アコナイトを花束に(旧題:シュガーレス・イノセンス)

成田葵

或る令嬢の苦悩

或る令嬢の苦悩

「ねえ、もういいわよ。十分でしょう。それだけ殴れば」


 もう飽きた。人を殴打する鈍い音。錆びつくような血の匂い。汚いうめき声。暗く、小さな窓からわずかな光が差し込むだけの部屋に、これらが充満する。意味がわからなかった。こうなることをわかっているはずなのに、それでも私を拐かそうとする人間は後を絶たない。


「しかし、弥音子やねこさん。こいつはまだ自分の主の名を吐いていません。これでは蜥蜴のしっぽ切りにしかならない」


 不幸な私のボディーガードは、私を攫おうとした男を殴る手を止め、困ったように眉を下げながら私の方に振り返った。左手には男の襟ぐりを掴んだまま。美しい顔に返り血がよく映える。美丈夫が台無しだわ。


「そんなに殴っていては、吐く前に死んでしまいます。さねつぐ、あとは本家に任せましょう。もう呼んであるのよね」

「そうですが……これでは俺の気が治まりません」

「それがお前の本音ね。好きなだけ殴っていい……と言ってあげたいけど、お前がめいっぱい楽しんでいたら、は本当に死んでしまうわ。それが私とお父様の望むことでないことはわかっているはずよ」


 私はコンクリートが打たれただけの部屋に、不釣り合いなくらい上品な椅子から立ち上がり、ボディーガード……実次のもとまで歩いた。


「実次。私はおなかが空いたわ。もうティータイムの時間よ。こんなのにかまっていることだけが、お前の仕事ではないでしょう」

「それは……大変失礼しました」


 ぱっと男の襟を離し、慌てたように実次は言った。突然支えを失った男の身体は床に落ちる。ドサッという音とともに、男は小さなうめき声をあげた。


「すぐにお茶の準備をしましょう。今日は弥音子さんのお好きな『ペティ・メゾン』のカヌレをご用意しています」


 実次はいそいそと血に濡れた黒い手袋を脱ぎ捨て、男の上に落とした。実次は人を殴った後の手袋を使い回さない。「汚い、あんなのはゴミです」といつだったか言っていた。


「それは楽しみです。それなら今日はコーヒーがいいわね」

「はい。身を清め次第すぐにご用意しますね」


 新しい手袋をはめ、実次は「こちらへ」と私の手を取った。足元に落ちたで、私の靴が万に一つでも汚れないよう、丁寧にエスコートをする。


はそのままでいいの? 逃げないかしら」

「右脚を折っていますし、手の指もほとんど潰しているので大丈夫でしょう。もう本家も来る頃ですから」

「ならいいんだけど」


 私の言葉に微笑みかけながら、ガチャン!という重厚な音とともに、実次は扉に鍵をかけた。


 *    *    *


 私の生家、松原家は関東でも最大規模の任侠一族で、いわゆる極道である。「松原組」と言えばその筋の者で知らぬ者はいないほどらしく、東日本のそこら中で系列の組がしのぎを削っているらしい。「らしい」というのは、私が裏社会に滅法弱く、まったく知識がないためにすべて伝聞でしか知りえなかったことだからだ。


 私は現・松原組組長の松原 親成ちかしげの末娘として生まれた。父が五十五の歳に後妻にあたる母との間に生まれた私を、父は目に入れても痛くないほど可愛がっている。歳をとってから生まれた、しかも初めての娘。生まれたばかりの頃は、周りの幹部たちがちょっと引くくらいの可愛がりようだったとの噂だ。


 そんな私に、父は裏社会で生きることを強制しなかった。もともと堅気の人間であった母の娘であることが一点と、何より私が女であり、娘を溺愛する父としては、あくまで幸せに普通に生活してほしいという思いあってのことだった。


 私自身も分別がつく歳になってからいろいろ自分の生き方については考えたけど、やっぱり裏稼業で生きていくことは自分には向いていないと思ったし、真っ当な人間として生きていくつもりでいる。


