十一章



 沙爽ら三人を見送ったその日、午後から待ちわびていた大雪が降った。はじめは粉雪ほどの雪風が次第に水気を含んだ豪雪になり、あっという間に膝丈に積もっていった。



 驟到峰しゅうとうほうの警告を当然ながら無視した二泉の先鋒隊は山崖からの矢雨と投石、吹雪に足止めをくらい、ひとまず峰に差しかかる峡谷より後退、本軍と合流するかに見えた。この雪では行軍は難しいと思われた。加えて本隊は由歩ゆうほではなく過半数が不能渡わたれずの軍、雪に加え霧界にとどまればそれだけ身体からだは弱っていくから、こちらとしては都合が良い。





 膠着状態だった四泉穫司かくしから一報。沙爽の予見した通り、穫司は内部に紛れていた撫羊派に扇動されて開城。外で撫羊軍と交戦していた瓉明さんめい指揮下の四泉軍は突然の開城に対応が遅れ、あらかじめ示し合わせていた撫羊側がすぐさま門を押さえ流入、三十万の民を人質に穫司を占拠した。その日のうちに城内に残しておいた瓉明軍の将帥しょうすい二人の亡骸が城門外に吊るされた。

 撫羊の要求は二つ。泉畿せんきを明け渡し、四泉宮城に自分を入城させること。現泉主沙爽を引き渡すこと。



 穫司が落とされ、南地域が事実上ほぼ制覇された。この事実に朝廷は震撼しんかんした。穫司を引き続き包囲する瓉明軍も練に長けた二泉軍と真っ向相対あいたいして損耗大、城内の軍は俘虜とりこになりすでに機能していない。もはや曾侭そじん甜江てんこうき止めるしかない状態だったが、それは穫司と穫司以南の民が渇き死ぬことを意味した。すでに危機を察した多くの民は北上して避難、あるいは南下しまだ封鎖されていない関を通って二泉へと流入している。



 牙領方面では、あれだけ注意して隠匿していた驟到峰の潜窟せんくつが撃破された。先鋒隊は本隊と合流しなかったのだ。鈴榴りんりゅう率いる監視役五人は北回りで後退し、途上先鋒隊から分散した螻羊ろうよう隊の待ち伏せにい二人を失った。珥懿が半数を戻していたのが功を奏したが、皆の間では二人といえど損害が出たことに衝撃が走った。ついに牙族と二泉の戦が本格化した嚆矢こうしとなったのだった。

 驟到峰が通行可能となった先鋒隊は途中の罠で数を減らしながらもじりじりと領地に迫り、ついに由霧を抜け、領門前の閑地で布陣し始めた。ここでしばらく本隊の到着を待つつもりのようだった。





「平原を突っ切ってこないのは流石と言ったところか」

 合議の場で蘭逸らんいつが唸った。「螻羊がいるからな。猋のにおいを感じて入りたがらない。実際、境界を越えた歩兵は全て猋が片付けた」

「五万余が全て入れるほど閑地は広くない。後軍の不能渡を何処に駐屯させる気なのか。いずれにせよ数が分散されておるうちになんとか潰したいところだな」

「現状、敵兵はどのくらいの数いるか……。監視の報告ではここまでの罠でおおよそ二百は減らすことが出来たはずだが」

「先手をお打ちになるか?」

 斬毅ざんきが珥懿を見上げれば頷く。

「猋を出さなかったのは閑地で一網打尽にする為だからな。ここでひとまず叩く」

 猋は多くない。傭兵に貸与した分を差し引いて四十といったところだった。だから温存していたのだ。

「四泉のほうはどうだ」

 問われた姚綾ちょうりょうが難しい顔をした。「すでに穫司が落ち、四泉軍も苦戦しております。残された道は曾侭で甜江を堰き止め、これ以上の敵方の進軍を押しとどめることですが」

「あの泉主がそれをするかね」

 ガラガラと烏曚うもうの声が響く。沙爽ら三人がすでに帰領の途についたことはしらせが来ている。あと一日二日もすれば帰り着く。四泉朝廷はやはり穫司が落ちたことを重く受け止めたらしい。

