(2)哀

 初めて彼を見たのは、大学に入学して間もない、ある春の日のことだった。


 当時の「わたし」は本当に一人きりで、話をする相手も居なかった。

 高校の時の知り合いは皆県外に出て行ってしまって、残ったのは「わたし」だけだったのだ。


 授業の前など、時間が空いた時には外ばかり眺めていた。

 大学の内側はつまらない。誰も彼も似たようなお喋りばかりしていて、話に入る気にもならなかった。

 加えて「わたし」には、初対面の人間と気安く話す度胸が無い。

 だから、外ばかり見ていた。とはいえ、あまり見つめ続けていると善くないモノまで見えてしまうので、適度に視線を逸らしながらだったのだが。


 そんな時に、彼を見た。

 構内に植えられていた桜の樹の一本に、あろうことか彼はよじ登ろうとしていた。

 当然、誰もが彼を止めようとした。

 だけど彼は諦めなくて、とうとう一番下の枝にまで辿り着いた。

 躊躇うこと無くそれに跨る彼。呆気無く折れる枝。


 落下。真っ逆さまに地面に激突。

 講義室の中の「わたし」にまで聞こえて来るような、凄く大きな音がした。

 それは、死んだんじゃないかと思ってしまう程の轟音だった。


 だけど、彼は生きていた。

 数人の生徒に抱えて貰いながらも、彼は自分の足で立ち上がった。

 そして、信じられないことに、彼は笑顔だった。


 ──後で彼本人の口から聞いたことだが、あの時彼は痛くて痛くて泣き出してしまいそうなくらい痛かったのだと言う。

 でも彼は、泣く代わりに笑うことを選択した。


「桜が綺麗だったから、もっと間近で見たいと思っちゃったんだよな。そんな馬鹿げた理由で樹に登った自分が、笑い出したくなるくらい馬鹿みたいに思えてさ。つい、吹き出しちまったんだ。

 そしたらさ、不思議と痛みが退いていったんだよな。それに俺が笑うと、皆も笑ってくれるんだ。一石二鳥、笑う門には福来たるってね。だから俺、後半泣き笑いだったんだけど、頑張って笑い続けたんだよ。

 あーでも……うん、やっぱ、皆に心配掛けさせちゃいけないよな。ごめん、かずら。お前も見てたんだな、あの時。馬鹿なことしちまったな、俺」


 本当に、彼は馬鹿みたいだった。

 あまりに滑稽で、情けなくて、それ以上見て居られなくなった。

 だから彼から目を背けて、その時彼を初めて羨ましいと思った。


 ──どんなことがあっても笑って居られる彼を、心底羨ましいと思ってしまった。


 それが、初めての彼との出逢い。

 もっとも彼は「わたし」に気付いていなかったから、一方的に「わたし」が見ただけと言うことになる。

 本当に馬鹿なのは「わたし」の方だ。たったそれだけのことで、動じないと思っていた心があっさりと揺らいでしまった。

 彼と話すらしていないというのに。


 「わたし」はその時、生まれて初めて他人を憎んだ。

 決して動いてはならない「わたし」の心を衝き動かした、あの愚かな青年を。

 殺してやりたいとさえ思ったかも知れない。


 だけど、それは間違いだった。

 今まで気付きもしなかったけど──気付こうとすらしてはいなかったけど。

 どうやら「わたし」はその時既に、彼に惹かれ始めていたらしいのだ。


 もっと早く、気付くべきだった。

 彼が桜の樹に登ろうとした、本当の理由に。

 そうすれば「わたし」は、止められたかも知れないのだ。


 ──否。

 未来は最初から確定していた。過去は尚更だ。

 止められる訳が無かった。それは今更言わずとも、分かり切っていたことのはずだった。


 なのに。

 「わたし」は現在、後悔している。


 悔やんでも悔やんでも悔やみ切れない、日向蔓という愚図が居る。





 首の無い死体が、そこら中に転がっている。

 血溜まりが沼のように広がっており、足の踏み場も無い有様だ。


 現実ではない。かろうじて、そう認識できた。

 幻像、それも相当質の悪い類のものだ。


 それが何なのか、「わたし」は知っていたはずだ。

 なのに、思い出す努力をしようとしていない。

 何故「わたし」がこの場所に居るのか、何故死神を連想させるような大鎌を携えているのか、何故その鎌の刃の部分が紅く滲んでいるのか。全てを知っているはずなのに。


 佐々木志朗の笑顔が、頭から離れて消えない。思考が妨害される。

 駄目だ、まともに考えられない。まともに考えようとすればする程、気が狂いそうに頭が歪む。痛い。死にたくなる程に痛い。いっそ泣いてしまいたい。痛みを受け入れてしまいたい。


