(2)屠殺回廊

 夕飯は結局、肉じゃがにした。

 選んだ理由は栄養のバランスが取れていて、作る手間がそれ程掛からない為だ。カレーは昨日完食したばかりなので、再び食べる気にはなれない。

 そういう訳で、肉じゃがを作ってみた。調理本に従い正確に料理した為、味に問題は無い筈だ。料理の途中で何度か例のモノが見えて中断されたが、その分を差し引いてもぎりぎり食べられる範疇には在る筈。だから「わたし」は自信を持って、それを食卓に出した。

 食べるのは、「わたし」と、もう一人。

「サトー。これは、貴方の分です」

 部屋の隅で黙々とカンパンを齧っていた彼の傍に、「わたし」は湯気の立ち昇る皿を置いた。わざわざ彼の分まで用意したのは、単純な興味からであって、決して彼の境遇に同情した訳ではない。

 果たして生粋の暗殺者である彼が、標的の作った料理を口にするのか。そして、仮に食べた時、どのような表情を浮かべるのか。ほんの僅かではあったが、興味があった。

「いただきます」

 先に食べ始める。彼が皿に手を伸ばす様子は無い。やはり食べないのだろうか。しばらく観察を続けることにする。

 それにしても肉じゃがというものは、こんなにも塩辛いものだったのだろうか。レシピ通りに調理したから、作り方自体に問題がある訳では無いと思うけど。とすると、「わたし」の味覚が狂っているのか。それとも、調理中に見えたアレの所為か。

 鍋を囲んで、白い小人達が踊っていた。丸いのと、四角いのと、三角形のと。舞い踊りながら形が崩れていって、最後には良く分からない形状になっていた。

 その後彼らは鍋の中に次々飛び込み、それきり誰も、浮かび上がっては来なかった。思うにアレは、塩の塊だったのだろう。だからこんなにも塩辛くて、海の水を誤って飲んでしまった時みたいにむせてしまうんだ。

 だけど、まあ。我慢すれば食べられない程じゃ、ない、のかも。

「ご馳走様」

 少し、驚いた。「わたし」がむせている間に、サトーが既に肉じゃがを平らげていて、皿を返しに来たからだ。しかも彼は、早くも洗い物まで始めてしまっている。彼の舌は一体どうなっているんだろう。発達した視覚に反比例して他の感覚が退化しつつある「わたし」ですら感じた鮮烈な塩辛さを、サトーは意にも介さなかったと言うのか。

 それとも。味覚自体が、元々存在してはいないのか。

「サトー。……どうでした?」

 洗い物を終え、再び隅に移動したサトーに声を掛けた。殺し屋に味を聞くなんて我ながらどうかしてると思いながらも。一応の、確認事項として尋ねてみた。

「どう、とは?」

「肉じゃがの味です。その、少しお塩を加え過ぎたような気がしたもので」

「美味いか不味いかは、俺には判断がつかない。それ以外のことなら応えられると思うが。少なくともカンパンよりは、腹が膨れた気がする」

 携帯食料と比較されても、「わたし」には良く分からないのだが。とりあえず不満な所は特に無かったと言うことで、及第点は貰えたのだろうと解釈した。

 彼より遅れて十数分後、ようやく「わたし」は塩分地獄から解放された。


 片付けをしている間、サトーの表情に変化が見られたかどうか思い返してみた。少し笑っていたような気もするし、少し怒っていたような気もする。だが基本は、いつものポーカーフェイスだった。結局彼は、終始無表情だったのだ。

 でも、多分それは、「わたし」にも言えることなのだろう。


 楽しい時に笑って。

 悲しい時に泣いて。怒って。

 そう言った感情を表に出すことを億劫に感じ始めたのはいつ頃だろう。昨日今日の話ではないことは確かだ。でも、そんなに昔でもない筈だ。だってアルバムに収められている写真の中の「わたし」は、どれも笑顔だったのだから。まるで、別人みたいだ。記憶を失った訳ではない、その時々の出来事を思い出そうと思えば直ぐに目に浮かぶ。でも、実感としては何も得られないのだ。思い出しても、何故それが楽しいことだと思えるのか、現在の「わたし」には理解できない。スクリーン上に映し出された「わたし」という幻影には、幾ら手を伸ばしても、決して届くことは無いのだ。

