三十一章



 室内は鉄色と木目を基調として広々と清潔で、貴人の宿泊先としては申し分ない。壁際に設けられた牀榻しんだいも、入ったまま一日を過ごせるほど大きい。白絹のしとね、隙間には錦糸のぬいとりをし金銀輝石をあしらい綿を詰めた大小の撑枕まくらが置かれて、殺風景な房室へやにそこだけが賑やかだ。


 朝も遅くなった刻限、入ってきた小さな影は豪華なその前まで来ると、腕に抱えていた花束を降ろす。しばらく横たわる少年をまじまじと見つめると、一枝を手に取り、寝息を立てる彼の小鼻に押しつけた。

 こそばゆい感触を受けて眉間に皺が寄り、白い睫毛を震わせてうっすらと瞼が開く。覗き込む人影は不思議な色の瞳をじっと見つめた。


 ぼんやりと視線を彷徨さまよわせた沙爽は自らの顔に当たるものを手を上げて確かめようとする。重だるい腕はその手首に嵌められた杻械ちゅうかいのため、動きに合わせて硬い音を立て一気に覚醒を誘った。

 起き上がった膝に落ちたのは白と薄紅の花をつけた海棠かいどうの枝、手に取ればほんのりとかぐわしい香りを漂わせる。動作に合わせて銀の鎖が嫌でも目に入り沙爽は不快げに眉をしかめたが、傍らで瓶に残りの花枝を突っ込んでいる下女には柔らかな微笑みを向けた。

「またってきてくれたのか?」

 拾った枝を差し出しながら問うと、下女は無言で頷く。受け取り花瓶の口の隙間に無造作に差し込んだ。

「季節のものを見るのは嬉しいけれど、実がる前に手折たおってしまうのは勿体ない」

 下女は素知らぬ顔で首を傾げる。

「海棠は実ができるんだよ。知らなかった?」

 言っていることが分からないのか、つんと横を向いてしまう。沙爽はやれやれと肩を竦め、足台に置いた自らの裸足すあしを見つめた。両足首にも同じ銀の輪、ついでに言うと首にも。内側は革と綿が巻かれていて擦れないように配慮されている上に、抜けない程度には少し余裕があるのだが、これが寝苦しくてたまらない。深い溜息をついた。



 連れて行かれる道中、捕まった当初よりも敵は予想外に沙爽を丁寧に扱い、こまめに醸菫水を与えてくれた。歓慧に牙族特製のものを飲まされていたから、不調を来たすことはなかったのだがそれでも有難かった。沙爽としては油断と同情を誘おうと少しでも具合の悪いふりをしていた。霧界を出てここに連れて来られてからも弱々しく振る舞い、なるべく遅く起きるようにしてどうにか逃げられないかと窺っているのだが、如何せん自由を奪うこの鎖をつけられているせいで思うように身体からだを動かせず、仮病のつもりが本当に少し体調が良くない。当然いろいろな負荷が重なっているせいもあったが、沙爽自身としては情けないかぎりで気持ちばかりが焦る。



 しかも囚われてから顔を合わせるのはいま目の前にいる幼い下女と、もう一人年嵩の女官だけで外の状況を訊いても分からないと言うばかり、少女に至っては口も利いてくれない。

 一体どうなっているのかと頭を抱えていると、女官が朝餉あさげを抱えて入ってきた。房室には柵が巡らされて出ることは叶わず、沙爽にとってはこの状況にひどい既視感しかない。牙族のひとやと違ってまだ陽が入って人気ひとけがあるのは救いだが、敵の手の内だと考えるとこちらのほうが最悪だ。そしてひたすらかせが重い。

 鎖が絡まないよう室内の家具は少なく、女官はただひとつある小卓に膳を置くと恭しく膝をついた。

「すまないが、首のものが重くて頭が痛い。どうにかこれだけでも取ってもらえないだろうか」

 うた沙爽に、女は顔を上げて困ったように背を曲げた。

「申し訳ございません。私にはどうすることも」

 言って、沙爽の髪を結うというよりも手遊んでいた少女を見咎めたのか険しい顔をした。

少君わかぎみしつけのなっていない者で申し訳ございません。なにぶん泉賤どれいの娘でして、目に余るときはご遠慮なくお打ち下さいませ」

 少君と呼ぶ女官が自分のことをどう聞いているのかは分からない。この髪色だから普通ではないとは思ってはいるのだろうが、身許に気がついていないのか。


 この数日、女官と言葉を交わしてなんとなく自分がいるのはどこかの城だということは分かった。辿り着いた距離を考えておそらく二泉の埋州か桂州、ここまで広くて立派な房室を牢にすることが出来て、それを周りから容認される環境というのはやはり封侯のいる桂州だ。そう考えれば必然的に州城、おそらく州兵の守りは堅い。

