五章



 街を臨む高台、果樹園を出て段を連ねる棚田を通り過ぎようとした歓慧は座り込む人影に気がついた。霜で固く覆われたわだちへと、籠を背負ったまま近づく。

蘭檗らんびゃく

 猫背にそう呼びかけるも、返答はない。籠を降ろしてひょっこりと顔を覗き込んだ。

「蘭檗さん」

「……びっくりした。暁さまか」

 柄の短い煙管きせるを口から離し、煙と寒さで白い息がたなびいた。目にかかる前髪を払いもせずに、ぼうっと棚田から眼下に広がる街を見ている。

「寒くないですか」

 男は気のない返事をした。もとから白い肌は寒さのせいもあって余計に生気がない。

 隣に腰を下ろす。田は農閑期で凍った土があるばかりで味気ない。

「すぐに二泉に発つんですか」

「…ん。もうちょっとしたら」

 そうですか、と歓慧も大きく白い息を吐いた。男はぽつりと呟く。

煙草これもまたしばらくおあずけだなぁ……」

 蘭檗がっているのは牙族だけが知る調合法で作られた煙草だ。花のような匂いがしたあとで渋く苦くなる独特の味がした。


 二泉で間諜として生き残る者は少ない。既に蘭家の直系は今のところ危うい。長子も次子も、二泉の宮城でそれなりの地位と情報網を築いていたが、どちらもすでに粛清された。蘭檗は家督の蘭逸の甥にあたる。

 昔から何を考えているのか分からない男だ。常には茫洋としていて存在感が薄く二泉で働いている姿が歓慧にはいまいち想像出来ない。そんな彼だから、ばれずに続いているのだろうが。


 抱えた両膝にうずもれ、気の抜けたようになおもぼんやりしている蘭檗に、歓慧は聞いてみた。

「……合議はどうでした」

 ふ、と口端を上げた。

「いくら暁さまでも、それは言えないんですよ……ひょっとして、カモを探してましたね」

 そういうつもりじゃ、と慌てて手を振る。

「ただ、四泉のこと、どうなったかなって」

 さあてね、と蘭檗は立ち上がって伸びをした。

「気になりますか。泉主とたいそう仲がよろしくなったとか」

「うーん、そうしようと思ってそうなったんじゃないんですけど……」

 そうですか、とさして興味もなさそうに返して、背負い籠を覗き込んだ。中には胡桃くるみ大の紅い果実がぎっしり入っている。

なつめかぁ。ひとつもらっても?」

「どうぞ。今年は実がるのが遅かったの」

 手を突っ込んで、蘭檗はおや、というふうに引き出した。茶黒く腐った実。皮が今にも破れそうにぶよぶよとしている。

「あら、他のやつに紛れてたんですね」

 少しだけ眉をひそめているのには歓慧は気がつかなかった。蘭檗はすぐにそれを谷へ放り投げた。手をはたきながら振り返る。

「暁さま、城まで送っていきます」

「いいの?じゃあ、お言葉に甘えて風避けにしますね」

 蘭檗は頷く。毒のにおいが漂っている。由霧は無臭だが、風に混じって感じるこれをにおうという他に何と言ったらいいのだろう。そんなことを考えながら灰色の空を見上げた。







 白砂を散りばめ、溜池を囲った広い庭園には、虫や小魚を狙って野鳥がしばしば降り立った。庭掃除を任された小童こどもが塵を集めていると、羽音を響かせてまた一羽の鳥が池の沢渡さわたりに舞い降りた。


「白い鳥!」


 思わず叫んで、池の淵に近寄る。と、こら、と自分を叱る声があって思わず首を竦めた。

 縮こまって窺い見ると、水榭みずどのの上に立つ人物が苦笑している。

「あまり乗り出すと落ちてしまうよ」

主公だんなさま、見てください、あそこ」

 小童が指さすほうを見やって、主人はほう、と目を細めた。「灌鳥かんちょうだね」

「あんな鳥は初めて見ました」


 一見鳩のようだが頭も胴も白く、羽根の先だけが蒼灰色で、同じ色の小さな嘴の先がほんのり桃色を帯びている。目は血の色を映した赤、じっとこちはを見ていた。


「どこから来たんでしょう」

「北からかな。よく霧界にいる鳥だよ」

「ぼくは見たことがなかったです」

 しばらく二人で見やって、主人が小童に向き直る。

「じきに昼餉ひるげだ。手伝ってやりなさい」

 はい、と素直に答えて、小さなしもべが屋敷の中へ駆けてゆく。それを見えなくなるまで見送ると、主人はおもむろに水榭の端、池にいちばん近いところへと移動した。何気ないふうに腕を差し出す。


