三十三章



 甕が運ばれたのは城下のひしおの倉だった。助け出された沙爽は立てる状態ではなく、すぐに運ばれ手当てを受けた。


 醬造りの一家の大人おとなはみんな郷間きょうかんで、牙族で二泉に移り住んだ者のすえ、そのえにしでこうして時々一族の手助けをしているらしかった。沙爽の身許は詳しくは聞いていないようだったが、おおよそは分かったのだろう、家の奥に匿って甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。危険を承知でなぜ助けてくれるのか訊くと皆笑った。自分たちは生まれも育ちも二泉だが、心の故郷は牙族だから、と。沙爽はまた理解の難しい概念を知った。


 そうしてとどまって五日、すでに州城では沙爽の脱走が露見し大騒ぎになっており、城下を中心に手配書が回された。郷間らは予定を早めて沙爽を逃がす算段にしたらしく、まだ病み上がりの彼の髪を染め、わざと粗末な衣服を用意して一見諸国を渡り歩く伝薬師くすりうりの格好をさせた。乗り物は驢馬ろば、少なくない路銀と醸菫水じょうきんすいと偽の棨伝てがたも万全で沙爽は感激した。彼らのために、どうあっても二泉を滅ぼすことはしないと心の中で誓った。



 ともかく国を出るよう言われた。桂州から西の霧界に出るには二つのせきがあり、北の埋州に近い銅興関どうこうかんが常用として使われている。そこから出国し牙領を目指すことになった。しかし周りの目を危ぶんで郷間は伴には連れられず一人旅、目的地までを驢馬の上で揺られながらゆっくりと進んだ。


 道中、沙爽は初めて二泉の水を間近で見た。驚くべきことにこの国では旅人に無償で飲料水の提供を行っていなかった。安くない代価を支払って水売りから購入した、煮沸して麦飯石で濾しても半透明なそれは味こそ四泉のものと変わらないように思えたが、見た目に抵抗があるだけに勢いよく飲める水とはいえない。こんな水を二泉の民は数十年と飲み続けていることに、沙爽は重ねて驚愕した。


 畑地も田圃たんぼすさんでいた。城下は栄えて市が立ち並ぶ活気溢れる街だったが、閭門りょもんを抜けて郊外へ行くと殺風景で、一日めの寝床として郷間たちにすすめられた廟堂びょうどうの柱にさえ戦乱の爪痕の生々しい刀傷がついている。こういったところには浮浪者が溜まりやすく、崩れかけの屋根下に腰を落とした沙爽に何人かが胡乱うろんな目を向けたが、ありがたいことに襤褸ぼろを纏った貧相な姿にすぐ興味を失くしてそっぽを向いた。また、通りかかった老爺に薬を売ってくれとせがまれて焦ったものの、品は全て売ってしまって帰るところなのだと言い繕って事なきを得た。


 沙爽にとっては独りで野宿するのも初めての経験だった。去年の暮れ、牙領をおとなった時は身を竦ませていた季節はすでに芒種ぼうしゅを過ぎた。暦の上では梅雨が始まる頃合いだがまだ雨気はなく、柱の根元では貧相な綉球花あじさいが慈雨を待ちくたびれたのか、花弁をしぼませてその青藍を薄めていた。

 廟堂の軒下の砂地に申し訳程度にある下生えを今夜の居と定め、薄いふとんを掻き合わせて驢馬の腹に頭を預ける。まだ微熱のある身体は生ぬるく火照ほてっていた。慣れない状況で緊張を解けず、結局夜が更けても眠れない。


 暎景と茅巻と三人で駆け抜けた旅とは全く違う。ひどく心許なく寂しかった。あの時は由毒で朦朧として寒気に耐えた旅だったが、二人がいるという安堵で何も危惧することはなく、心は別の不安と期待と高揚に満ちていた。


 寿玄は族主のめいで自分を助けに来たと言ったが、それならばもうとっくに他の者が迎えに来てくれてもいいはずだ。特に暎景なら血相を変えて飛んできそうなものなのに、城下を出てからこれまで味方からなんの接触もない。沙爽は急に不安になった。ひょっとして、なにか良からぬことがあってこちらに来られないのではないか。