 女官はこちらが情報を得るような余計なことは話さないが、それでも小郡の下仕えにしては礼儀が行き届いているとか、身綺麗だとかそういう言葉だけではない情報を掻き集め、なんとか自分の居所と状況を把握していた。

 気晴らしにと年端もいかない泉賤の下女をあてがわれ、最初はいろいろと聞き出そうとしたがこれは徒労に終わった。そもそもよくしゃべるような者が来るはずもなく、逆にこちらが余計なことをしないように監視しているのだろうし、もし沙爽にくびり殺されても惜しくないこの少女が選ばれたのだろう(そんなことをすると思われているなら憤激ものだが)。ともかく今の状況は決して良いとは言えず、どうにかして打破する糸口を探し続けるしかないのだった。


「それは要らない心配だ。むしろ有難いよ。今日も花を持ってきてくれたんだ」

 沙爽が微笑むと、女は複雑そうに曖昧に頷く。二泉では貴人が泉賤に対して気安くすることはあまりないらしい。


 朝餉を終えて退室する女官を見送り、沙爽は少女に向き直る。


「さあ、今日は何をする?喬喬きょうきょう


 少女は名を問うてもなにも答えないので勝手に呼ぶことにした。しかし嫌ではないのか、呼んでも平然としている。

 近頃の喬喬は沙爽にいろんな要求をしてくる。鎖の届く範囲で、あろうことか牀榻の柱を登らされたり、小卓の上で飛び跳ねさせたり。沙爽のそのさまを見てやっと表情を崩して笑みを見せるのだ。


「これは、もしや閉じ込められている私を気遣って体がなまらないようにということか?」


 鎖を垂らして前後に揺らし、その上を飛び跳ねながら沙爽は苦笑する。房室の中でこんなことをしたのは初めてで案外楽しい。

 何往復かして、さすがに息が切れて褥に座り込んだ沙爽を少女は可笑おかしげに窺う。無邪気な笑顔の頭を撫でてやった。その動作にふと妹を思い出して、現実に引き戻される。


 そんな彼を不思議そうに見ていた喬喬は檻の外から近づく足音に顔を向けた。ぱっと離れると床に膝をついて俯く。

 隔扇とびらが開き、立派な身姿みなりをした男がゆっくりと入ってくる。初めて見る顔に沙爽は警戒した。

 髭を蓄えた恰幅の良い老齢の男は、喬喬をみとめると退さがるように言い、立ち上がって柵に近づいた沙爽に拝礼してみせた。


「お加減はいかがでしょうか。沙爽様」

「大事ない。……そなたは?」

「長らくご挨拶もせず大変申し訳ございません。せつめは二泉桂州は封侯王、済昌さいしょうと申します」


 思った通り、桂封侯だ。沙爽は軽く済昌を睨んだ。


「二泉には、なにゆえあっての狼藉だろうか。私を四泉国主と知っての拉致監禁のようだが」

 済昌は額を床につけた。

「お詫びのしようもございません。もちろん、先代四泉主、和海わかい帝の第四公子沙爽泰添たいてん湖王殿下であることは承知の上でお連れ申し上げました」

 沙爽は眉をひそめた。

「……なるほど、今の言でよく分かった。桂封侯はあちら側ということだな。それで、私を撫羊に引き渡すつもりか」

「お怒りはごもっともなれど、左様にございます」

「そなたは二泉の人間だ。二泉主が四泉王家の血統を多少受け継ぐといえ、あまりに強引にすぎるやりかた。封侯もそれを許しているのか」

 顔を上げた男は沙爽を気の毒そうに見やったが、それでも首を縦に振った。

「はじめから沙琴様を宮城にお迎えになれば、四泉が荒れることもございませんでした」

「何故そこまで撫羊に肩入れするのだ。そなたとて、直系の公子が王位をけることは知っているだろう。撫羊が神勅をいただいたというのが虚言だということも。私が生きているのに落血らくけつの儀など行えば死にかねない」