 すると、今まで身動きしなかった灌鳥がふいに飛び、瞬きする間に差し出した腕に止まった。意外にもずしりと重い。

 嘴の先を二回叩くと、ぱかりと開く。下嘴に固定された石を抜き取り、褒美に餌を与えた。白い鳥はひとしきり餌を啄むと、鳴き声も立てず真っ直ぐ北西へと飛び去った。


 抜き取った石を懐に仕舞い踵を返す。書房しょさいに戻って椅子に腰を降ろした。親指と人差し指で挟んだそれを両指に持ち替え、じる。真中で割れた。中に薄く透ける紙片が小さく折りたたまれて入っている。

 窓から入る陽の光のみで文面を読んだ主人はひとつ息をつくと、火鉢の中に入れる。紙は小さくわだかまってすぐに消炭と化した。


 筆を取って書簡をしたためていれば、ぱたぱたと軽快な音がしてさっきの小童が外から呼び掛けた。

「主公さま、昼餉が出来ましたよ」

 今行く、とこたえて書房を出る。

阿透あとう、あとでお遣いに行ってくれるかな。届けなければならないものがあるんだ」

 阿透は、はい、と元気よく頷く。

「どちらまで?」

 素直な彼に目を細めて柔和に微笑んだ。

都水台とすいだいのお屋敷まで頼めるかな」







 扇状に広がった巨大な泉は周囲を柵と家々に取り囲まれている。扇で言うかなめに当たるところには高い楼閣が聳え、しがみつくように水の境界線に沿ってなだらかに高低差をつくり、それは突然壁に遮断されている。

 壁は泉に面して菱形を描き二重に楼閣を囲う。分厚い壁は上に城堞ひめがきを巡らせ、菱線が交わる角に見張りの為の高い塔が築かれていた。


 泉に正対して、中の楼閣を挟み左右対称に並ぶ望楼やぐら、そのひとつで、後ろ手に眼下を眺めていた男は呼ばれて振り返った。


「泉主がお呼びだと?」


 はい、と遣いの兵卒は礼をとる。男の顔はよく陽に灼けた肌、もみあげから繋がる髭は切り揃えられている。

「すぐに参る」

 そう返し、もう一度憂いを帯びた眼で泉を見つめた。遠目には、広大な泉は濃紺に光って見える。


 しかし、男がまだ新参の一兵卒でしかなかった頃、泉は今のように底が濁って見えないことも、まして濾して煮沸しなければ飲めないなどということもなかった。


 ――――なぜこのような。


 何度目かの溜息を漏らし、階下へ降りてゆく。


 郭壁の中の巨大な楼閣は幾重にも階層を重ね荘厳な雰囲気をたたえる。朱塗りの大柱を何柱も通り過ぎ、階を渡って、ようやく主人の元へと辿り着いた。


 磨かれた黒檀のかんぬきに金の蝶番、閂鎹かすがいも共に繊細な彫物が施してある。この大きな門扉の広間はもともとは朝議の間だった。しかし、いまは王の遊興の場と化していた。

 扉の衛兵もまた礼をとり、閂を外す。重厚な音を立てながら開いた扉の向こう、室内には空の酒器が転がる。離れた窓際には虎賁郎このえの近侍が幾人か控えていたが、壇上――玉座には何者の姿もなく、壇下に敷いた絨毯しきものに妓女二人を左右に従えた男の姿があった。


 ひとしきり笑っていた主は臣下の姿をみとめると酒盃を上げた。

「来たか、騰伯」

 臣下――騰伯は膝をつく。「お召しにより参上致しました」

 主は頷く。しなだれかかった女たちを押しのけると億劫そうに玉座に登った。絹で箔を引いた流雲のぬいとりの豪奢な袗衣きものを着ていたが、それは気崩されている。乱れた衿元えりもと、懐に入れた腕が伸びて顎を掻く。