 沙爽は銅興関から牙領までの道が分からない。二泉を脱出するのに埋州を通って四泉へ抜けるのは日数もかかりあまりに危険だった。関もすでに封鎖されていたら袋の鼠になる。なので必然一番近くて由歩の商人が多々利用する銅興関を抜けるのが安全だということだったが、通過した後で早期に珥懿たちと合流しなければ霧界の中で毒に冒されながら待っているのは死しかない。


 はたして無事に落ち合えるのか、もしかしなくとも、二泉国内で待っていたほうが良くはないかと悶々と悩んだ。しかしすでに手配書が各地に出回っており、いつ追手がかかるとも分からない。銅興関が完全に封鎖されないうちに通らなければ霧界には出られない。いつ来るとも分からない迎えを待って桂州で潜伏しても飲み食いにただ路銀が減っていくだけ、尽きればなんらかの形で人と接触しなければならない。それなら一か八か、関を越えて霧を渡るしかない。少なくともしばらくは街道があるはずだから、道づたいに進んでみるしかなかった。


 そう決めたものの、迷いは疲れに、そして疲れは歩みに出るもので、桂州城下から馬で二日の銅興関までの道のりを、沙爽はその堅牢な城砦じょうさいを丘の上から目にするまでにゆうに四日を費やしていた。





 銅興関の門前の県郷けんごう深沈しんちんといった。関を通して霧界の北回り、南回りの街道が交わる交易点で、一年を通して各国を行き来する客商かくしょうとその品を買い付けに各地から訪れる仲買人や地元民で賑わう。大路はふつうの郷よりも幅広で、道端には所狭しと市廛みせが立つ。行き交う人々は雑多で服装も様々、荷を運ぶ獣も見たことがないものもいた。賑わうのはなにも商いだけではなくて、道端で芸を披露する旅一座なんてのもいたし、天幕を張った芝居小屋も建っていた。それに物乞いも孤児も多く猥雑わいざつで初めて訪れた者は少なからず熱気に気圧けおされた。

 商人たちのための旅舎やど近くには必然に飯店しょくどうや露店も集まる。なにより桂州において高名なのは鉄工技術であり、隣の埋州で採掘した鉄をはじめ鉱石を仕入れて生活用品や農具、蝶番ちょうつがいから刀剣に至るまで盛んに製造している。ために桂州各地には金物屋や武具屋が多く、深沈でもそれは同様で商人たちが危険な霧界の街道を行き交うのには武器が必須だから、むしろそういう店舗のほうが多いくらいだった。


 丘の中腹にある深沈の県城に沿うようにして磁合じごう城下から繋がってきた街道は坂を延び、銅興関を軸に広がったそれらの密集した集落を見下ろすことができた。東門から入った沙爽も、同じ頃合いで辿り着いた旅人たちと一緒にその栄えた街並みを感嘆とともに眺め渡した。


 銅興関の門は他の関と違い毎日開いているわけではない。大きくは由霧が流れ込むのを防ぐためだが、その他霧界に住む害獣や、なにより西には脅威である牙族の勢力圏があり、防衛のために門を開けるのは三日に一日と定めていた。関の内門の門前には旗が掲げられており、開門までの日付を示す。現在旗は二つ。ということは、沙爽は深沈で丸一日を過ごさなければならないということだった。


 霧界を旅する者は道中十分な水や食糧を確保するのが難しい。かといって荷を増やせばそれだけ馬に負担がかかる。それで彼らが必要に迫られて発展させた軽くて日持ちする携行食や、水を濾過する装置にさらに手を加え改良したもの、より安全に霧界を行くための地図、それら有益な装備品の開発を支援先導し、情報を共有するための組合を持っていた。

 国からの不認可の団体も含めて総じて馬絆食行ばはんしょくこう、あるいは単に食行と呼んだ。商人の護衛・保険を請け負う鏢行ひょうこうとは、厳密には異なる組織ではあるが大概は同一のものとしてみなされた。