 ただ、私のそんな希望に関係なく、私は裏社会のいざこざに巻き込まれることが多かった。理由は明白で、私が松原親成の末娘であり、唯一の弱点とも言える存在だからである。

 クスリは売らない、暴力殺人は最小限。古き良き極道として名をはせる松原組は、近頃のヤクザには珍しい清廉さから、却って恨みを買うことも多かった。もちろん単純に敵対する他所の組からも疎まれている。つまり敵は多いのだ。


 松原組うちに恨みを持つ輩が何とか父の鼻を明かし、あわよくば組に打撃を与えたいと考えるのは当然であり、その際の有効手段として白羽が立つのは私であることが多かった。小さい頃から何度も誘拐されかけている。


 私としては慣れたものではあるものの、毎度命と貞操が脅かされているのも事実であり、父は気が気ではないようだ。ただ、そこは松原組組長であり、何も考えていないわけではない。父は私の誘拐未遂が三回ほど起きたのを受け、私が五つになった年にボディーガードを付けることにした。そのひとりがこの真野まの実次である。


 実次は当時十三になったばかりの少年だった。よく知らないけど、その何年か前に父がどこかで「拾ってきた」らしく、それからしばらくして私の遊び相手兼ボディーガードとして、実次は私のそばにいるようになった。


 中学を卒業し、渡世入りしてからは、それこそほとんど片時も離れることなく、実次は私といる。私が大学と一貫のこの高校への進学と同時に実家を離れる際にも、彼は付いてくると言って聞かなかった。父も私が実家を離れる条件として、ボディーガードを付けることを持ち出してきていたので、彼は父の公認で今でも私のボディーガードとしてずっとそばにいる。


 そして、私はこの男に、永いこと叶わない恋をしていた。


*    *    *


 外は雲ひとつない晴天だ。梅雨が明けたばかりで、久々の快晴。本当なら今日はショッピングに出かけるつもりだったのに、道すがら攫われかけたせいで、結局今日のお出かけはナシになってしまった。


 マンションの自室に着いて、ダイニングテーブルに掛ける。ぼーっと窓から青空を眺めていると、シャワーを終えた実次がカヌレとコーヒーを盆にのせてキッチンから出てきた。


「お待たせしました、弥音子さん。お茶にしましょう」

「ありがとう。実次も一緒に食べましょう」

「いいんですか? 俺もここのカヌレは好きなんで遠慮しませんよ?」

「もちろん。一緒に食べましょう。一人で食べても楽しくありませんから」


 私の言葉に、実次は満面の笑みを浮かべてテーブルについた。


「嬉しいなあ、弥音子さんとお茶!」

「いやね。いつもしてるじゃない」

「今日もあなたを守れたことが嬉しいんです。俺の生きる道はこれしかないから」


 実次は慣れた手つきでコーヒーの入ったカップに角砂糖ふたつとミルクを注いで、私に渡した。


「ねえ、実次、」

「そう言えば先ほど本家から電話がありました。は無事回収されたみたいです。あとは幹部の方々が上手いことしてくださるでしょう。親父様が大変お怒りのようですよ。『こんなことなら弥音子を家から出すんじゃなかった!』って。そろそろ弥音子さんにも電話がくるんじゃないかな」


 実次は自分のコーヒーには何も入れず、それをすすりながら言った。


「それは困るわ……。お父様から独り立ちしたくて家を出たのに。また本家に戻されたら私は永遠に松原から離れられなくなってしまう」

「弥音子さんは奥方様によく似て美人でいらっしゃいますからね。俺はそれでもいいんですよ。ずっとあなたと一緒にいられるから」


 実次は歌うように言いながら、カヌレをひと齧りした。


「……ねえ、実次。ちょっといいいかしら」

「はい、なんでしょう」


 私は甘いコーヒーを一口飲んで、実次に切り出した。


「私はいずれ松原を出ます」

「はい。それが弥音子さんの望みですもんね」

「つまりボディーガードはいらなくなります」

「え!? なんでそうなるんですか!?」


 ダンツと大きな音を立て、実次は心底驚いたように立ち上がった。


「真っ当な女の子にボディーガードは付かないのです! ……そうなったら、お前はどうするの? ずっと松原にいるつもり?」

「俺はずっと弥音子さんのそばにいるつもりだったから……。それに一度杯を交わしたし、親父様には大恩があります。松原組を出ていくつもりはありません」


 実次は真剣な瞳で私に述べた。義理堅い男。本当に真面目なんだから。


「お前はお父様に大恩があると言うけど、別に無理してずっと私に付くことはないわ。もちろん私が家を出たあと、他の稼業で名を上げることを目指すのもいいと思うし、もしお父様への義理で、私のボディーガードを勤め続けるために渡世入りをしたのなら、足を洗うことだって考えてもいいんじゃないかしら。もしそういうことなら、私からお父様にうまく掛け合うこともできます」