 だけど、そう思う度に。佐々木志朗の笑顔が、脳裏に思い浮かぶのだ。

 そう、それこそが現実。今目の前で起こっていることは、所詮幻に過ぎない。

 現実に起こり得ないことなのだから、本当に起こる筈が無い。


 なのに、幻はなかなか消えてくれない。

 「わたし」は一歩前に踏み出すと、鎌を振り上げた。目標は、そこに居るはずの無い獅子の雄。怯えたように鳴き喚くその様に、百獣の王者たる威厳は微塵も感じない。おかげで躊躇無く、彼の首筋に鎌を振り下ろすことができた。さして力は入れてなかったのだが、獅子の頭部は簡単に胴体から離れてくれた。


 背後を振り向くと、今度は雌の獅子が居た。覚悟を決めているのか、雄程に怯えた様子は見せていないが。どのみち彼女が死ぬことに変わりは無いし、「わたし」もこんな悪夢はさっさと終わらせたかった。横薙ぎに鎌を振るうと、雌獅子の首はころころと向こうの方まで転がっていった。


 さて、と視線を巡らす。

 見た所、残っているのは一対の雌雄のみだ。人間の雄と雌。

 どこかで見たようで、一度も見たことの無い顔をした男女だった。

 彼らは「わたし」の方を見ようとはせず、「わたし」の起こした惨劇からも顔を背けて、ただお互いに見つめ合っていた。


 鎌を振り上げる。どちらを先に殺すかは既に決めてある。雄、雌交互に殺して来たから、その順番のままに男の方を先に仕留めるつもりだった。

 順番に意味は無い。どうせ両方死ぬのだから、本当に意味は無い。


 女に向かって、男が何かを呟いた。でも「わたし」には聞こえない。

 ただ、口の動きから何か言っていると分かっただけで。鎌を振り下ろした時には、そんなことはどうでも良くなっていた。


 ──違う。

 彼が言ったのは、女に対してではなかった。

 身体から離れ、仰向けに転がった男の首は「わたし」をじっと見上げていて。


 いつの間にかそれは、佐々木志朗のものになっていた。


「─────」


 思考が止まる。一切の事項が考えられなくなる。

 何だ、「わたし」は何をした? 何だ、これは? 何が、起こった? コレハ、ナンダ?


 死。絶対の死。首が落ちたら死ぬのは当たり前。死? 誰が死ンダ? 彼だ。彼? 彼とは誰だ? 誰が死ンダ? 佐々木。ササキシロウ。誰? ダレダ、ソレハ?


 知らないはずが無い。ただ認めたくないだけだ。

 そこに居るのが志朗だと。「わたし」が彼を、殺してしまったのだと──。


「あははははははははは」


 それまで黙っていた、女が突然笑い出した。

 耳障りなその声、黙らせてやりたくなる。


 「わたし」は鎌を構え、女の方へと振り向き。


 次の瞬間。

 鮮血の如き紅い双眸に、無防備な全身を貫かれていた。

 ただ、見つめ合っただけだと言うのに。

 剥き出しの精神ココロが、粉々に打ち砕かれた。


 思い出した。

 これ、屠殺回廊って言うんだった。


 どうして忘れてしまっていたんだろう。


 何度も繰り返し、見て来たはずなのに。

 何度も繰り返し、殺して来たはずなのに。





 永遠に続くかと思われた悪夢は、その実僅か数秒で終わっていた。


 部屋の中には、「わたし」と同居人兼暗殺者であるサトーの姿だけが在った。

 彼は「わたし」の異状に気付いた様子も無く、無心に紙を折っている。


 ──いつもは平気な沈黙が、今はこの上なく痛い。


 居たたまれなくなって、外出することにする。

 そうだ、志朗に逢いに行こう。彼の無事な姿を見れば、こんな不安なんて直ぐに吹き飛んでしまうことだろう。そうすれば、「わたし」は今まで通りの「わたし」に戻ることができる。そうだ、そうすればきっと──。


「無理だ。ササキシロウに逢った所で、君の中の焦燥感は消えはしまい。何故なら君は、既に彼の死を見てしまっているのだから。たとえ今彼が生きていたとしても、いつか必ず彼は死ぬんだ。その不安を常に抱えながら愛し続けられる程、君は強い女性ではない」

