三章



 歓慧がこの朝一番に採れた蔬菜やさいを籠に抱えて門の中に入ると、厩で藁を替えていた男が正房おもやに戻る所に出くわした。

「お早うございます」

 笑顔で挨拶しても、四泉の従者――暎景は素っ気ない。それどころか歓慧が世話をするようになってもう三日、まだ猜疑の目で見る。それに肩を竦め、厨房くりやで朝餉の支度を始めた。


 暎景は暎景で、この少女にどう接して良いのか分からずにいた。信頼など出来ない。それにひどく奇妙だった。牙族の他の者は必ず面を付けて顔を隠しているのに、なぜこの少女はこれほどまでに素顔を晒し、姿を隠すこともなく他国の者の世話に従事しているのか。

 監視していても特別不審な点は見受けられない。食事に遅効性の毒でも入れられているのかと疑っていたが、格別に味がおかしいこともない。

 茅巻は気にしすぎだなどと能天気にこの少女に気安く接しているが、はたしてそんなに無防備でいていいものか。ここは敵地、しかも借り受けた敷地すまいの外には出られず(門の外には必ず見張りが立っている)半ば軟禁されているのだ。


 初日に牙族主と顔合わせを行ってから三日、沙爽はあれから寝込んだままだ。商談の間で気を失った主を抱えてここ薔薇閣に戻ると、牙族の世話人と同じく仮面を付けた薬師いしゃが待ち受け、処置を施してすぐ退散していった。残ったのはこの少女だけ、しかし少女は先に主に名乗るのが礼儀だとして世話ばなし以外のことを一切喋らない。だからいまだ名も知らない。だのに、あちらは暎景と茅巻の名はもちろん、沙家お抱えの密偵であることも了解していた。暎景は牙族によってその身を丸裸にされ、隅々まで観察されているような、そんな気がしている。気味悪いほどの情報の共有と網羅だ。



 土間で料理をこしらえていた歓慧は戸口に仲間が立つのをみとめて外へ出る。

「どうしたの?」

 兎のような、鼠のような面を被ったのは乳姉妹の砂熙さきで、顔は見えずとも身振りで狼狽しているのが分かった。

「どうしよう。あの茅巻て人が伝鳩とりを飛ばしてたの。とても小さな。私、城堞うえから見てたのに気づかなくて。きっと鳥籠じゃなくてふところに入れてたの。当主はご存知だったかしら」

 押し殺した声でまくし立てたのに歓慧は穏やかに答える。

「きっと他の人が報告したと思う。礼鶴とうさまだって案内したのだから。それに飛ばされても特に困りはしないよ」

 そう、そうよね、と砂熙は頷きながら不安げに手を揉んだ。腰に提げた匂い消しの毬香炉まりこうろが揺れる。「でもいちおう報告しておく。卵は後で持ってくる」

「お願い」

 砂熙が疾風はやての勢いで姿を消すと、歓慧は中に戻る。と、板間から腕を組み、暎景が見据えていた。

「伝鳩を飛ばされても困らない、とはな。見くびられたものだ」

「ほんとうのことです……お耳がさといんですね」

 目を伏せながら調理に戻る少女を暎景はさらに険しく見る。

「いちおう四泉沙家の間者の端くれだからな。お前だって相当なものだろう。仲間が現れる前に立ち上がっていた」

「私は一介の城仕えです」

 にこりと笑む歓慧にそれ以上は言わず、鼻を鳴らすと暎景は居室いまに戻る。茅巻の向かいに腰を下ろすと、忌々しく顎をさすった。

「いけ好かん」

「あの娘御か?感じ良いじゃないか。何がそんなに気に入らんのだ」

 剣を手入れしながらのんびりと訊いてくる様子にさらに苛立ってめつけた。「お前がのほほんとしているから、俺が余計に警戒しておるのだろうが」

 警戒と言ってもなぁ、と言われたほうは眉を下げる。人の良さげな面立ちがわざわいしてさらに情けなく見える。

「取引が終わるまでここから出られないのだから、そうキリキリしても始まらんだろう。殺すならとっくに蜂の巣にされているだろうしな」

 だが、と暎景はなおもとがめて爪を噛んだ。

「泉主は目覚めないままだぞ。もしあの娘が毒を盛っていたりしたら」

「それはいくらなんでも勘繰かんぐりすぎだ。牙族は我ら泉国のことには介入しない」

「……それはそうだが、二泉と暗殺の取引でもしていたら」

「そういうのはしないのじゃなかったか」



 牙族にも掟はある。例えば要人を抹殺したりなど、泉国の情勢を大きく変えるような直接的に手を下さねばならない依頼は受けない。傭兵を派遣したり、生命に関わる情報を流したりと間接的にはいくらでもあれど、あくまで牙族は歴史の表には立たない、立てない一族だ。そもそも国として黎泉に認められてさえいない。それは互いにとって大きなことだ。そういう集団を泉国に住まう者は往々にして下に見がちだった。