 私は、実次が好きだった。そんな彼が、おそらく初めは望んでこの世界に入ったわけではなかった彼が、こうして私のために手を汚し続けることが耐えられなかった。私の父への義理のために、彼はこうして私のそばに居続けてくれるけど、きっとこれは彼の幸せにはならない。これが長らく私の胸の内にある、悩みの種だった。


「私は、お前が本当に幸せになれる道を探したいと思っています。それは必ずしも、ヤクザ者でい続けることと等しくはないとも思っています。私はお前にも、お前自身の幸せを考えてほしいの」

「そんなこと、突然言われても……」

「よく考えて。私は大学を出たら、本格的に松原と疎遠になろうと思っているの。それまでは、もしかしたらお前にまた今日みたいな迷惑をかけるかもしれない」


 実次が私を攫おうとした男にしたことを思い出す。猟奇的で冷酷なまなざし。今目の前で狼狽する彼からは想像もつかないほど、躊躇なくその男を痛めつけていた。


「私としては、お前にそんなことをもうさせたくないのです。わかったわね」

「……はい」


 実次は心底落胆したように、俯きながら小さく答えた。その返事を聞き、ほっとしながら私はカヌレを口に運んだ。


 しばらくなんてことない時間が流れる。実次は相変わらず黙ったままで、カヌレとコーヒーにはまったく口をつけていなかった。私はと言うと、ずっと言えなかったことが言えた爽快感と、この時間のばつの悪さと、そして実次が自分のそばからいなくなる未来への憂いと。それらが混じり合って起こるなんとも言えない胸のざわつきを無視するために、無心でカヌレを食べ続けていた。

 そんな調子で黙々と食事をしていたものだから、あっという間にコーヒーカップは空になってしまう。なんとなく実次には頼みづらくて、私は自分でコーヒーを淹れることにした。


「弥音子さん……どうかされましたか?」


 立ち上がりキッチンに向かう私に気づき、実次はさっと立ち上がった。


「コーヒーをおかわりしようかと……。それぐらい自分でできますから。やかんでお湯を沸かせばいいのよね。……やかんはここだったかしら……」


 少し背伸びしながら、キッチン上の棚を開ける。覗いたものの、やかんは見当たらなかった。


「おかしいわね……ここじゃなかったかしら」

「やかんならキッチン下のスペースです」


 後ろから聞こえた声にびっくりして、私は振り返った。いつの間にか後ろにいた実次が、手を伸ばして上の棚を閉めているところだった。ちょうど私に覆いかぶさるような体勢と、彼の身体から漂う石鹸の香りに、私は思わず顔が熱くなった。


「それにコーヒーは水をマシンに入れれば勝手に淹れてくれますよ。お湯を沸かす必要もないんです」


 立ち尽くしている私を余所に、実次はささっとコーヒーメーカーに水を入れ、フィルターと豆をセットしてスイッチを入れた。ゴリゴリと豆をすり潰す音と、豊かなコーヒー豆の香りがキッチンに広がる。


「……コーヒーもひとりで淹れられないお嬢様が、独り立ちなんてできるんですか」


 実次の小馬鹿にしたような言葉に、さっきとは違う感情で耳まで熱くなるのを感じた。


「そ、そんなのこれからいくらでも覚えられます! 馬鹿にしないでください!」

「申し訳ございません。……そんなこともできないのに俺から離れるなんて言うから……。つい心配で」


 実次はひどく寂し気な顔をして私を見つめた。


「弥音子さん。俺は親父様に拾われて、あなたに出会って。本当に救われたんです。だからあなたの力になりたいと思いました。そうすることが親父様への恩返しにもなると思ったからです」