 その地を主な交易場としている食行の拠点、きょくは商人たちの社交の場であり、また隣には食行の必需品を売り宿泊も可能な邸店ていてんが付随しているものだった。四泉ろう州でも一度経験していた沙爽は関の開門を待つあいだ、そうしたところを回って必要なものを備えた。どれほど霧界にとどまることになるかは分からない。迎えが来ない場合、街道沿いに回って四泉に抜けたいという気はあるが、牙領が攻撃されたなら瀧州との境に斥候がいる可能性は大いにある。沙爽が脱牢して四泉に戻ろうとするのは敵も予想しているはずだ。

 どのみち、どれほど頑張っても不能渡わたれずの沙爽が霧界におれるのは多く見積もって二十日。出来うるかぎり万全の準備はしておかなければならなかった。特に由霧の中にあって醸菫水を切らせば即ち死を意味するので、これはかなり多めに購入した。店の主人はそんな彼を少しいぶかしげに見たが、何も言わなかった。


 余った金でなんとか泊まることも出来た。湯を使いたかったが、染めてもらった髪をここで元に戻すのはまずいので体を拭くだけで我慢する。道中のんびりとやって来たおかげで熱は下がり、体調もましである。

 階下の飯房ひろまに座ってたいして美味しくもない粥を啜っていると、噂好きな旅人がさも心配そうに仲間と話しているのが聞こえた。


「いま食局しょくきょくで聞いてきたが、明日の関、開くか分からんらしいぞ。なんでも、州牧しゅうぼくからのお達しだと」

「なにかあったのかい」

「磁合の大罪人が脱走して大変なんだと。罪人と銘打ってはいるが、実は四泉の王さまだとさ。ほら、いま王族どうしで揉めてるだろ」

「四泉主が磁合に来てたのかい?なんでまた」

封侯ほうこうが捕まえてうちの泉主と四泉の公主に引き渡すつもりだったみたいだ。だが逃げられたと」

「四泉の王さまなら四泉に逃げるんじゃないのかい」

「埋州の関はもう閉められたのさ。それで助けを求めるなら同盟した牙族のとこに行くだろうってことで、銅興関も閉めるよう太守に要請があったんだとさぁ」

 戦地にも泉畿みやこにも遠い桂州は他人事の感が強い。しかし、関を閉ざすらしいという話には黙っていなかった。

「困るよ、それは。うちは三泉と取引があるのよ。期日までに間に合わせなきゃ賃金が半分だ」

「うちのとこも明日発たないと予定が狂う。なんとかならんのかい」

「そんな急な命令、食行が黙ってないだろう。閉めちまったら、今度いつ開くかわからないのに」

 旅舎に宿泊しているのは商人がほとんどらしく口々に不満を述べた。沙爽はそれを隅で聞いていて血の気が引いた。埋州の関はやはり封鎖された。おそらく二泉主と撫羊が通過したあとで閉めたのだ。……彼女が、桂州に来ている。

 銅興関を閉められては逃げ場がなくなる。話を聞くに食行が太守に直訴するらしい。結果は明日にならなければ分からないようだ。



 不安で眠れずに牀褥ねどこで何度も寝返りをうった。明日もしも関が開かなかったら、どうしたら良いのだろう。もと来た道を戻れば良いのか。磁合も既に検閲を厳しくしているだろう。磁合に限らず、近隣の州全てが。


 目の冴えたまま夜を明かし、沙爽は朝早くに銅興関の前の閑地、ひとまず目立たない位置に座り込み、ほつれた笠を目深に被った。他にもちらほらと開門を待ちわびる人がいる。


 通常、門とは朝開き、日暮れに閉まる。陽が昇って鐘楼は鐘を鳴らしているというのに関はいまだに開かない。沙爽は手に汗を握った。やはり開かないのか。

 開門を待っていた者たちも一様にどうしたことかと顔を見合わせている。そのうち、いつものように検閲の為に人々が並び始めたが、やはりいっこうに開かない。皆が衛兵に向かって騒ぎ立て始め、門前が黒い人だかりで埋まった頃にようやく、根負けしたように門扉が開いた。