 済昌はさらに頷いたが、嘆息した。

おそれながらお訊ね致しますが、沙爽様にも、いまだ神勅はくだっていないようでございますが」

「それは――」

「もちろん、次代王位は男子を尊び継承されるもの。しかし、該当者がいないのなら、果たして天はどうするでしょうか。どこの馬の骨ともしれない輩に泉を任せるくらいなら、同じ泉根である公主に委ねるのではないでしょうか」

 沙爽はさらに済昌を睨んだ。

「今回がそれだと?」

「そうは申しておりません。しかし、沙爽様が昇黎しょうれいなされてすでに一年近くと聞き及んでおります。それほどまで長きにわたりあなたさまに降勅がないのは、なにかゆえあってのことではないのでしょうか」

 黙り込む。それは自分でも自らが本当に四泉主なのかを悩ませる頭痛の種であり最大の懸念だったからだ。この状況は沙爽にとっても行き場のない不安を長らく掻き立てていた。

「そなたは…どうなることが一番良いと?」

「……どうぞ、お座りくださいませ。沙爽様、まずはじめに私は、二泉主を嫌っております。なんとかして斉穹朋嵒せいきゅうほうがんの治世を終わらせたいと考えているのです」

 沙爽は瞬いた。斉穹に加勢しておいて、どういうことなのか。

「あれが玉座におさまって以来、内乱に内乱を重ね、二泉の水は濁るばかりで民はずっと不便を強いられて来ました。ことに桂州は西端、霧界にも近く、近年は作物も十分な量を収穫できないありさま。あれが生きているかぎりくなることはない。私ははじめ、斉穹に四泉侵攻を聞かされてから、これを逆手に取って斉穹を廃することが出来るのではと考えてまいりました」

「それが、私を殺して撫羊を四泉主に立てることと、どう関係があるのだ」

 済昌は思い詰めたように沙爽を見た。

「両国の泉を融合することは泉柱せんちゅうにおいて大罪。しかし、これは私の勝手な推測ではございますが、たとえ泉が二つに分断されているとしても、統一は可能なのではと思っております」

「待ってくれ。なぜわざわざ四泉と二泉をくっつける必要がある。二泉主がそれほど悪政を布いているなら、禅譲ぜんじょうさせて廃位すれば良いのでは?」

「あの斉穹がしおらしく位を手放すことなどしますでしょうか。容易に出来るなら、とっくにそうしております。それに斉穹は王太子がお生まれになってから今まで殿下を泉宮の奥深くから決して出そうとせず、半ば幽閉してきました。生誕の報はあれど、王叔の私とて碇也様のお姿は拝顔したことがないのです。湶后せんごう陛下の文から近況は伝えられるものの斉穹は碇也様を決して手の届かないところに置かず、自らが躾けた虎賁郎こほんろうに守らせている。それが今回のことで、やっと隙が生まれたのでございます。もし此度の親征が成功し、斉穹と沙琴様の二国共同統治が始まるのなら、斉穹がそれに気を取られている間に碇也様を黎泉にお連れすることができる。私にとって二国の統一は単に斉穹を廃すために付随してきたものでしかありません」

「王太子に必ず神勅が降ると?しかも現二泉主が生きているあいだに?」

「黎泉が斉穹の悪行をお許しでないのなら、可能性は大いにあります。もし時期を見誤って降らないとしても、霆撃いかずちでお隠れになることはありません。碇也様は二泉の唯一の泉根せんこんで継嗣でございますから。それに」

 済昌は急に黙り込んだ。逡巡するように瞳を泳がせてから、押し殺した声で呟いた。


斉穹あれは、おかしいのです」

「――――なに?」

「あれはただの泉主ではございません」

「どういうことだ?」


 済昌は口に袖を当てはばかり、まるで忌避するかのように首を振ると向きなおった。

「ともかくも、私には斉穹を止める力はありませんが、この戦いが終わり二国が和平を結ぶならそれはそれで喜ばしいことなのです。そのあかつきにあれの目をあざむき、碇也様を新たに二泉主としてお迎えすれば、なおのこと安泰です。そうなれば改めて王統の融和も可能です。沙琴様と碇也様のご婚姻という形によって」

 沙爽は目を見開いた。

「……ばかな」

「完全に融和させようとするならば目に見えて確実なのは王統同士で血縁関係を結ぶことです」

 済昌は言を連ねる。「斉穹が王であり続けるうちは二泉の民の辛苦は救えません。もちろん私とて、四泉は四泉、我らは我らで国を治め泉を保つのがいちばん軋轢あつれきを生まずに最善であるという考えは黎泉てんと同じにございます。なれど、斉穹が沙琴様を立てて四泉を我がものにせんと進軍している現状、それは不可能です。沙爽様、私はあなたさまが禅譲し、もしうまく沙琴様に神勅が降ったのならばなにも命まで失わせる必要はないと二人には注進致しました。ようは継嗣としての天命が沙琴様に移れば良いのですから」