 暎景もそういう認識を少なからず持っていた。しかし、族主と相対あいたいして、牙族は決してその地位に甘んじているわけではないことが分かった。むしろ彼らのほうがこちらをさげすんでいるような気さえする。族主のあの横柄な態度は嫌なら帰れと暗に言わしめていたのだ。泉国だからといって敬わない。これで四泉がきびすを返しても、牙族はなんら困ることがない。助けが必要ならば相応の代価を寄越せ、と。あくまでもあちらは対等の立場を求めている。


 考えてようやく少し力を抜いた。茅巻が笑う。

「お前は泉主のことになるとすぐ熱くなる」

「仕方なかろうが。泉主はあの通り気弱なお方だから、警戒してないとすぐに付け込まれる」

「人望があるということだ」

「良いように捉えすぎだ」

 暎景は沙家に代々仕えるが、茅巻はもともとはりく家、淕妃の間諜だった。立場の上でも気持ちの上でも沙爽に対する想い入れが違う。今でも茅巻は沙爽にというよりも彼の母に忠を尽くしているきらいがある。


 暎景が更に悶々と考え込んでいると歓慧が入ってきた。盆に朝餉あさげを載せている。

「お待たせを」

 おお、来たか、と茅巻は嬉しそうに歓慧から土瓶を取り上げた。

「毎食かたじけない。手伝いたいがかえって邪魔だろうと思ってな」

「お気になさらず。ごゆっくりして下さいね」

「しかしこうもずっと我らの世話では、身がつまい。誰ぞと交代してはどうか」

 大丈夫です、と少女は微笑んで配膳する。並べられた膳を見て暎景はまたか、と内心げんなりした。


 牙族の食事は朝晩で、昼は軽食で済ます。麦焦がしを練った団子に蔬菜ときのこの汁、あえものが中心で肉は牛肉でごく少量。その代わりか乾酪かんらくなどの乳から採ったものは多い。時には獣肉が食されるが、基本的に城内の者は間諜としての任があるから、においの強いものをいとってあまり食べない。当主はじめ商談に隣席する重臣の伴當はんとうなどは輪をかけて食事には気をつけるものだった。


 一方、四泉では田舎でないかぎり米が中心だ。肉も鶏、豚、牛に限らず猪や鹿、魚に蛙、大抵なんでも食べる。四泉は平野が多く、畑も田も実り豊かで季節に応じた食材が豊富なのだ。