 息を詰めて見守っていた沙爽は弾かれたように立ち上がった。急いで驢馬を連れ、列に加わる。しかし、門の両端で二列になって進む人々の足取りはゆったりとしていた。列から顔を出して先を見る。通常の兵の二倍は多く検閲の際に念入りに荷物や顔をあらためているのが見え、震えてきた脚を叱咤した。ばれはしない、髪も黒く、薄汚れて襤褸を着ている今の自分が泉主だと見破られるはずはない。そう心の中で己を勇気づけ深呼吸した。徐々に門が近づく。

 検兵は薄汚れた少年を上から下まで見て、棨伝の裏表をためつすがめつ。荷を開けるように言った。沙爽はゆっくりと驢馬に積んだ一包を開けていく。

 最後の一包を見た時に、検兵は眉をひそめた。


「おい、お前。この醸菫水はどうした」

 沙爽は心臓がひっくり返りそうなのを気取られないよう平静を装った。質問の意図が分からず、首を傾げる。

「どうした、とは」

「これはお前が買ったのか?」

「はい」

 検兵は疑わしげな目をした。

「とてもこんなに大量に買えるようには見えないが。これ一つとってもかなり高いものだ」


 虚を突かれた。醸菫水には等級がある。いちばん良く効いて、持続時間も長いのは無色透明の特等級のものでそれだけ高価だ。霧界の中でどれほど過ごさなければならないかが分からず特等の醸菫水を積めるだけ買っていたが、身姿みなりと所持品にあまりに違いが出てしまった。


「それに随分若いようだが、その歳で伝薬師を?肝心の薬が無いが」

「商品は二泉で全て売ってしまい、霧界を通って故郷に帰るところなのです。醸菫水は、奮発して仲間へお土産に」

「棨伝の允許いんきょ磁合じごうだが?……どういうことだ?」

 検兵の見る目が一変した。沙爽は背に汗が流れるのを感じる。

「笠を脱げ。お前、何者だ。もしや醸菫水の密輸を画策したのではあるまいな」

「誤解です」

 慌てて否定したが、兵は増援を呼ぶ。沙爽より後ろに並んだ人々が何事かとどよめいた。

「この者の荷をくまなく調べろ」

「ちょっと、待ってくれ」

 沙爽は門の前後を見渡した。武装した兵士が駆けてくる。あとほんの少しで二泉から出られるというのに。振りきって驢馬に乗って走るか。いや、驢馬では馬にかなわない。それに、抜けたとしても醸菫水がなければすぐに体が弱っていく。

 どうすればの先が思い浮かばず、沙爽はその場から動けない。衛兵が事情を聴き、こちらに近づいた。



 その時だった。背後の列からいななきが聞こえた。悲鳴をあげた人々の中から突如現れた馬は列の先頭に飛び出し、沙爽を連行しようとした兵を蹴り跳ねた。



 唖然とした人々の一瞬の沈黙を突き、馬上の人影は軽々と沙爽を脇に抱える。まるで盗賊が金袋をかっさらうように持ち上げられ、されるがまま呆然と固まった沙爽は同じくぽかんとした後列の人々と見交わした。すぐに遠のく。馬はそのまま一目散に門洞もんどうを駆ける。


「外門を閉めろ‼」


 衛兵たちが叫んだ。疾走するひづめの振動に身を任せながら、優美な尾がそよぐのを瞬いて見つめ我に返り、前方を振り向いた。外門が轟音を立てて閉じようとしている。息を飲む。



