう言えばサトーの奴、さっきわたしのこと「日向蔓」って呼ばなかったっけ。

 わたしの聞き間違いじゃなければそれは、昔のわたしの名前で……現在の名前は、えっと……あれ?


 昔も何も、わたしの名前は最初から一つしか無い。

 日向蔓だ、それ以外には在り得ない。


「うう、分かんなくなって来たな。わたしが日向蔓なら、彼女は何だって言うの? ……まさか、木頭蒼葉とか?」

「それは違う。木頭蒼葉という人間は、三年前に死んだんだ。昨日もそう言っただろう? お前は日向蔓で、彼女はヒムカイカズラだ。つまり、同姓同名の別人ということだな」

「はあ? 何それ、どんなインチキよ!?」


 わたしが尋ねても、サトーはそれ以上何も応えてはくれなかった。

 自分なりに考えろ、ということなのだろうか。


 大体にして、どうしてわたしは生きているのだろう。あの忌まわしき屠殺回廊で、わたしは死神に殺されたはずだったのに。

 そう、あの時「木頭蒼葉」という人格が消滅して。


「元の人格、日向蔓だけが、残った?」


 思い付いたことを口にすると、サトーは黙って頷いてみせた。


「そうか。三年前に死ぬべきだったのはあくまで木頭蒼葉。日向蔓という人格を別個の存在とするなら、死神の狩りの対象にはならない。だからわたしは狩られずに済んだ。

 ……だけどそれって、結局は蒼葉を犠牲にしたってことなんだよね。結局わたしは、今度も彼女を護ることができなかったって訳ね。はは、何やってんだろわたし。無様に生き残って、また罪を重ねて。ほんと、ロクでもない人生だわ」

「だが。そのロクでもない人生によって、助けられた命もある。そう、捨てたものでもないだろう。それに、少なくとも彼女は、お前を必要としているようだ」

「くく、よしてよ。死人同然のわたしと一緒になんか居たら、発狂しちゃうわよあの子」


 言って、わたしは立ち上がる。

 一応の状況を理解できた以上、こんな所に長居は無用だ。

 どのみちわたしに彼女を助ける力は無いし、これ以上ここに居たって彼女に迷惑を掛けるだけなのだから。

 ならば、過去の亡霊にできることは、大人しく消えることだけ。


「ごめんねサトー、力になれなくて。わたし、やっぱ帰ることにするわ」

「そうか。一言、声を掛けるだけでも駄目か?」

「うん。名残惜しくなるだろうしね……ああそうだ、伝言頼まれてくれるかな?」

「何だ?」

「あー、別に大したことじゃないんだけど。元気でね、って」


 本当の所、上手く言葉が見つからなかった。

 かつての木頭蒼葉としての記憶を捨て、日向蔓として生きる道を選んだ彼女。せっかく手に入れた木頭蒼葉という人格を失い、捨てたつもりでいた日向蔓という人格を取り戻したわたし。