「聞いたぞ。撫羊が倒れたとか」

「由霧に耐えられなかったのだと思われます」

 で、あるか、と手酌で酒を注いだ。


 歳の頃は四十半ば、体格の良い美男。これが騰伯の主である二泉の王、斉穹朋嵒せいきゅうほうがん。黙っていれば女が見逃さないだろう面立ちも、今は意地悪く歪んでいる。


「せっかく特等級の醸菫水じょうきんすいを与えてやったというに、国境越えの十日もたんのか。不能渡わたれずは弱いな、騰伯」

「民のほとんどは不能渡でございます。本来ならば、命を賭して霧界むかいを越える必要など一生のうちにはないのです」

 斉穹は肩を竦めた。

「お前の精鋭と軍も貸し与えたというのに、落としたのはどうでもいい郷だけ。しかも内から開城させたという」

「沙琴さまなら、民の情に訴えられるであろうと、私は思っておりましたが」

 主はわらう。「口達者なだけであろう。騙しているに過ぎぬ。まあ面白いからいいがな」

 泉主、と騰伯は玉座を見上げた。「今一度お聞かせ願えませぬか。本当に四泉を侵犯なさるのですか」

「侵犯とは言わぬだろう。我とて四泉の王統ぞ。これは紛争ではなくただの内乱だ。分断されてはいるがな。王統ならば、我が二つの土地を統べてもなんの問題もあるまい。現に黎泉は泉を涸らしてはおらぬ。それが証拠だろう」

「しかし、泉主はそれを確認するために先に沙琴さまを送り出された」

 斉穹は愉快そうにする。「あれが自ら攻めると言ったのだ。先に越えてみろとは一言も言っていない」

「由霧で平気なはずがないことはわかりきっていたでしょう。崖都と瀑洛を攻略した時点で四泉に攻められていれば、確実に討たれておりました」

「四泉は攻めきれぬさ。あれは貴重な血だからな。なんとしても殺したくないはずだ。跡取りが兄ひとりしかいないとなっては、撫羊が泉主にける可能性は大いにありうる。そう言ってみただけだ。そうしたら」

 酒盃を傾けた。「みるみるうちに乗り気になって。お前も聞いていただろう、騰伯。あれが出征する前になんと言ったのか」


 撫羊は実兄が自分より才でも能でも劣ることが分かっていた。しかし殺すのは嫌がった。兄のほうが正統な後継である以上、それはしたくない、と。黎泉の罰もおそれていた。長子、しかも男の後継がいるのにそれを差し置いて自分が玉座に登るのは怒りを買う。ならばできるだけ穏便でなおかつ安全な方法を探りたい、と。


 斉穹は思い出して笑う。

「いかにも戦を知らん奴の甘い考えだ。叛逆した以上は殺すか殺されるかしかないというのに。だが乗り気なふりをしておくのは良いな。なんの因果か、我は由歩の能があるし、越境は容易い」