「――――遅い‼」



 黒衣の騎手は一喝して馬の前肢をしならせ跳び蹴った。強馬の勢いにまかせて扉を閉めようとしていた門卒たちを弾き飛ばす。

 奮迅は止まらず、全速力で濃霧の中へと飛び込んだ。矢が追いすがったがすぐに射程距離から外れ、早々に追っ手をまいたところで馬上の主は無造作に裹頭ずきんを取った。



「泉主!よくぞここまで‼」



 聞き馴染んだ声、力強い腕も、彼は待ち侘びていた、沙爽のいちばんの臣。その一声だけで涙腺をゆるませるのには十分だった。



「暎、景……‼」



 まなじりから零れた光の粒が風に散って掻き消える。いつも気難しい顔をしている男が珍しく上機嫌に白い歯を見せて笑った。

「いかにも、暎景でございます!しばらくはこのまま、もう少しご辛抱ください!」

 そのまま銅興関の城砦が見えなくなるまで駆け、狭まった街道の分岐点にはさらに二つの影が待っていた。


「泉主」

「茅巻。世話をかけた」


 膝をついた男に礼を言い、次いで腕を組んで木にもたれていた麗人を振り向く。そちらは変わらぬ口調で沙爽を挨拶がわりにけなした。


「ひどい格好だ。物乞いのほうがましに見える」

「そういう牙公は、姫のようです」


 ふ、と珥懿は笑んだ。久しぶりに見た素顔は相変わらず絶世の美女と見紛う。

「泉主。お助けするのが遅くなり、誠に申し訳ありませんでした」

 茅巻の横で暎景も馬から下りて頭を垂れた。沙爽は首を振った。

「助けてもらわなければ、今頃撫羊たちの手に落ちていた。改めて礼を言う。しかし一体いつから」

「州城から連れ出してすぐにお迎えにあがるつもりでしたが、思ったより敵の斥候が多く、城下から泉主を連れ出すのは危険だとなりまして。私と茅巻は沙琴さまに面が割れておりますし、我らもあちらの麾下きかの顔を見知っております。鉢合わせれば剣を交えること必至、ここは泉主に自ら州城を出て頂くのが良いと」

「郷間の者たちのお陰でなんとか」

 暎景は頷いた。

「泉主をしゅく州方面にお逃がしする策もあったのですが、やはり最短で霧界に出たほうが追手の追撃を免れると思ったのです」

 珥懿がすでに見えない銅興関の方角を見た。

「桂封侯はお前に逃げられたあと、二泉主たちにすぐには鳥を飛ばさず、到着までに内輪でなんとか連れ戻そうとしていた。ために関の封鎖が遅れた」

「危ないところでした」

「貴様がちんたらと亀の歩みをしているからこんなことになった。予定通り二日で深沈に着いていれば前回の開門に間に合った」

 なじった珥懿を暎景が睨む。

「短い距離とはいえ、慣れない旅をなされた。遅れるのは当然だ。だからすぐにお助けするべきだと言ったんだ。目立つと言うなら俺一人でだって泉主のもとに馳せ参じておれたのだ」

「どうみても堅気かたぎじゃないお前と浮浪者同然の小童こわっぱが一緒にいては怪しすぎて深沈にも入れなかっただろうな」

 珥懿はやれやれと言いたげに肩を竦めた。いつもの調子に沙爽は安堵した。長らく感じていなかったものに、心が穏やかに凪に満ちるのが分かった。

「泉主、醸菫水は飲んでおいでで?」

「今朝飲んだが、手持ちはない」

 これを、と茅巻が小瓶を差し出した。「あまり質の良いものではありませんから、効きは薄いかもしれません」

「すまない。ないよりずっといい」

 瓶を受け取った沙爽に、珥懿は道の先へ馬首を巡らせつつ言う。

「追手を完全にまいて安全圏に入る為にも、一刻も早く領地に戻る」

「裏切りに遭ったようだが」

「すでに平定が済んでいる」

「この半月の間に……さすが」

 珥懿は頷く。無表情だったがわずかに眉根を寄せていた。

「途中驟到峰しゅうとうほうに寄って補給しよう。それまでなるたけ急ぐ。耐えろ」

 沙爽は暎景の馬に乗りながら笑んだ。

「今ならなんでも平気な気がします」

「結構だ。夜通し駆けるぞ。気を抜くな」





 最小限の休息を挟みながら駆けることわずか四日で一行は驟到峰の拠点に辿り着いた。迎えたのは三十がらみの一見とっつきにくそうな男、しかしその昔、幼少の頃に果樹園の収穫間近の果実にことごとく穴を開ける悪戯いたずらをして耆宿院きしゅくいんの審問にかけられたという、見目に反してしようもない逸話で有名な男で、仲間はみな親しみを込めて彼のことを窊梨わりと呼んだ。