 似て非なる道を選んだ二人の日向蔓は、もう二度と交わることは無いだろう。

 だから、掛ける言葉などは無い。


 ただ、彼女にはわたしの分まで幸せになって欲しいと。

 言葉にならない想いを胸に秘め、わたしは彼女の部屋を出た。


 それが、わたしと彼女との、永遠の決別だった。



「──さて。そろそろ決着、つけましょうか」


 残っていた糸を手繰り寄せると、意外な程簡単に死神は釣れた。

 不思議そうにこちらを見つめて来るその紅い瞳には、以前感じられた殺意は無い。


 だけど。それは間違い無く、わたしの敵だった。

 否、わたしと彼女、共通の宿敵。

 己の全存在を懸けても止めなければならない、最初にして最後の相手だった。


「貴女には感謝すべきなのかもね。おかげでわたし、自分を取り戻すことができた。でもね、同時に多くのものを失ったのよ。悪いけど、木頭蒼葉の仇だけは討たせて貰うわ」


 日向蔓としての能力、「観察者の眼」を発動させる。


「まずは第一段階。本来見えないはずのモノを目視する能力」


 荒野が見えた。戦場。

 多くの兵士が戦い、そして死んでいく無情の光景が眼前に広がっている。


「第二段階。幻像を、視覚以外の五感を伴い感じ取る能力」


 吹き荒ぶ風が、わたしの髪をなびかせる。

 地面に落ちていた一本の剣を拾い、軽く振ってみた。

 その重量感たるや、まるで本物の真剣だ。


「第三段階。任意の幻像を意識的に選択する能力」


 握り締めた剣だけを残して、荒野が消えた。

 代わりに生まれたのは処刑場。

 屠殺回廊という名前の、絶対的なる死の空間だった。


「そして、第四段階。幻像を、現実化する能力」


 生臭い血の匂いが、かつて無い程に濃くなった。

 瞬間的に理解する。今この場においてわたしにできないことは無く、こと殺害に関して言えばわたしに勝る者は存在しないのだ、と。


 ここでならば、神ですら抹殺できる。

 もはやそれは「観察者の眼」というカテゴリーを超越し、遥か高次の──別次元のものと化していた。


「すなわち。『支配者の眼(ルーラーズ・アイ)』」


 剣を構え、死を宣告する。ただそれだけで、死神は滅びるだろう。

 だが、そう簡単には殺さない。


「鎌を構える時間をあげる。わたしと戦い、そして死になさい」

「…………」


 糸を解いてやっても、白い死神はぼんやりとこちらを見つめて来るばかりで、戦おうとはしない。

 気に入らないと言えば、それが気に入らなかった。


「どうしたの? わたしが怖い? それとも貴女は、死ぬべき人間以外には手を出せないのかしら。だとすると哀れね。そう。ならわたしが、貴女に戦う理由を与えてあげる」

「……ェ……!?」


 手をかざすと、その先に光が満ち。中から、木頭蒼葉が姿を現した。

 否、正確にはそれは本物の蒼葉ではない。あくまで「木頭蒼葉」という概念に過ぎず、意志も無ければ形も無かった。

 だが、それでも木頭蒼葉は現実世界に存在していて、それは死神の少女を脅かすに事足りるモノであった。


「さあ、貴女が三年前に殺し損ねた木頭蒼葉よ。どうしたの、早く殺しなさいよ」

「キトウ、アオバ」


 鎌を振り上げ、木頭蒼葉目掛けて振り下ろす死神。両断され、一瞬で掻き消える木頭蒼葉。

 その両者を眺めながら、わたしは剣を突き出した。素人同然の剣筋は、しかし的確に死神の喉元に突き刺さる。


「カッ……!」

「貴女は木頭蒼葉を殺し切れない。何故ならわたしが、瞬間的に木頭蒼葉を創ってしまうからね。貴女が彼女を殺す度、蒼葉は増えていくのよ」


 その言葉を証明するかのように、空間上に木頭蒼葉が二体出現した。


「ァ」

「どう? これでわたし達、戦う理由ができたと思わない?」

「ア……アアアアアァァァァァッ!」


 死神の鎌が二体の木頭蒼葉を瞬く間に破壊し、返す刃がわたしの胸を貫く。

 どうやらようやく、わたしを敵として認識してくれたらしい。


 ──ならば、もう遠慮は要らない。


「滅せよ。我が妹、日向蔓」


 日向蔓は、三人も要らない。


「ア……オネエ、チャン」


 何故生まれた。

 何故生まれなかった。

 何故存在する。

 何故存在しない。


「タス、ケ、テ」


 なら、何故殺す。

 何故人として生きずに、死神としてのみ在るのか。


 ──たった一人の双子の妹。

 あるいは日向蔓として生を受けていたかも知れない妹。


 ああそうだ、もしかしたらわたしがこうなっていた可能性だってあった。

 確率は半々で、たまたまわたしが生き残れたというだけのこと。

 彼女からしてみれば、それは理不尽に見えたことだろう。憎んだことだろう、恨んだことだろう。

 その憎しみや恨みが、彼女を死神として覚醒させたのか。

 あるいは元々持っていた能力だったのか。それは分からない。


 ただ確実に言えることは、彼女は滅ぼすべき敵だと言うことだ。

 血を分けた最愛の妹でも、いや妹だからこそ、わたしの手で倒さなければならない。


 剣を捨て、わたしは彼女を抱き締めた。

 最後に精一杯の愛情を込めて、わたしは。


「共に逝きましょう。あの遠き月の向こう側へ」


 ──日向蔓は、一人で充分なのだから──


 完全なる、滅びの言葉を告げた。



「…………」



 月を見ていた。


 その行為自体に意味は無く、

 その行為に対してさえ、価値を見出せないでいるわたしという存在が居る。


 青白い面の上に生じた黒い亀裂は、まるで眼と口の様で。

 丁度、笑みの形に刻まれている。

 少なくともわたしには、そう見えた。


 ──月が、嘲笑っている。


 でも、誰を? わたしにはわたしではない別の誰かであると応えられる自信が無い。

 ある意味、わたしが最も相応しいとさえ思えてしまう。侮蔑の対象としては。


 わたしは確かに、月を見ていた。

 半死人のような顔で、月もまたわたしを見つめているように思える。


 黒い亀裂が、徐々にその面積を増していく。

 ますます、笑っているように見えて来る。

 気味の悪い笑顔と共に、闇が、月を侵していく。


 やがて、月は完全に闇に包まれ、夜空から光が消えた。

 だけどわたしには未だに見えていて。そしてわたしはようやく、その正体に気付いたのだ。

 アレは、人の顔などではなかった。

 そんな、大それたモノではなく。


 ──それは、一個の眼球だった。


 大きな黒い眼球が、わたしをじっと見下ろしていた。



 返してあげるよ。今、あなたに。



 ──わたしにはもう、要らなくなったものだから──



 ◇◆◇◆◇



 食器を洗い終わって戻ると、居間にはサトーの姿だけが在った。


 彼女のことを訊くと、帰ったと彼は応えた。

 サトーにしては珍しい、どこか寂しそうな口調だった。


 仕方なく、布団を片付ける。


「ヒムカイカズラ。彼女からの伝言だ」


 途中、思い出したようにサトーがそう言って来た。


「元気でね、ですか?」

「何だ、聞こえていたのか」

「ええ。狭い部屋ですからね」


 そう応えて、「わたし」は彼女が座っていたであろう床を指でなぞる。

 勿論その行為に意味は無く、無意識に近いものだったのだけれど。


 そうしている内に何だか、酷く懐かしい人に触れているような気がして来た。



「あの。サトー」

「何だ?」

「あの人に、もう一度逢えますか?」

「…………」

「伝言を、お願いしたいのですが」



 伝えるべき言葉は決まっている。


 ──お元気で、と──


 ただ一言、そう伝えたかった。




 了

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