 もしかしたら。思い出を幻のように感じ始めた時から、「わたし」は人生に意味を求めなくなったのかも知れない。


「………」


 シャワーを浴びている時に、また変なモノを見た。

 屠殺回廊。

 脊椎動物の雌雄を赤絨毯の敷かれた廊下の両脇に並べて、その首を順番に切り落としながら前に進んで行くことから、そう名付けた映像。何十回となく見せられて来た光景だけに、最早何の感慨も湧かない。「わたし」が何を思おうと、結果は変わらないのだから。悲しそうな瞳で、何処か諦めたように此方を見つめて来る彼らの首筋に、「わたし」は冷徹に鎌を振り落とす。ごとんと首が落ちて、次に殺される動物が悲鳴を上げた。煩わしく感じるその甲高い悲鳴も、直ぐに聞こえなくなる。誰も彼も、運命には逆らえない。

 やがて、最後の雌雄の所までやって来た。人間の雄と雌。何処かで見たようで、一度も見たことの無い顔をした男女だった。彼らは「わたし」の方を見ようとはせず、「わたし」の起こした惨劇からも顔を背けて、ただお互いに見つめ合っていた。

 鎌を振り上げる。どちらを先に殺すかは既に決めてある。雄、雌交互に殺して来たから、その順番のままに男の方を先に仕留めるつもりだった。順番に意味は無い。どうせ両方死ぬのだから、本当に意味は無い。

 女に向かって、男が何かを呟いた。でも「わたし」には聞こえない。ただ、口の動きから何か言っていると分かっただけで。鎌を振り下ろした時には、そんなことはどうでも良くなっていた。男の首が落ちても、女は悲鳴を上げなかった。彼女は目を伏せ、何かに祈るような仕草を見せた。最期の瞬間まで清らかなままで居ようとでも言うつもりか──確かに、みっともなく泣きじゃくる姿を見るよりは、殺す気が削がれたが。

 結局、彼女も死んだ。否、「わたし」が殺した。

 ──屠殺回廊。

 ただ殺すだけの、本当に意味の無い映像。其処に、感情の入る余地は無い。

 まるで根無し蔓のようだと、ふと思った。


 シャワーから流れ出る水が一瞬赤く染まって見えたのは、恐らくただの錯覚だろう。尤もそれを言うなら、今まで「わたし」が見て来た映像全ても、ただの錯覚なのかも知れなかったが。

 何が現実で、何が幻なのか。そんなこと、「わたし」に分かる訳が無い。「わたし」はただ物事を主観的に見ることしか許されていない、ちっぽけな人間の一人に過ぎないのだから。


「………」


 昼間に仮眠を取った所為か、夜はなかなか寝付けなかった。隣の部屋でサトーが息を潜めているのも、理由の一つなのかも知れない。何しろ彼は、「わたし」の命を狙っている。彼が「わたし」を殺そうとするのは、それが依頼だからだ。特に私怨がある訳ではなく、他にも複数の依頼を抱えているから、彼はまだ「わたし」を殺していないのだ。でもそれは順番を後回しにされているだけのことで、間違い無くいつか「わたし」は、サトーに殺される。たとえ未来を見れようと、その運命からは決して逃れられない。屠殺回廊で「わたし」が例外無く全ての生物の命を絶って来たように、「わたし」もまたサトーに駆逐されるのだ。

 当の昔に諦めていた。彼が「わたし」の前に初めて現れた時には、確信さえした。そう、あの時。「わたし」という存在は、一度死んだんだ。ただ、その死が現実を侵食するには至らなかったというだけの話で。