 由歩の能力は遺伝だけに限定されない。

「さて、これで黎泉の天譴てんけんが無いことは確認が取れた。騰伯、本軍を動かす手筈を整えよ」

 他泉の軍でも、当国の王統である者が先頭に立っていれば黎泉は動かない。ならば、斉穹が出たとしても二泉は涸れない。そういうことだった。


 騰伯は複雑な表情を浮かべつつも、腰を折った。

「では泉畿みやこには守備を残し、残りの国軍を四泉へ?」

「もうひとつ、別でつついてみたいところがある」

「それは?」

 斉穹は窓の外を見る。次いで、腕を組み下僕しもべを見下ろした。

「騰伯。我の好きなものを三つ上げてみよ」

「泉主のお好みのもの?さて……」

「我が十五から仕えておるお前なら分かるはずだ」

 騰伯は気まずげに目を落とした。

「怒らぬよ。正直に言うてみよ」

「……では、おそれながら。泉主は大変な酒豪にあらせられます。各地の珍しい酒を取り寄せておられまする」

「ふむ。正解だ。我は酒があれば珍味など要らぬ。他は?」

「……大変申し上げ難いことではございますが、泉主は権を競うことがお好きです」

「包み隠すなよ。ああ、我は戦が好きだ。残るひとつは?」

 騰伯は眉根を寄せる。「あえて言いますならば…女、でございますか?」

「ふん、確かに美姫は好きだぞ。だが男なら誰だってそうであろう。……残るひとつがわからぬか?」

 首を振ってみせると、斉穹は得意気に玉座に凭れた。


「我は大きい住居すまいが好きだ」


 はあ、と目を瞬かせた騰伯になおも語る。

「大きな宮、大きな泉、広い領地。あればあるだけ良い。なぜならそれだけ国は豊かになり、我は贅沢できるからだ」

 そして、と声を低めた。

「それが手に入れられるならば力でぎ取る。それこそ最大にして最高に心が躍る関心事だ」

 騰伯の蟀谷こめかみから冷や汗が伝う。

「泉主…斉穹さま。一体なにを」

「四泉を我が物にし、ついでに隣の牙族を潰す。知っているか、あの土地には地下水脈があるのだぞ。黎泉に縛られぬ肥沃な土地が」

 騰伯は床についた自身の手が、恐れのためか怒りのためか震えているのに気がついた。

「お待ちください。泉地以外の他部族の領地を攻めること、黎泉がどう捉えるか」

「……そうか、お前には隠していたのだったな。何年前だったか、お前の麾下ぶかを殺したのは牙族の間諜てさきだったからだ」


 騰伯は瞠目した。よく覚えている。配下で軍を纏める有能な将帥しょうすいだったが、ある日突然連行され、謀叛の罪で処刑された。


「それは……まことでございますか」

「出処は確かだぞ。もう一人大農だいのうにおったのだがな。二人とも虎賁こほんに斬らせた」

 騰伯は慌てて広間を固める近侍を見回す。虎賁郎たちは中空を見据えて微動だにしない。

「そんな……大理さいばんもなく、でございますか」

「何を悠長なことを。窺見うかみをいつまでも生かしておけば牙族にどんな益をもたらすか分からんではないか。最後まで認めなんだが、泣いて命乞いするでもなくあっさり斬って終わったわ。面白みの欠片もない」

「そのような横暴が露見でもしたら」

「我の虎賁は外へは洩らさぬ」


 泉主の手足であり盾でもある虎賁は宮中において王の身辺警護を担う。宮外では羽林うりんがそれにあたり、どちらも年功序列、貧富の差なく能力と外見で選出された。また、虎賁の近侍ともなれば心身共に絶対の忠誠を誓う、王の最側近である。


「まったく、忌々しいことだ、牙族というのは。人の庭にいつの間にか勝手に入り込んで聞き耳を立てるとはな。いっとう好かぬ。何年前だったか、あれらの内乱に手を貸したが、その時もなんの懲罰も無かった」

「間接的に関わるのと実際に出征するのとでは、黎泉の対応も違うのでは」

「いや同じだな」

 斉穹は言い切った。「黎泉は泉地以外の者たちのことは意に介さぬ。気にかけておるのなら二泉の泉は涸れ、牙族領にも何らかの変事があったはずだ。だがそういったものは見受けられなかった。それで分かったのだ、泉地以外なら何をしても黎泉は我関せずなのだとな。そもそも関心があるなら泉のひとつも与えているだろう」

 それに、と心底楽しそうに頬杖をついた。

「いま牙族には四泉主がいるそうだぞ」

「泉主が国を離れていると?」

「撫羊の兄は愚昧ぐまいだな。牙族に恥知らずにも助けを求めるとは。だが好機だぞこれは。牙族と四泉、両方を滅ぼすまたとない機会だ」

 爛々らんらんと目を輝かせ意気込む主に騰伯は途方に暮れる。斉穹は一度言い出したら諫言かんげんなど聴きもしない。

「ここ数年誅罰ちゅうばつや内乱で人手が減ったからな。泉賤どれいの補充に丁度良いだろう?女と子供は国府から売って、男は蚕室さんしつに下すか。牙族の由歩は多く皆短命だという。不能渡は由霧で勝手に死ぬだろうが、そもそも比率がこちらとは逆ゆえ、大多数は生きたまま連れて来られるぞ」


 斉穹は登極からこれまでに自身を脅かすあらゆる勢力、親族までも手に掛けてきた。異常なまでの利己心と征服欲はとどまることを知らない。


「泉主、なぜそのように血気にはやられます。せつめには分かりませぬ。主泉の水が濁っております。直に飲めない泉などもはや黎泉の天譴と同じにござりましょう。小邑しょうゆうの泉などは汚穢が主泉よりも進み、飲み水にありつけるまでに民は常に渇いておりますのですぞ」

「同じなどではない。飲めるのであろうが。罰では有り得ぬ。……騰伯よ、お前は力を貸してくれるだろう?愚かな男ではないことは我が一番良く分かっている」

 斉穹は囁いた。「お前は誰よりも二泉を愛している。我が死ぬようなことがあれば、それは二泉の死も同じことだ。我が死ぬ時は碇也ていやにもともをしてもらうのだからな」

「何をおっしゃいます……‼泉主ともあろうお方が、国と嫡子わがこを盾に脅すなど」

「飢え渇いて干涸らびるよりは死んだほうがましであろう」

 斉穹は冷たく、興味無さげに言い放った。

「お前の一軍と州軍をして牙族領を攻めさせよ。征伐がかなったのち族民はなるたけ捕らえて二泉に連行する。族主は殺すなよ、唾でも吐きかけてやらねば気が済まぬからな。――それと幾らか策がある」

 意味深に口角を上げた。

「お前に由歩兵をくれてやる。使い潰しても構わん。どのみち出来んからな」

 鼻歌を歌いながら酒をあおる王を、騰伯はやるせなく見上げ続けた。





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