 そういう差なのか、牙族にはあまり図体の大きな者を見ない気がした。暎景の見かけたかぎりではみなすらりとして身のこなしが軽く、俊敏だ。


「しかしさすがに白い飯が恋しくなるな」

 茅巻が素直に言うと、歓慧は困ったように首を傾げた。

「申し訳ありません。お望みでしたら上の者に掛け合ってみましょうか」

「良いのか?」

「四泉主さまも、慣れたお食事のほうがお身体からだにはいいかと思いますし」

 そう言い、ふと動きを止める。少し小首を傾げ耳を澄まし、二人に向き直った。

「……お起きになりそうな気がします」

「何だと?」

「泉主さまがお目覚めになるような、そんな気がします」

 暎景は慌てて居室を飛び出す。茅巻と歓慧も後に続いた。



 沙爽は自分を呼ぶ声に重い瞼をほんのわずか開いた。視界はぼんやりとして物の輪郭がよく見えない。何度か開閉させ、ようやく眼前の男に焦点が合った。

「……え…い、けい」

 口の中は粘ついてうまく声が出せなかった。それでも暎景は頷いた。

「そうです。水を飲まれますか」

 気だるく頷く。水差しを口にあてがわれて喉を潤し、それでようやく意識がはっきりとしてきた。

「私は……」

「いまはとにかく安静に。おい、薬師を頼む」

 暎景が誰かに言うのが聞こえて、沙爽は腕に力を入れて起き上がろうとした。茅巻が背に分厚い靠枕せもたれをあてがってくれ、なんとか上半身を預けてあたりを見回した。


 簡素で狭いところだが、よく調ととのえられていて暖かい。しかし見覚えがなかった。衣もいつの間にか清潔なものに取り替えられている。記憶をたぐろうとして口を開く。

「……私はたしか……」

 暎景が頷く。

「牙族領ですよ。泉主は辿り着かれました。族主にも目通り叶いました」

 ああ、とだんだんと思い出した時に、薬師が現れた。

 面を付けた姿に沙爽はぎょっと身を硬くしたが、改めてここは国ではないのだ、と自分を落ち着かせて深呼吸した。

 薬師は言葉少なに沙爽の脈を診て、峠を越えたことを告げた。薬包くすりをいくつか置くと会釈し去っていき、城の者はあとには少女だけが残った。


「……そなたは?」

 見慣れぬ姿に不思議に問いかける。少女は喜色を浮かべると礼をとって膝を床につけた。

「お初にお目もじつかまつります。四泉御一行のお世話をおおせつかりました。牙暁がぎょうと申します。お目覚めになられて本当にようございました」


 前髪を揚げて旋毛つむじで結った顔は表情がよく見える。卵の形をした小さな顔は寒風で白んでいるが頬は健康そうな桃色だ。物腰とは逆に気の強そうなくっきりとした眉に、大きな黒い瞳が光に透けてわずかに琥珀色に輝いた。

 ぼんやりとしばらく、決して美人ではないが可愛らしい顔を眺めていると、彼女のそれが困ったように傾いだ。

「大事ございませんか?」

「あ…、ああ。すまない。私は沙爽鼎添という」

「存じております」

 沙爽はそうだよな、と頬を赤らめて額を押さえる。まだ寝起きで混乱しているのかもしれない。

「ともかくも何かお口に入れるものを持って参ります。従者のお二人は朝餉をお召しになってください」

 少女が一旦退ったところで、暎景が沙爽を覗き込んだ。

「まだ痛みや吐き気がありますか」

「大丈夫だ。迷惑をかけてしまったようだな。申し訳ない」

「何をおっしゃる。もとより命懸けの旅だったのですから。今は大事をとって下さい」

 うん、と微笑むと暎景も茅巻も安心したように顔を見合わせた。

「こう騒々しくては心も休まらんでしょう。暎景、我らは先に朝餉を頂いておこう」

 茅巻が言って、暎景も後ろ髪を引かれるように退室する。しばらくして盆を抱えた歓慧が居室を通り過ぎるとき、

「泉主に何かしたら許さん」

 とぼそりと低く脅したが、そちらは意に介したふうもなくただ微笑んだ。


「お待たせ致しました」

 少女が良い香りのする器と、土瓶いっぱいの白湯を運んできた。

豆漿とうしょうでございます」

 豆から絞った汁を煮て少しとろみをつけ、味付けて吸い物にしたものだ。熱さで徐々に豆汁がふわふわと固まってくる。

かたじけない。頂きます」

 白湯で腹をいなしつつ、陶器のさじで汁をすする。熱い出汁だしが口腔にひろがって沙爽はほっと一息ついた。

「美味い」

 火鉢に炭を足していた少女はにこりと笑む。その笑みに誘われて沙爽は話し掛けた。

「……暁どの、と言ったか。そなたも牙族の者だな?なにゆえ面を付けていないのだ?」

「顔が見えない者に奉仕されるのは不安に思う方もいるので」

「だが、素顔をさらして大丈夫なのか?」

「わたくしは特別に許されておりますのです」

 またしてもふわりと微笑む。歳の頃は同じくらいに見えた。

「おいくつだ?」

「十五です」

「……そうか。妹と同じだ。まあ、私もあまり変わらないけれど」

 左様ですね、と彼女はどこまでも笑顔だった。それに妹が懐かしく思い出されて、もっと喋らせてみたくて匙を置く。

「暁というのは、姓?」

「姓です。でも泉国で言う氏のようなものです」

「名を聞いても良いだろうか」

 これには少し考えるように傾げたが、声を抑えて返した。

「歓慧と申します」

「良い名だ。……名で呼んでも良いか?それとも、こちらでは失礼になるのだろうか」

 歓慧は少し驚き目を見開く。

「私のことも鼎添と呼んでくれて構わない」

「本当は泰添たいてんさまと」

「今でこそ鼎添と言うとなにか含んだような意味になっているが、もともとこれは最初に母上が呼びだした名なんだ」


 淕妃は王家を担って立つ三人の上妃を尊敬していた。だから勢力争いには自発的に参加しようとせず、沙爽が上の公子たちを支える有能な良い臣になるようそう呼んだ。そうすることで息子の王位継承を望んでいないことを示し、沙爽を要らぬ争いに巻き込まないようにしたかったのだろう。