「…………」

 いつもいつも思うのだが。

 このサトーという同居人は、「わたし」の希望を摘み取ることに余念が無いらしい。

 しかもその指摘は、反論の余地が無い程に完璧なものなのだ。


「なら、どうしろと言うんですか」

 自分の言葉に、自分で驚く。

 苛立っているというのか、この「わたし」が。

 信じられなかった。感情など、当の昔に捨て去ったものとばかり思っていたのに。

「簡単だ。君の手でササキシロウを殺せば良い。そうすれば彼がいつ死ぬかも知れないという不安に悩まされることは無くなる。そして君は永遠に、彼を愛し続けることができる訳だ……そう、俺が君を殺す、その瞬間までね」

「できる訳、無いでしょう?」

「ならば、ササキシロウに対する愛情を捨ててしまうことだ。そうすれば君が苦しむことは無くなる。彼がいつ死のうと、所詮他人事に過ぎないのだからな」

「…………」

 確かに、根本的な解決を望むのならば、その二つしか無いように思われる。

 佐々木志朗という存在を殺すか、それとも彼への愛を殺すか。

 いずれの選択においても結末は同じだ。志朗は死ぬ。それも、「わたし」の目の前でだ。

 死期も死因も分からない、だけど死という事実に変わりは無いのだ。ならば「わたし」にできることなんて、たかが知れている。


 志朗の携帯に電話を掛ける。数回コールすると、誰かが電話に出た。

 誰かって、いちいち名前を確認するまでもない。

 もう聞き慣れてしまっている、彼の声。


 ──安心した。彼はまだ、生きている。


「もしもし? どうしたんだよかずら。何か急用でもできたのか?」

「ええ。シロウに、言っておきたいことがあるの」

 息を吸い込む。言うべき言葉は分かっている。

 後はただ、それを実際に口に出すだけだ。

 でもそれは確実に、彼を傷付けることになる。


 言ってしまえばもう二度と、「わたし」は彼に逢えなくなる。

 だけど他にし様が無かった。言うしか無い。

 志朗を助けたい。その想いを胸に、「わたし」は彼に告げる。


「シロウ。わたし、もう貴方とは逢いません。だから貴方も、わたしのことなんか忘れて下さい」

「……え?」

 志朗が息を呑む様子が目に浮かんだ。

 無理も無い。彼にしてみれば、あまりにも唐突過ぎる別れの挨拶だ。心の準備なんてする暇も無かっただろう。


 ──否、そんな暇は与えない。

 これ以上彼の声を聞いていたら、折角の決意が鈍ってしまう。


「さようなら、シロウ。貴方に出逢えて、本当に良かった」

「ちょ、ちょっと待てよかずらっ……!?」

 最後に嘘偽りの無い真実の言葉を告げて、「わたし」は携帯の電源を切った。

 それで終わり。二ヵ月以上に及ぶ志朗との交際は、こうして呆気無く終わりを迎えたのだった。


 ──志朗が助かる唯一の可能性。それはきっかけを与えないことだ。

 「わたし」が垣間見た未来では、彼は「わたし」の目前で死んでいた。

 なら、そのきっかけを潰してしまえば良い。「わたし」に逢うことで彼が死ぬと言うのなら、逢わなければ良いだけの話だ。

 永遠に。そう、永遠に「わたし」が彼から逃げ続ければ、それで済むだけのこと。


 正直、無理だと思う。

 一度確定してしまった未来は、絶対に変えられないのだ。

 それは過去の実例で立証済みで、今更確かめるまでも無い事実。

 望みがあるとすれば、死期が特定されなかったという一点に尽きるけれど。

 それは、ほとんど無いような希望に過ぎない。


「どうやら君は、最も価値の低い選択をしてしまったようだな。何と、愚かな」

 呆れたような、サトーにしては珍しく感情のこもった言葉に、

「本当。何て、愚図なのかしら」

 と。苦笑混じりに、「わたし」は返答していた。


 本当は、分かっていた。

 志朗がいつ死ぬのか、どうやって死ぬのかも。

 知っていた上で、あえて気付かない振りをしていた。


 ──それがそもそもの間違いだったのだ。


 運命を騙し通すなんてそんな大それた真似、「わたし」なんかにできるはずが無かったのに。

 一縷の望みに、「わたし」は全てを託してしまった。

 きっと、多分。だから、そう。

 「わたし」はこれから、受けることになるのだろう。


 運命を騙そうとした罪。

 未来を捻じ曲げようとした罪に対する──最愛の人の死という、この上の無い罰則を。


 これは、運命による報復なのだ。


 ──二年間騙し続けて来た「わたし」に対する、虐げられた運命による復讐なのだ。