「驟到峰は現在五名で回しております。東南西北四拠点をひとりずつで、私がここで総括しています」

「敵に勘づかれてはいまいな」

「少しでも不安があったらお招きしておりません」

 窊梨は問うた暎景に憮然と答えた。「観測拠点は定期的に移し、その際まずい証拠は一切残しません。安全と思えばこそ四泉主にご来訪頂いています」

「あんたの主も同じことを言ってこんなことになったんだが?」

「では、私以下驟到峰が強襲したとして、あなたはたった五人に泉主を奪われるような御仁なのですか」

 暎景が意外な返しに眉を上げた。思ったより矜持の高い男のようだ。

「まして当主が不在なわけでもなし。たしかに領地のことは私も予想外ではありましたが、だからといって牙族全てを疑われていては、こちらも受け入れがたいものです。当主の主導のもと我々は四泉と盟約したのに、形ばかりでかなめの信頼がなければ成り立つものも成り立たないでしょう」

「窊梨、せ」

 珥懿がこしかけ煙管きせるをふかしながらどうでもよさそうになだめた。それで男が口をつぐみ、暎景は頭を掻いた。

「……いや、俺も悪かった。どうも仕事柄、人を疑ってかかる癖があるし、どうしても泉主を置いていったばっかりにという後悔が強くてな。だが牙族の助けがなければ救出はかなわなかったのも確かだ」

 言えば珥懿が意地悪げに笑んだ。「随分と殊勝になったじゃないか」

「お前たちに否が無いとは言ってない。自分こそ少しは申し訳ないという態度が嘘でもできないのか」

「したところで、現状は変わらない」

 相変わらずのふてぶてしさだ。暎景は溜息をつき、「泉主の様子を見てくる」と言いおいて小房を後にした。





 罰してください。膝をついて旋毛つむじを見せた麾下ふたりに、沙爽は目を伏せて首を振った。長靠椅ながいすに敷いたしとねの上でふう、と大きく息を吐いた。

「ゆえあっての事とはいえ、玉体を傷つけ、のみならずお許しも頂かずお側を離れました」

「更にあろうことか逆賊に付け入られてしまうとは、我ら沙王家の密偵として自刎じふんを申し渡されてもおかしくはない。どうか」

 主は軽く笑った。

「確かに置いていかれたと知ってとても悲しかった。帆有はんゆうも失ってしまったし、封侯の詰問も辛かった」

 けれど、と床に額を擦りつける二人を横たわったまま見た。

「そなたたちを罰してしまったら、私はまた独りになる。それは困る。それに、私の安全を第一に考えてくれていたのは分かっている。だからもう顔を上げてくれ」

 暎景は自分を責めて歯を食いしばった。もともと痩身の主はさらにやつ蒲柳ほりゅうのように頼りなげで、髪を黒く染めているぶん、肌の青白さがいっそう際立って痛々しかった。いましめの痣がいまだ生々しく、泉主に対するにあるまじき扱いを受けたことは明白だ。暎景は二泉に対する憎悪が身の内に沸き立つのをありありと感じた。

「泉主……」

「暎景、茅巻。私は……撫羊に王位を渡すつもりはないよ」

 二人は顔を見合わせた。沙爽はあらぬほうを見て言を継いだ。

「知っていたか?二泉では、旅人にさえ水を無償で与えてはやれないほど、泉が濁っている」

「常に濾過しているとは聞いています」

「泉主がいるのに、何故なのだろう。二泉は別に二泉主が四泉に侵攻してきてから濁ったわけではない」

 茅巻が困って首を傾げる。

「それは……」

「正当な泉主が玉座にけば、泉は澄明になり大地には豊穣をもたらす。私はそう聞いていたのだが、実際に目にした二泉はほど遠いように思えた。それに安背あんはいが涸れたというのに、桂州ではまるで他人事だった」