「どうでしょう。すでに何らかの指示を瓉明軍に与えているとは思われますが」

「四泉のことはあれが同盟書を持ち帰った後でいい」

 珥懿が言を切り、顎に手を当てた。

「北側に二泉の斥候はいたか?」

「いえ、今のところ見当たりません」

 少しいぶかしむように地図を見据えた。高竺こうとくが同じように覗き込む。

「どう考えても北のほうが守りが薄く見えるだろうに、何故五万全てが正面きって向かってくる?」

「……たしかに。しかし、北路は迷路です。そう簡単に突破は出来ないかと」

 それはそうだが、となおも考える。

「まるで目を逸らそうとしているようだ」

 呟いたのと同時に広房ひろまの扉が開いた。皮甲よろいを身に纏った跿象が慌てて入ってくる。

「どうした」

「当主。今すぐ猋を退さがらせろ」

「どういうことだ?」

「奴ら、泉賤どれいを連れてる」

 吐き捨てるように言った。

「不能渡の泉賤を猋に食わせてる。あのままじゃ猋が血に酔う!」

 そんな、と芭覇ばはが狼狽した。「泉賤はどれだけいるのだ」

「正門からざっと見渡して五百ほど。早くやめさせろ、当主!」

 落ち着け、と斂文がいなす。

「以前のように今現在、猋の統率が取れていない訳ではない。しかしながら当主、早急にご指示を」

 珥懿はすでに立ち上がって出て行こうとしていた。跿象が後へ続く。

「皆は配置に戻れ。斂文、北側の警邏けいらを厚くしろ。なにかにおう」

 言い置き、城の手近な角楼に上がった。南東側の広い平原と閑地が見渡せる。


 跿象があそこだ、と指差したほう、平原を囲んだ境界林に沿って火の手が上がっている。煙が立ち昇っているので見にくい。

ひどにおいをさせる」

 眉根を寄せていれば猋に追い立てられる影が何人か平原に走り出てきた。手脚にかせめられた痩せぎすの体が一瞬ののちに血飛沫しぶきを撒いて原形を失い、そのまわりに二、三頭が群がる。

紅珥くじさま、早く。みたいになっちまう」

 跿象が焦った顔で言った。


 猋は血に酔うとことわりを失う。そうなるとゆずりはの境界の掟も意味をなさず、ただ見境なく人を襲い喰らう悪鬼と化す。まだ頭目が酔っておらず組織系統が死んでいないからましだ。


嘉唱かしょう!」


 呼ばわった声に耳の欠けたのが一頭、黒甍くろいらかの屋根に跳躍して降り立った。待っていたと言わんばかり、天に向かって長く一声を吠える。三度繰り返した。


 しばらくしてこたえがあり、火炎吹き上がる境界の森から次々と杭列へ戻り始めた――雪原に大量の赤いわだちを残しながら。



 跿象がほっとして額の汗を拭う。珥懿は力の抜けた肩を軽く小突いた。彼は昔、想い人を血に酔った猋に食われていた。

「閑地を叩く。正門の守りを崩すなよ」

「承知!」

 息を吹き返したように角楼を駆け下りて行ったのを見送り、顔を平原に戻す。

「……なぜ猋が血に酔うことを知っている……」

 やはり考えうることは。

 平原を睨み、珥懿もまた準備のために身をひるがえした。



 猋のうち、血酔ちえいかかったものは二頭で、炎幕で平原から逃げられなかった泉賤の生き残りを下命を聞かずに襲っていたため珥懿はやむなくそれらを処分した。いずれも若い個体であり、人血に馴れていないものたちだった。頭目のめいが聞こえないまでに血酔してしまえばたとえ群れの中に戻れても仲間を襲ってしまう危険が伴う。人の血肉の味というのは彼らの中で特別らしく、喰らった個体はより勇猛にはなるものの制御が難しくなる。だから掻き裂くなり咬み殺すなりで人を攻撃させることがあっても、食べることは決して許さない。境界内に侵入者があってもそれは同じだった。