「それは不可能だ。本来公主に継承権はない」

「必ずしもそうではありません。たしかに継承順位を無視して公主に降勅させることは実例も確証もございませんが、理論上は可能です。禅譲もしかり。有史上、泉主として務めを果たせる能力がいちじるしく欠如していると黎泉に看做みなされた場合に多いようでございます。癲狂てんきょうで他者と意思疎通が困難であったり身体に不調があって泉主となっても治世が続きそうにないような太子には過去、神勅が降った例は少なく、降っても早期に禅譲しております。継承者であるがゆえに落血の儀が失敗して命を落とすようなことはなかったようですが、その場合にはいずれも王弟または王孫などが践祚せんそしています。私が調べたのは二泉の王統だけでございますが、これは泉国全てに当てはまることであると愚推致します。ならば、少なくとも直系の泉根である公主に降勅しないことがあるでしょうか」

「……私が体の自由を失ってまで生き長らえたいと思っていると?」

 それはしかばねと変わらない。沙爽は額にこぶしを当てた。継承権を撫羊に簡単に移譲させることが出来るなら、はじめからこんな争いは起きていない。いや、たとえ撫羊に神勅が降ったとしても、斉穹が四泉を手に入れるのを諦めたかといえばそうではないかもしれなかったが、ともかく自分を殺すのが一番確実で早い解決方法であると、済昌はそれを裏付けただけだった。


 済昌も疲弊したように眉間を揉んだが、つよい目の色は衰えず、憎々しげに甥の名を呼んだ。


「あれは、斉穹は、即位する前まではそれは美しく爽やかな好青年で通っておりました。臣下はみな武勇にも容儀にも秀でた斉穹を主君として迎えることを誇りました。即位後もしばらくは、少なくとも桂州の離宮で娘と逢う時にはそれは変わっていないように思いました。なればこそ私は交際を止めはしなかった。姓を変えたのは娘の為です。それなのに、年々誅罰ちゅうばつは度を越した。あれが己の弟妹たちを処刑し始めた時に気づけば良かったのです。もうすでにあれは以前の斉穹ではないと……沙爽様、湶后陛下は私のただ一人の娘なのです。私は遠い桂州からではあるものの斉穹に悪辣なまつりごとはやめるよう、幾度も進言しました。しかしあれの気を害してその八つ当たりで湶后に及びはしまいかと、それが恐ろしくて強く出れなかった。その結果がこれです。もしも二国統治において沙琴様と斉穹が私と同じ考えならば、あの二人は婚儀を行い、国の安定をより強固なものにしようとするでしょう。そうなれば湶后陛下も碇也様も必要なくなってしまいます。それは決してあってはなりません」

「そなたも二泉主に反対ならば、あの二人ではなく私に味方してくれれば良かったのに」

 男は痛ましげに首を振った。

「辺境のいち封侯にそれほどの力はございません。それに桂州にも泉畿せんきの間者が入り込んでおります。下手な素振りをすれば斉穹は私をなんの躊躇ためらいもなく殺すでしょう」


 沙爽は打ち沈んだ。結局のところ済昌は二泉大事であり、他国の泉主をないがしろにしてでも自国を優先する考えを揺らがせない男なのだ。

 当たり前だ、と思った。王と泉は紙一重、王を守ることは泉を保つこと、人々の生活に直結した最も重要な関心事だ。その国に住むかぎりはたとえ隣の国が滅ぼうとも自分の命に関わる泉のほうを守りたいに決まっている。


「……それで、私は撫羊が来るまでここからは出られないのか」

「遺憾ながら。そして沙爽様、私にはもうひとつ任された務めがございます。……玉璽ぎょくじ何処いずこにおありですか」

 沙爽ははたと自身を見下ろした。衣は新しく取り替えられて牢の中に持ち込んだのは己の身だけ、たしか帆有はんゆうに荷を括りつけていて、捕らえられた時にそれらも一緒に持ってきていたはずだ。脱出の用意をしたのも、あの日着替えさせてくれたのも歓慧だったから、てっきり彼女が荷の中に入れてくれていると思っていた。