「二泉では幹川かんせんから支流をつくって枝川や灌漑用水にあてている郷が多いですから、安背だけが涸れたとしても近くに別の小川があればさしあたって生活には困らないのでしょう。桂州に流れ込んでいる川もひとつだけではないですから」

「それにしたって危機感がなかった。まるで少し前までの四泉と同じだ」

「慣れってのは、怖いもんです」

 暎景は俯く。「泉が濁ったままでも、何とか飲めるなら支障ない。それがずっと続くと、民はそれが普通になる。おかしいなんて思ったってどうしようもないんですから。飲めるだけましだと納得しているうちに、麻痺するんです」

 横たわる主は眉根に皺を寄せた。

「濁った水を飲むのは、つらい。毒が入っているようで。四泉にはああなってほしくない。民にそんな思いをさせたくない。もし私が私の正当な権利を棄てて、撫羊にそれを与えたら、もしかしたら黎泉が怒って泉を濁らすかもしれない」

 茅巻は頷いた。公主が王位を継いだ先例など無い。たとえそれが叶ったのだとしても、泉が真に清冽のままであるのか確証は持てない。

「たくさん考える時間があった。私に四泉主としての天命が巡ってきたのは何故だろうかと。考えるまでもなく、泉主とは国のため、民のために在るものだ。―――でも」

 苦笑した。

「まず思った。その前に、私だって一人の人間だ。四泉主としてだけではなく、沙爽鼎添としても幸せになりたい。……しかしそれ以上に、私は何より四泉の民に幸せになって欲しい。たとえ自分自身はこれから不遇だとしても、私の存在が皆の幸福になるなら……それが王位を継ぐことだというのなら、それが真実であるのなら、やはり私はまだ死ねない」

「……ええ。ええ、もちろんです。でも、泉主を不幸な目に遭わせるなんてことは、俺がさせません」

 暎景は何度も頷く。痛めつけられて固く閉じていたのだろう、てのひらに爪痕の残る骨ばった白い手をすくうとしっかりと握り返してきた。

「私がすべからく王になるまで、手伝って欲しい。こんな願いは、甘えだろうか」

 二人は首を振った。暎景の瞳は少し潤んでいた。

「登極するまでとは言わず、爽さまが大御代おおみよを終えられるまで、ずっとおそばにおります」

「泉主」

 茅巻も沙爽の傍らに寄った。おおらかな目がさらに細まる。

「正直心配でした。何かにつけて兄君たちや沙琴さまと比べられ、自信を失くしていた貴方を見て私は一度は王の器ではないと自分の中で判じたこともありました」

 しかし、と見上げてくる頭を撫でた。

「ご立派になられました。それで良いのです。おっしゃったように、泉主の存在こそが民の、国の安寧なのです。ご自身の息災と民の平安、ただそれだけを考えれば、自ずと道は見えるものです」

 だといいが、と少年王は笑む。そのままとろとろと微睡まどろんで瞼を閉じた。眠ってしまった主の手をそっと離して、茅巻、と暎景が呼ぶ。

「俺はもう泉主から離れない。過去の自分を恥じる。どうなろうとも、たとえ主命に背いてでもお守りする。お前は長らくりく妃さまにお仕えしていたが、今一度泉主に忠誠を誓ったらどうだ」

 そうだな、と茅巻は頷いたが、すぐに言葉を発することはなかった。ただ愛おしむように沙爽を見たのみで、そんな彼に暎景は内心嘆息する。

「まあ、お前にも譲れぬ想いはあるだろうから無理強いはしないが」

「そういうのじゃないさ。ただ、この方がどこまでやれるのか見届けてから結論を下しても遅くはないだろう」

「泉主を試すような心根は感心しない」

「そうではない。ただ、淕妃さまのお心を思うと複雑でな。このままでは、いずれにしたって御子のどちらかは夭折はやじにする運命さだめにある。淕妃さまは泉主が即位しても、手放しには喜べんだろう」