 だから、もう。

 「わたし」に、逃げ場などは無い。


 佐々木志朗は、とっくの昔に死んでいるはずの人間だったのだから。





 夢を見た。

 志朗と一緒に、あの丘の上に居る夢だった。


「嫌われても良い。俺、もう一度かずらに逢って、話がしたかったんだ」

 夕暮れの丘。彼は寂しそうに微笑んでいた。

 その横顔は、酷く儚げで。夕日と共に、今にも消え去ってしまいそうだった。

「プロポーズ、しても良いかな。俺、本当にかずらのことが好きだった。一目惚れじゃないけど、気が付いたら俺はずっと、お前の姿だけを追い続けて来た」

『日向。俺と付き合ってくれ』

 声が重なった。

 二人の志朗。

 二ヶ月前の志朗と、二年前に死ぬはずだった現在の志朗。


 「わたし」には、返す言葉が無い。

 そうだ、「わたし」には彼らに応える資格が無い。

 志朗を殺したのは──ある意味、「わたし」だったのだから。


「ほんっと、俺って馬鹿だよな。お前の気を惹こうと思って、あんなことを……今まで黙っててごめんなかずら。俺、本当はあの時、桜じゃなくて、お前を見てたんだよ。お前は気が付いてなかったみたいだったけど」

 そう、二年前のあの時。中ではなく外を見ていた「わたし」の目には、中に居る志朗の姿は映っていなかった。

 だから彼は外に出たんだ。

 そして彼は、外から「わたし」に向かって手を振って来た。

 桜の樹の枝にまたがって、一生懸命自分の存在をアピールしようとしていたんだ。


 けれど、その時の「わたし」は彼の気持ちに応えることができなかった。

 結果、失意の内に彼は樹から落下し──頭を強打して、そのまま死ぬ予定だった。

 「わたし」が見た「未来かこ」とは、その時の映像だ。

 同じ映像を、「わたし」は入学式当日にも目撃している。


 そう。つまり「わたし」は、既に見ているはずのモノを意図的に記憶から排除したのだ。

 そうすることで、志朗の命を救おうとした。

 いや、実際に「わたし」は彼を助けている。本来死ぬはずだった彼は存命し、二年間を無事に過ごした。

 そうだ、「わたし」が志朗を助けたんだ。その事実に偽りは無い。


 でも、それは。本当に、彼のためだったのだろうか。

 本当はただ単に、彼を死なせてしまうという自責の念に駆られただけではなかったか。

 馬鹿なのは志朗ではない。本当に馬鹿なのは、自分の殻に閉じ篭って彼を無視してしまった「わたし」の方だ。


 だけど、それももう終わりだ。

 二度に渡って同じ運命を見せられたのだ、もはや「わたし」に言い逃れることはできない。


「シロウ。謝るのはわたしの方です。本当はわたし、貴方のこと知ってました。知った上で、どう応えて良いか分からなくて、気が付かない振りをしてしまっていたんです」

 そうだ。「わたし」が騙して来たのは運命だけではない。

 佐々木志朗もまた、「わたし」の被害者だったのだ。

 そして「わたし」はそれを罪とも思わず、今までのうのうと生きて来た。

 志朗の命を助けたことで、罪が帳消しになるとでも思っていたのだろうか。


 何と浅はかで、何と愚かな──人間的感情の欠落した、真性の愚図。


「許してくれとは言いません。ただ、謝らせて下さい。シロウ、本当にごめんなさい」

 色々考えたが、謝罪の言葉は一つしか思い浮かばなかった。

 ずっと言えなかったその言葉、言おうともしていなかったその言葉。

 無意識に抑制され続けて来た言葉を、「わたし」はここに来てようやく口に出すことができた。

「何だよ、何でかずらが謝るんだよ? 悪いのは俺だろ。全部俺が、一人で勝手に暴走した結果だってのにさ。そのせいでかずらが苦しんで来たって言うんなら、尚更俺が悪いんじゃないか。なのに……何でお前が、泣かなくちゃならないんだよ」

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

「よしよし。全くしょうがないなかずらは。これじゃあ危なっかしくて、とても置いて行けねぇや」

 志朗は責めなかった。

 それどころか「わたし」の肩を抱き、背中を優しく擦ってくれている。

 それは「わたし」には勿体無いくらいの、極上の愛撫だった。

「許すも許さないも無い。俺がお前に惚れちまった時点で、そんなものはどうでも良くなっちまってるんだよ。いいかかずら、俺は他の誰でもない、お前だから好きになったんだ。だから謝るな。俺はそういう人間的に危うい面も全部ひっくるめて、日向蔓という存在を愛しているんだから」