 実次は今にも泣きそうな顔をしていた。彼は私の足元に跪き、許しを請うように私の手を取る。


「あなたが松原組を出ていくことはわかっています。それでも、あなたの身に降りかかる災難は、きっと組から離れようともずっとあなたに付きまとう。……俺は、あなたが組から出ていくのなら、それを追ってでもあなたの身を守るつもりでした」

「……私が組を出るなら、そこまでする義理もないじゃない」

「それでも、あなたは私の主です。親父殿のご令嬢です。あなたの身を守ることは、そのまま俺の生きる意味でもあるんです」


 実次は私の手の甲にキスを落とした。思わず身体が跳ね上がる。


「なにを、」

「手の甲へのキスは『敬愛』を意味するそうです」


 実次は私の手を握ったまま、じっと私の目を見つめた。


「弥音子さん。俺はあなたを、一生かけて守り抜きます。たとえあなたが松原と縁を切り、極道の女性でなくなったとしても。それが俺にできる恩返しだから」


 実次は私の手の甲を自らの額に当て、懇願するように首を垂れた。


「だから、俺を捨てないでください。家を出るなとは言いませんから。……どうか俺を、そばに置いてください……」


 絞り出すような実次の声に、私はなんだかたまらない気持ちになった。悲しさと悔しさと寂しさがせめぎ合い、何とか出た言葉は「わかったわ」の一言だった。


「でも、お前がもし私から、そして松原から離れたいと思ったら……。そのときは必ず私に言って。なんとかしてあげるから。自分の人生をきちんと考えるのよ」

「……はい! もちろんです! まあ俺があなたから離れたいなんて、そんな日は来ないと思いますが!」


 さっきとは打って変わってはちきれんばかりの笑顔で、実次は立ち上がった。さっきまで零れそうになっていた涙はどこに行ったのかしら。


「ささ、弥音子さん。キッチンは狭いし火傷の心配もあります。コーヒーは俺に任せて、座って待っていてください」

「ええ、ありがとう……」


 鼻歌でも歌い出しそうな実次を余所に、私はテーブルに座った。


「俺のコーヒーでよければ、飲んで待っていてください! 冷めてると思いますが!」


 というか間接キスじゃないの、と思いながらも、私は彼の飲んでいたコーヒーを手繰り寄せた。冷めたコーヒーからはほとんど香りもせず、ただの真っ黒な水にさえ見える。試しに一口含むと、口いっぱいに強い苦みが広がった。


 大急ぎでミルクをたっぷり足し、角砂糖を入れてもう一度口に含む。冷たいコーヒーでは砂糖も十分に溶け切らなかったのか、甘みはほとんどなかったけど、ミルクのまろやかさでなんとかに飲める味になっていた。

 薄茶色に変わったコーヒーの水面を見つめながら、私は思案する。



『一生かけて守り抜きます』



 嬉しかった、単純に。私は実次が好きだったから。ああ、彼は私のそばにずっといてくれるんだと。この上ない喜びを感じた。

 でも、それは私のためじゃない。



『親父様への恩返しに』



 彼は、決して私を想って、私のそばにいるわけじゃないんだ。

 わかっているつもりだった。だからこそ彼を解放しないととずっと思っていたし、それが肩書上「主」である私の責任であると思っていた。私は彼を好いているけど、その個人的な感情を押し殺してでも、否、好いているからこそ彼を自由にしないといけないと思っていた。


 なのに、彼は。



 どこまでも父の恩に報いようとしている。

 実次の中には、私の父との絆しかなかったのだ。



 ああ、なんて役に立たない主従関係。

 本当に無意味な感情。

 お前を縛ることも放つこともできないこの関係に、この感情に。

 いったい何の意味があるんだろう。



 実次の目にはきっと私なんて映っていない。私の先の、もっともっと大きなものしか、彼はきっと見ていない。



 彼の瞳に私が映る日は来るのだろうか。その頃には、私もブラックコーヒーが飲めるようになっているんだろうか。


 揺らぐコーヒーの水面を見つめる。……どうして、こんなに揺れているのだろう。手が震えているから? それとも堪えている涙が視界を歪ませるから?

 声を上げて泣きそうになるのをこらえて、私はただただ甘くないコーヒーを飲むことしかできなかった。

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