「だから私は鼎添という名を気に入っているのだけれど、純粋に慕ってそう呼んでくれるのは母と妹だけだった……」

 気鬱げに黙り込んだのを歓慧はしばらく考えるように見て、やがて膝をついた。

「お許し頂けるのであれば、御名でお呼びさせていただきます。わたくしのことも歓慧と」

 見上げた沙爽は嬉しそうに笑んだ。「良いのか?」

「しばらくご滞在されるようですし、なにか不便があってはいけません。どうぞお好きなようにお呼びくださいまし。鼎添さま」

 さらりと何のこだわりもなく自分の名を呼んだ歓慧に、沙爽はじんと感じ入った。もしかしたら、撫羊いもうとと重ねてしまっているのかもしれない。


 藹々あいあいと会話を弾ませている臥房ねまの外で、暎景は腕を組み壁に凭れていた。舌打ちしそうなのをこらえる。隣で茅巻が愉快そうに笑う。

「なかなか醜い顔をしておるぞ」

「自らを卑下するようなことを……。しかも御名を婢女はしために呼ばせるとは何を考えているんだ」

「泉主は淕妃さまと同じく継承など望んでいなかったからな」

「だがもう泉主は爽さまだ。下賎の者に軽んじられては困る」

 茅巻は肩を竦めた。沙爽も母親と似て身分に拘泥せず寛容なところがあるのは暎景も知っているだろうに。

 居室に戻りながら心にわだかまる不満を持て余し、暎景は口の中で独りごちた。

(あの牙暁とかいう下女、本当に何者なんだ?)







 四泉主は目覚めたがしばらく安静が必要とのことで、四泉との取引は一旦休止となっている。

 三日に一度会談のない日を設け、各国の間諜たちの奏上に目を通し、重臣たちによる合議が開かれる。

 大広房おおひろまに集まった臣下はわずかに二十人余。この者たちが牙族の中枢の最高幹部たちだ。合議の合間、部外者は何人なんぴとも入れない。警備も普段の倍、外はぴりぴりとした緊張感に満ちている。

 重臣たちには珥懿も顔を隠す必要は無いが、彩影の三人は出席しても姿は見せず、発言も許されない。主の座す壇上、その屏風へいふうの裏に音もなく控えている。



「六泉へはご苦労だった」

 珥懿の労いから合議は始まった。六泉に派兵された代表が決まり文句の感謝を述べる。議題はあれこれと移り変わり、問題は二泉と四泉のことに流れ落ちた。

「傭兵を貸し出しても八百とか。いささか少なすぎるのではございませんか」

 言ったのは監老の夭享だ。

「まだ決めていない。もしもの話だ。四千の兵のうち七泉しちせんに駆り出されているのが千、六泉から戻ったばかりが千、族領の守りに九百、残りの千百から八百も貸し出てやろうという話だ。充分だろう」

「派兵するならせめてあと二百は要るのでは。二泉と結託した撫羊軍はいまや二都市を落として総勢三万を超えているのです。四泉国軍は数の上では余裕で勝りますが、戦に不慣れな軍です。これでは派兵の八百が生かせますまい。二軍に割いても動けるようにしておかなくてはなりませぬ」

「まだ四泉は防備に徹していると聞く。早合点はよしたほうがよろしい」

 髭を扱きながら野太い声でそう言ったのは壮年の体格の良い男だ。

斬毅ざんきどの」

「四泉主は戦うつもりがないとのことだが、それは交渉によって乱を平定することがかなう可能性がある、ということでもあるのだろう?公主の為人ひととなりは分からぬが、二泉は由歩の精鋭を貸し与えたのみで、本体である二泉軍はいまだ泉畿みやこに置いたままだ。撫羊軍は国境を越えて崖都がいと瀑洛ばくらくの兵を引き入れたが、みながみな公主に心酔して従っているわけはない。しかもそのうち過半数は民だぞ。戦力にはならん」