 作戦の失敗を知ったのか、炎の向こう側から矢が放たれ結局泉賤たちは一人残らず殺されてしまった。


「……むごいことをする」

 斬毅が顔に皺を寄せて燃える森を眺める。残雪のおかげで平野への延焼は無い。

「外道が。泉賤とて同じ泉国の民ではないのか」

「あれが二泉の戦い方なのだ。自軍の兵へとて気遣いのない雑な動かし方、まして泉賤など、同じ人として扱うほうがおかしいのだろう」

 灘達なんたつは腕を組み静かに言ったが、顔は苦渋に満ちていた。城の望楼で南を見据えていた二人はたまらず口を押さえる。

「しかし、耐えがたいにおいだ。風向きは違うのにこちらまで来る」

 二泉軍は猋が来ないことをいいことに境界を越えて回収した泉賤のしかばねを焼いていた。

「こちらの鼻を利かなくしようとしておる。我らとてこの有様、当主は外に出ぬほうが良かろうな?」

「だろう」

 頷きあったところで、噂をすれば階下から声が聞こえ、本人が上ってきた。

「当主!」

「大事無いのですか」

 人並外れて鼻も利く主は無感動な目で平原を見据えた。蒙面布ふくめんの下で口を動かす。

「腐ったうじ肉の肥溜こえだめに落ちたみたいで吐きそうだ」

「ご無理めさるな。もう二日めですからな。見張りの者もこたえておる」

「こまめに交替してやってくれ」

 同じように布で鼻を覆い、ところで、と灘達は北を見た。

「四泉主は帰ってきましたかな?」

 帰領予定は今日。北の監視からいまだ連絡はない。

「本当に帰って来れねば、盟約は反故になさるので?」

「……他所よそに構っている暇はない。本軍が到着する前に先鋒隊を追い散らす。あちらも奴らだけで攻めるつもりはないようだしな」

 ゆえに猋を酔わせ撹乱する作戦を展開したのだろうが、それは失敗に終わった。

「二泉に妙な入れ知恵がついている」

 またも顔を見合わせる。「由歩が異常に多いというのも何故なのか分かっていませんでしたな」

「そうだ。しかも妙なのはそれだけではない」

「というと?」

 当主にしては珍しく考え込んだ様子に、二人も怪訝そうに閑地を見た。

「あの先鋒隊、何かがおかしい。まるで傀儡にんぎょうのようだ。注意しろ」

 は、と礼を取ったものの、斬毅も灘達も当主の言う違和感がどういう事なのか分からず、内心首を傾げた。



 珥懿は珥懿で例えようのないもやついた感覚をどう表せばいいのか言葉が出ない。ただ、驟到峰到達から監視している兵の様子や戦い方、猋への作戦、泉賤の扱い、その何もかも全てが珥懿にはひどく機械的な動作に見えた。もちろん、兵とは下達を忠実に実行して当たり前だし、そうでなくては軍として成り立たない。しかし先鋒隊はあまりに無感動に見えた。猋はどこにでもいるわけではない。おそらく見るのが初めてだという者のほうが多いだろう。その未知の獣に行きずりに仲間が切り裂かれるのを見ているのに、ひるみもしていなければ戦意喪失するでもなく、淡々と閑地に辿り着き、陣を布いた。

 よほど練度の高い軍なのか。練度が高ければ作戦もそれだけ緻密により高度なことも行える。泉賤など使わずに猋だけを狩ろうとすれば出来たはずだ。もしくはもっと上手く誘導して排除するとか。しかし、おとりを使い潰すやり方が大雑把で、それほどの手強てごわさを感じない。あの先鋒隊におおよそ覇気のにおいを感じ取ることが出来なかった。一斉に泉賤に矢を放つ音。ただ粛々と、なにかの作業を行っているような、そんな加減で、なんの躊躇も力みも無く。そんなふうに珥懿には『聞こえた』。





 境界林周辺は猋との衝突から二日経ってもまだくすぶっていた。珥懿が杭列に行くと、集った猋のただなかで妹がせっせと手を動かしていたので、見咎めて近づく。


「歓慧、何をしている。危ないだろう。土楼いえに戻れ」

 歓慧は、でも、と言いつつ手を止めない。血にまみれた猋を雪で一頭ずつ洗っていたのだ。

「まだ全員洗えていなくて」

「そんなことをする必要は無い。どのみち汚れる」

「でも、みんな我慢しています」


 猋は元来気性の荒い凶暴な生き物だ。生き血を好み飢えれば同族で共食いもする。本当なら人の支配下には置けるはずのないもの。


「適当に雪の上で寝転んでいれば自ずと落ちる。それよりもお前が汚れる」

 眉をしかめながら手首を掴み、忌々しく血糊を雪で拭う。体温でけて朱色に染まり、水音を立ててしたたり落ちた。

「姉上。姉上の手が汚れます」

「……頼むから、お前から血のにおいなんてさせてくれるな」

 低い声で言うと、絹袖で妹のかじかんだ手をくるんだ。歓慧は見上げる。

「姉上。鼎添ていてんさまは今日帰る予定ですよね。お姿など見えましたか?」

 いや、まだだ、と城へいざないながら返す。妹の肩に舞い降りるすすを含んだ灰色の雪片を払い、自らの套褂がいとうを着せかけた。


 しばらく歩いて、珥懿はぽつりと問う。

「あの泉主がそれほど気に留めるか」

「ずっとひとりで悩んでこられたのだな、と思って」

 俯きながら微笑んだのを見返した。

「お前とあれはちがう」

「でも、似てますでしょう?」

 困るのが分かっていて歓慧は悪戯いたずらっぽくうかがう。予想どおり、珥懿は眉尻を下げた。

「お前はなにも心配しなくて良い」

 この言葉を何度聞いたことか。

「ありがとうございます、姉上。歓慧はひとりで戻れます。夕餉ゆうげにはちゃんと来てくださいね」

 城へ続く迷路を先に駆けていった。小さな背を見送り、白く溜息をつく。灰雪の降る曇天を見上げ、いまだ漂う屍臭ししゅうに辟易しながら足を踏み出した。




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