「ヒムカイカズラ。俺は、君を殺す。この手が君に触れた時、君の存在は抹消されるんだ」

 哀れむでもなく蔑むでもなく、彼は淡々とそう語って。黒い手袋に覆われた右手を、「わたし」に向けて翳して来た。その時最初に、ああ死んだ、と思った。諦めが確信に変わって、少しほっとした。「わたし」の予感は間違ってはいなかった。これで「わたし」が死ねば、それが正しかったと立証される。残念ながら、その時には既に「わたし」は死んでいて、それを確かめることはできない訳だけれど。

 人生に未練は無いが、予感が当たるかどうか確認できないのが少し残念だった。

 彼の右手が近付いて来る。最早逃れようとしても間に合わないであろう、絶対の死。それを前にして、「わたし」は立ち尽くしていた。

 ふと。死んだら何処に行くのだろうと、今まで考えもしなかった疑問が頭を過ぎった。だがそれも一瞬のことで、直ぐに「わたし」は眼前の死に立ち戻る。死を意識し過ぎるのは良くない。奇妙なことばかり妄想してしまう。例えば「わたし」が死んだ時残された家族はどう思うのだろうとか、「わたし」の能力はどうなってしまうんだろうとか。そう言えば、死後の出来事を見たことは無かった。死の瞬間さえ垣間見れたと言うのに、その後のことに関しては一切目撃していないのだ。「わたし」の眼をもってしても、見ることのできないモノが存在していた。そのことに気付いて、「わたし」は少し嬉しかった。

 サトーの手が、途中で止まった。視界を覆われている為、彼が何を考えているのかは分からない。いや、元より暗殺者の心境など「わたし」には理解できなかったが。

 明確な殺意を滲ませながらも、彼は結局、「わたし」を殺さなかった。

 ──サトーは「わたし」とは違っていた。彼は、根無し蔓ではなかったのだ。


「今は殺さない。だが、いつか必ず殺す」


 不可解な台詞を残し、彼は去って行った。

 その翌日からだ、サトーが「わたし」の部屋に棲み始めたのは。

 「わたし」は彼を追い出さなかった。彼の存在は別に邪魔では無かったし、彼は「わたし」の周囲の人間に危害を加えようとはしなかったからだ。それに正直な所、近くに居てくれた方が助かる。殺され易くて助かる、というのは変な感覚かも知れないが。

 とにかくその日から、「わたし」とサトーの共同生活が始まったのだった。


「そうだ。明日、髪を切りに行こう」

 寝付けなかったのは、長く伸ばし過ぎた髪の毛の所為だった。だから「わたし」は美容院に行くことを決意して、静かに瞼を閉じた。


 こうして、「わたし」の一日が終わる。


「………」


 髪を切った。

 特に理由は無い──ただ鬱陶しかったと言うだけ。

 失恋したのかと何人かに心配されたけど、そんな事実は無い。そもそも「わたし」には、恋をした記憶が無い。だから、失ったものなど何も無い筈だった。

 髪を切るという行為はごく自然な行為である筈だ。伸ばし過ぎて、鬱陶しく感じたから切った。ただそれだけのことである筈。其処に因果は存在しない。

 ──強いて言うなら。

 「わたし」は、それまで「わたし」のものであった髪(モノ)を、自らの意思で手放したのだ。

 でもそれで「わたし」の中身が変わる訳でもなく、「わたし」は「わたし」として、これまで通りに生きていくだけだ。

 だから、髪を切る行為に意味は無く、結果として何が変わる訳でもない。皆の心配は杞憂に過ぎない。きっと、多分。だから、そう。

 「わたし」は何も、失ってはいない。


 初めから何も無かったのだから、何を畏れることも無い。


「………」


 ──髪を切っても、サトーは何も言わなかった。

 ただ無言で見過ごし、そのまま部屋を出て行った。彼はまた、誰かを殺しに行くのだろう。それが彼の仕事で、「わたし」はそんな彼の後姿を黙って見送った。

 そしてまた、退屈な一日が始まる。


 飽き飽きする位に平凡な、「わたし」の日常が続いていく。

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