「だがいつ本隊が動くとも限らない」

 問題はそこだ、という声があがった。

「あの戦好きの二泉がなぜ出てこないのか、それが不可思議だ。しかも、侵攻する正当な理由があるのに、だ」

 闊達に話す男は髪をまげに結っている。日灼けした色黒の肌が逞しい。おもに二泉の間諜を束ねる蘭家らんけ、その家督の蘭逸らんいつは続けた。

「二泉は四泉の王統を盾に出来るはずだろう?なぜさっさと征服しない」

 蘭檗らんびゃく、と蘭逸は隅の青年を呼ばわった。蘭逸とは真逆に色白で体の厚みの薄い男は怯えたかように下を向いた。族領に帰り着いたばかりなのか、埃にまみれた旅装姿だ。

「二泉の城内はどうなっておる」

「……いつも通り平静そのものです。二泉主は相変わらず派手に遊興にふけっておりますが、格別沙琴公主のことを気にしている風がありません」

「黎泉の裁きを気にすることは」

「それもとくに何も。ただ……」

 なんだ、と急かされ、蘭檗は言い淀んだ言を繋いだ。

「妙な噂が流れております。なんでも、誰でも由歩になれる方法があるとかないとか」

「なんだそれは」

「わかりません。ただあまり顔を見たことのない者が公主の精鋭の中にはいるようです。それとこれは崖都の間諜の報告ですが、崖都城に入った公主は今現在、由霧にやられて体が優れぬとか。撫羊軍には間諜がいないので、あくまでこれも噂ですが」

 それは新しい報だな、と広房がざわつく。珥懿が問うた。

「蘭檗。崖都と瀑洛の兵卒の中に間諜は」

「すでに」

「よし。目立たぬよう沙琴の精鋭に近づけられるか」

 蘭檗はこれには渋面をつくった。

「……それは難しいかと。もともと二泉の騰伯とうはく公の軍の精鋭です。結びつきが強く、互いが顔見知りの者がほとんどなのです」

 騰伯とは二泉主の右腕として国を率いている重臣だ。

「では沙琴の側仕えには」

「それならば、あるいは」

 珥懿は頷く。

「引き続き徐々に増えている由歩が何なのか探れ。二泉本隊の動きもだ。……四泉軍のほうは、穫司かくしに詰めているのだったな」


 穫司とは崖都のある葉州ようしゅうの上、北西寄りに隣接する金州きんしゅうの都であり二泉と四泉を南北に繋ぐ大街道が通る要衝で、ここを落とされれば一気に四泉の南一帯が蹂躙されるおそれがある。


 当主の問いに答えたのはふっくりとした顔の年嵩の女だ。

「瓉明軍と穫司軍二万六千余が街の周囲と城内を守っております」

「一万五千は瓉明直属の軍か。割と骨がありそうだな」

 雷が響くような声で言った背の低い男は年嵩の女を見た。

「瓉明はなかなかどうして気概のある将だぞ。五泉で鍛えただけはある。穫司は落ちまい。のう、姚綾ちょうりょう

「ええ、そのように推察いたす。烏曚うもうどの」

「では、撫羊軍が穫司の様子見をしているということか」

「そもそも公主自身が動けないのがまことならば、今度こそ二泉主力が出てくる可能性もあるぞ」


 様々な予想が言い交わされたが、とりあえず戦況は膠着状態のまま、なんの動きも無いということだった。逆に、四泉主が手中にいる以上こちらは状況を進めることができる。


「いまいちど、四泉主の意向を問わねばならんな。どんなご様子だ?」

「あっ…あと三、四日は動きが取れぬと」

 問われて砂熙が緊張して甲高く答える。礼鶴が微笑んだ。牙族の伴當はんとうとして参入する為の登虎しけんに受かった者は、年齢に関係なく合議に出席できる。まだ慣れぬ大人おとなたちの世界に、緊張するのは仕方ない。

「ではお体が動けるようになり次第、当主には商談でいまいちど四泉の水先を確かめて頂くということでよろしいか」

 珥懿が頷いてとりあえず落着し、次の議題へと流れていった。





「見事になんの進展もなかったですな」

 合議が終わり退席しようと珥懿が出口に近づいたところで、ひとりの男が話しかけた。

老茹ろうじょ。来ていたのか」

「これはおたわむれを。このように死臭のする老耄おいぼれの気配をあなたさまが分からぬはずはない」

「筆頭監老を譲ってから振るわないから、てっきり夭享に任せきりだと思っていた」

 ほほ、と老茹は笑う。皺の取れなくなった目尻を下げた。


 老茹はもと先代の彩影ぶんしんだった。先代が殂落そらくした後に耆宿院に入り、功績から監老に任ぜられた。先任のたんでもある。自分の父親と同じ声が他人からするというのは妙な気分である。