「シロウ。貴方は」

「愛している、かずら。この世の誰よりも、君が好きだ」

「…………」

 駄目だ。ここまで言い切られてしまっては、「わたし」にはもう何も言い返せない。

「シロウ。わたしも、貴方のことが好き、なんだと思います」

 上手く言葉にならない想いを、無理矢理にでも繋げて告げる。

 多分これが最後の機会になるのだろう──「わたし」が過去の罪を認めた時点で、志朗の死は決定的なものになっているだろうから。


 だから、この言葉だけは、嘘であってはいけないのだ。


「最初は軽い気持ちでした。貴方の境遇に同情していたのかも知れません。自分が犯した罪から逃れたかっただけなのかも知れません。貴方に告白された段階では、その程度の気持ちしか抱いていなかったのだと思います。

 でも、今は違います。貴方との日々は、わたしにとって新鮮なことばかりで、毎日が夢のようでした。最初は戸惑ってばかり居ましたけど、今となってはどれもが大切な思い出なんです。

 シロウ。わたしは貴方に、死んで欲しくない。ずっと一緒に、居て欲しいです」

 生まれて初めて、異性に告白した。

 好きだと。一緒に居て欲しいと。今まで言えなかったこと、ずっと言いたかったことを、「わたし」は志朗に告げた。


 夢の中で。

 いや、夢の中だからこそ言えたのだと思う。


「ずっと、か。そうだな。もし俺が生き延びられたなら──」

 言い掛けて。志朗は不意に「わたし」から離れた。

「悪い。俺、その約束できそうにない」

 苦笑した、彼の身体を。

 空間から伸びて来た、無数の白い手が覆い尽くした。


 ──叫ぶ暇など、ありはしない。

 夢はそこで、唐突に終わっていた。


 最後に見たのは、紅い眼球。

 沈む太陽を真似た、歪な朱いオレンジだった。





 志朗が死んだ。


 死因はベランダからの転落死。

 死亡時刻は、午前三時過ぎだった。


 ──「わたし」が夢の中で、彼と最後に逢っていた時刻だ。


 なるほど、確かに未来視の通り。

 志朗は、「わたし」の目の前で死んだことになる。





 屠殺回廊。


 精神ココロが壊れた死の空間で。

 志朗の頭蓋骨を胸に、「わたし」は彼女と対峙している。


 見えているのは死神の姿。

 彼の命を奪い、

「どうして──」

 今、「わたし」を殺しに現れた、

「……殺したんですか」

 純白の魔女。


 彼女は笑っていた。

 声も立てずに、嘲るように。

 それでも彼女は、笑っていた。


 それと同時に。

 ──何でそんな質問をするの、と。

 真紅の双眼が、「わたし」を責めるように見つめていた。


 その瞬間に、理解した。

 ああこの化け物に、「わたし」の言葉は届かないのだ、と。


 それが。

 観察者、日向蔓の限界だった。


 ──ああ。なんて、愚図。


 だけど、せめて。

 そんな愚図でも、愛してくれた人が居たのなら。

 「わたし」はその人に、報いるべきだと思うのだ。


 無造作に、手にした鎌を振るう。

 ごとりと、死神の首が落ちた。


 ──屠殺回廊。


 ただ殺すだけの、本当に意味の無い映像。

 そこに、感情の入る余地は無い。


 まるで根無し蔓のようだと、ふと思った。





 墓に手を合わせるのは、これで何回目になるだろう。


 結局、助からなかった彼。

 結局、助けられなかった「わたし」。


 それでも諦め切れなくて、こうして未練がましく通う「わたし」が居る。

 過ぎ去ってしまったモノに執着し、未だ来ないモノに目を向けることのできない「わたし」が居る。


 ああ、早く死んでしまいたい。

 彼の居ないこの世界は、酷く退屈で生き苦しい。

 ああ、早く殺してくれないかなサトー。

 そうだ、今晩辺り頼んでみよう。

 ああ、でも駄目だ。そしたら夢が見られなくなる。

 そしたら夢の中で、彼に逢えなくなってしまう。

 そんなのは嫌だ。


 逢いたい。

 今すぐにでも志朗に逢いたい。

 逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい……。


 ああ、だけど。

 どこにも、志朗が見つからない。


 ──ドコニモ、ココロガミツカラナイ。


「…………」


 リセットボタンを押した。

 ゲームオーバー。また一人、「日向蔓」が死んだ。


 だけど大丈夫。

 古い「わたし」が死ぬと同時に。

 新しい「わたし」が目覚めるんだ。


 そして「日向蔓」は、また繰り返す。

 RPGの主人公のように、退屈な日常を繰り返していくんだ。


 永遠に、止まることも無く。

 壊れた心で、生き続けていく。



 了

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