「玉璽と押捺おうなつした同盟文を回収し、降勅していまいか見張れというのが、命ぜられたもうひとつの任なのです。どちらに隠しておいでですか」

「…荷の中に」

「隅々まで探しましたが、ありませんでした」

 では、と沙爽は押し黙った。玉璽は牙族の城の、あの地下牢だ。しかし馬鹿正直にそれを白状してあちらに危険をもたらせば。

「……あるはずだ。玉璽は肌身離さず持っていたはずだから」

 しらを切った沙爽に済昌は先ほどまでの穏やかな顔を剣呑とさせた。


 血璽けつじを見せなければ他者へ降勅が示せない。玉璽でした血でしか変色しないからだ。本来なら玉璽は、それを管理する官が割り当てられているほど貴重な宝具だ。泉主とて軽々しく持ち歩くなどと滅多なことでしてはならなかった。


 済昌は見透かすように目を細めた。

「もしや、牙領に置いてこられたのですか」

「そんなはずはない」

 内心焦る。「いつも懐に入れていたから、襲われた時に落ちたのかもしれない。ひどく乱暴にされたから」

「……もう一度経路を探させますが、偽りであるならそれ相応に追及させて頂きます。二泉の責めは加減が下手ですのでお覚悟ください」

 生唾を飲み込んだ沙爽を厳しく見る。しかし沙爽も精一杯済昌を睨み返した。

「……私も、一つ訊く。二泉と通じている牙族は誰だ」

 男は意外そうに眉を上げた。

「それほど西戎せいじゅうのことが気がかりですか。私が正直に言うとでも?」

「牙族のことがどうでもいいなら、喋っても構わないはずだ」

 済昌はしばらく思案するように黙っていたが、やがてあざけるように口角を上げた。

「沙爽様、あなたは失敗なされた。四泉の兵力を補うため、牙族の力を借りたのは賢明でしたが、夷狄いてきに過度にへりくだってよもや同盟まで組むとはやりすぎでございました。その点、斉穹はやはり力の使い方がうまいのです。内部で分裂している牙族の片側をたらしこみ、自らが多く手を下さずとも内側から瓦解するよう仕向けた。兵力については見誤って痛い目を見たようでしたが、本来の目的を達成するには些細な犠牲であったようです」

「本来の目的?」

「斉穹の最大の目的は領土の拡大でございます。あやつは四泉はもとより、長年目の上のこぶであった牙族を潰すことをずっと目論んでいました。内乱において叛乱軍が雇った牙族の傭兵にはあれも手を焼いておりましたから。加えて牙領は湧き水の豊富な霧の裂け目、水の汚れた二泉にとっては喉から手が出るほど欲しい新天地です。ために牙族の一部を懐柔して今回のことを引き起こしたのです」

「……いったい、誰が」

「私も知っていることと知らないことがございます。それに、さほど興味もありませんから、誰がどう関わっているのかも詳しくありません。あと数日もすれば斉穹が来ます。真相は本人に訊けばよろしいでしょう」

 返答のない沙爽に、済昌は息を吐いた。

「ともかく、玉璽の在処ありかは必ず教えて頂かなくてはなりません沙爽様。神勅が降っていないのであれば、禅譲において玉璽は必要ございませんが、沙琴様が黎泉で落血の儀を終えて戻られるまでには必ず用意しておかなければならない」

「……その時には、私はもういない」

「それは分かりません」

「今の私が私でないような状態で生かされても意味などない。どのみち撫羊が、自分が落血の儀で死ぬような可能性を残しておくはずがない」

 済昌はほんの少しだけまなじりを柔らげた。

「沙琴様は斉穹とは違い、まだ人の心がおありになる。私はあれほど聡明で堅実で、他人にお優しい王族に会ったことがありませんでした。でなければ今この場に沙爽様はおりません。沙琴様は兄上であるあなたさまを即時に殺すことも出来るのです。それをしないのはやはり確実に神勅が移るのかを危ぶんでのことですが、あの方はそのことよりも実の兄を、しかも少なくとも仮王かおうを殺すという大罪は本来決してあってはならぬもの、という罪咎つみとがの意識を正しくお持ちです。最終的に沙琴様があなたをどうするのかは私には分かりませんが、少なくともお会いになってすぐに事を急ぎはしませんでしょう。それは私からも重ねてお願いたてまつる所存です」

「……皆が撫羊を称賛するのには私も同じ気持ちだ。あれには聖君としての気質があるから」

 呟けば相手は目を伏せた。

「本当に、沙琴様が継嗣であったならと惜しく思うばかりです。黎泉の条理が曲がらないかと願うほどに」




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