「……暁歓ぎょうかんさまはたいそう四泉主に気に入られているとか」

 珥懿は立ち止まった。この監老は時々思いもよらない情報を持っていることがある。

「……なに」

 丞必と高竺が傍に控えていたが、顔を見合わせて一歩距離を取った。

「私は聞いていない」

「でしょうな。暁歓さまが叡砂をはじめ薔薇閣の見張りには口止めしておるから」

「来い、老茹」

 珥懿は外を示した。しばらく歩いて、階上の中庭にある涼亭あずまやに辿り着く。


 石造りの冷たい小亭、風がなくてよかった。珥懿は霜が降りているのも気にせずに設けられている石の長椅子に座り、浮彫を施した欄干に凭れた。座れ、と老茹にも示したが、彼は首を振った。

「尻が冷えまする」

「さっきの、どういうことだ」

 ほほ、とまた笑った。「歳もお近いゆえ、意気投合したのですかな。名で呼び合う仲とか」

事実まことか」

「なんでも、四泉主からそう申し入れがあったとか」

 沈黙した。周囲を見張る麾下きか二人は無言が恐ろしく目を逸らしていた。

「……すぐに引き離す」

「何故?」

 のほほんと訊いた老茹をまじまじと見返す。

「何故だと?他国の者と意を通わせてはならぬという掟だぞ」

「それは他国に味方し、武力、あるいは知略をもって一族に反抗することなかれという意味ですな。暁歓さまはただ側仕えとして泉主に心地好く療養して頂きたい一心で、他意はござらんでしょう」

 ならん、と珥懿は吐き捨てた。

「よもや、あなたさまは妹さまが口を滑らせてこちらの情報を漏洩してしまうとでも?」

「そこまであれは愚かではない」

「では、泉主と暁歓さまが本当に仲睦まじくなってしまうと?ほほ、まあお歳頃といえばそうですな」

 鬼の形相で睨んだがなおも笑う。

「ご心配はごもっともです。ですが、紅珥さまも仰る通り、暁歓さまはお聡い。ご自分の立場もようく分かっていらっしゃるでしょう」

「そう思うなら、なぜわざわざ私に言いに来た」

 おや、と老茹は意外そうに白眉を上げた。

「百聞をり百姓の理を整えるのが牙族の務め。その頂点に君臨する御方が、ご自分の妹御のことさえ知らぬとあっては、立つ瀬がなかろうと思ったまででございますよ」

「……私が心乱れる様が見たいだけだろう、お前は」

 呵々かかと声をあげた。顔の前に枯れ木のような指を立てる。

「何事にも平静に、己を制して耳を傾ける。これが牙族主として最も大切なことでございますよ」

 珥懿はわずらわしくその指を払った。

「先代の亡霊が何も知らずに。こうしている間にもお前の息が短くなっているのが私には分かるのだぞ。せいぜい養生しろ、老いぼれめ」

 それはそれは、と老茹が頷いたところで、走廊ろうかから夭享が走ってくるのが見えた。この監老の姿が見えないので探していたのだろう。

「紅珥さま。暁歓さまをお大事になさるのはたいへん良いことですが、あまり縛るのはお控えなさいませよ」

 去り際そう釘を刺すと、夭享にいざなわれてゆっくりと去っていった。珥懿は何を言っている、と心中で毒づく。縛るも何も、自分は歓慧をそれなりに好き勝手にさせている。むしろ放任しているくらいだ。

 何が控えろだ、と莫迦莫迦しくなって髪を払った。しかし、妹のこととなると冷静でいられない自分も、よく分かっている。分かっているのに、落ち着けない。

「丞必」

「はい」

「歓慧に、あまり泉主に近づきすぎるなと伝えろ」

 高竺が呆れて腰に手を当てる。

「ご自分で伝えたらどうです」

 だめだ、と片耳を押さえた。上にかかった髪をぐしゃりと潰す。

「四泉の商談に支障は出したくない。これ以上、私は関わらない」

 丞必と高竺はまたも顔を見合わせてそっとため息をついた。




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