「それは…そうだが」

「お二人がもし俺の子だったらと思うとやりきれん。だから俺としても、今はまだ心情としては淕妃さまに寄り添いたいのだ。済まないな」

 聞いたほうはいいさ、と顔を伏せ、主のくまの浮いた顔を心配そうに見つめた。



「涙なくしては語れない主従愛だな」



 めた調子で背後から声が掛かり二人は振り向く。族主は歩み寄ると沙爽の寝顔を眺めた。

「明日発つのは無理そうだ」

「また泉主の眠っている間に置いて行くつもりか。俺は今度ばかりは傍を離れんぞ」

 睨んだ暎景に珥懿は目をすがめた。

「どのみち沙爽には出陣させないからな。すでに悠浪ゆうろう平原で衝突が起きた」

「なに」

「両軍とも頭がいないうえに四泉では梅雨入りだ。長雨のせいで決着をつけきれず睨み合いで膠着している。二泉主と撫羊が取って返すまでに私も四泉に戻りたいところだ。だから早めに領地の後始末をつけに戻らねばならない」

「これ以上泉主にご無理はさせられない」

「だから、お前がついていれば良かろう。体力が戻り次第来い」

 茅巻が珥懿に向きなおった。

「俺も残る」

「構わないが、前線の情報を知るのに時差が大きく出るぞ」

「兵が牙族だけでもすでに四泉の信頼は勝ち得ているだろう。穫司かくしには瀧州兵も混じっている。俺は、今は泉主から目を離すわけにはいかない」

 珥懿は腕を組んだ。「良いだろう。沙爽にはこちらからも人をつける。くれぐれもこいつに勝手をさせるなよ。予定が狂うのでな」

「牙族が傍若無人の振る舞いをしたことは多々あれど、今まで泉主が勝手をしたことがあったか」

 何を言っている、と相手は鼻を鳴らした。

「これの独断の最たるが、同盟の締結だろうが。お前たちが思っているほどこいつはひなではないぞ。か弱げな外面に騙されるが、腹の内ではおそらくとんでもないことを考えたりしている。油断ならない」

 二人はまじまじと主を見つめる。

「だからこそ、いま死なれては困るのだ。牙族われらを巻き込んだ責任も取ってもらわねばならないしな」

 言い捨てて珥懿は出て行った。暎景が後ろ姿を見送りながら呟く。

「乗ってその気にさせたのはあいつだぞ」

 茅巻は微笑んで彼をいさめるのみだ。二人してそうして、久方ぶりに主の寝顔を見つめていた。



 翌日早朝、珥懿は単独で発った。沙爽の衰弱はなかなか快方に向かわず、数日寝込んでいるうちに遣わされた付き人が驟到峰に到着した。唯真ゆいしんと名乗り、常に眉尻を下げた申し訳なさそうな顔の腰の低い優男やさおとこだった。襲撃の際の怪我か、頭に布を巻いていた。なんでも、沙爽の逗留していた地下牢のすぐ地上を守備しており、歓慧に言われて薔薇閣しょうびかくうまやから帆有を連れ出したのも彼だったらしい。



「歓慧どのは無事か?」

 首飾りを握って問うた沙爽に唯真はただ曖昧に笑ったが、袖を掴まれる。

「はぐらかさないでくれ。無事なのか?」

 血相を変えた泉主に少しばかり驚き、気まずげに顔を逸らした。

「私が領地を出た時には、まだ姿を見ませんでした」

 沙爽は瞠目どうもくした。

「出た時…って、乱が終わってしばらく経つのでは?」

「はい。今頃、紅珥くじは完全に平定を終えています」

「どういうことだ?なぜいない?もしや、牙領からうまく逃げているのか?」

 それはありません、と男は困ったように下を向いた。

「死体はあったのか」

 暎景が問うて、沙爽は息を飲んだ。それにも唯真は首を振る。

「では……」

「いずれにせよ紅珥が全てなんとかするでしょう。四泉主はお体をおいといください」

 それ以上は答えず去って行く。やるせなく見送りながら沙爽は胸の羽根を包み込み、額にあてた。


 絶対に、もう一度会いたいと心から願う。




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