アイデンティティ形成のために他者から承認を得る方法としての、無差別殺人

 何か事件が起こると、決まって例えばTVの情報番組のキャスターはしかめっ面で低まった声色になり、コメンテーターは「真理はこれなり」と訳知り顔で説明を開始し、寄ってたかっていかにも皆事件を憂慮しております感を醸し始めるものである。はじめ、加害者を除く被害者と関係ない第三者の人々は、どうして加害者が攻撃行動を取ったのか不知だ。場合によっては、加害者自身でさえ自分について不知だ。加害者の生きる世界について誰もが不知である。だからこそ、特に事件を取り上げるマスコミなどは新鮮な時事ネタの好奇心に導かれ、もっと深く知りたいと思い、一時的に「教えて貰おう」という姿勢をとるだろう。だが、しばらくすると今度は解った気になる。解った気にさせているのは、専門家たちの今までの専門知識や理論が既に存在し、これを使って解釈や解決策が提示されるからだ。専門家でなく専門知識のない全くの素人でも、やっぱり今までの人生経験に裏打ちされた経験知をもってして物事を解釈・判断をするものだ。でもそれらは加害者の生きる世界を専門用語の世界に翻訳しただけではないか? むしろ、そのようなあらかじめ用意出来ていた枠組みのせいで、加害者の生きる世界から遠ざかるだけではないのか?
 そのため、ナラティヴ・セラピストのようにクライアントに寄り添うことはとても難しい。私のこれからのレビューも、結局どこぞのコメンテーター張りに見知っていることを使用して言葉を垂らすものでしかないだろう。だからはたしてこれで本当に“良い”内容だったのかどうか判らない。だが、とりあえず考えたことを書いてみる。

 年齢についての具体的な記述はないが、描写からとりあえず加害者を「少年」としておく。少年はどうして人を殺そうと思ったのか。

 少年は物語の始まりから既に、自己肯定感が低く、またそれを変える術などどうしようもないとばかりに諦念に捲かれているようだ。それを思い知らせたのは今までの境遇だ。同級生はもとより、保護者にして少年にとっての親密圏の中の人であるはずの親ですらも、少年の存在を否定し続けてきていた。何が気にくわなくて周囲の人々が少年を邪険にしたのか判らない。
 例えば、自身の内側に抱え持っている言葉になり切れない湧出物を他者へ繊細に表現する語彙や技術が無いなどが原因だったら、それゆえに少年が幾ら辛いと感じたところで少年が辛さを感じているという実際を他者に明かすこともできなければ、明かされていないからこそ他者は少年が何を感じているかを知る可能性もない。ダレン・ブラウン『メンタリズムの罠』によれば、自分がどういう人であるつもりと、実際どうあるかは違う。自分がどんな人間かを人に伝えるつもりなのか、が論点ではない。自分が実際は何を伝えているのか。これが重要だ、という。少年自身が感じたことを他者に伝えた結果他者から邪険に扱われた、という帰結は正しくも間違いでもある。少年は初めのうちは拙くとも感じたことを言葉などに置き換え公開していたのだろうが、静かでいても愛嬌があるように思わせるにはキレのいい機知や本物の魅力などの多くの補完的な技術を必要とするので、それを身に着ける努力がないと遂にはあまり感じのいい人ではないという印象を固定的に与えることになる。なので、少年は感じたことを技術の裏打ちによって表現する、その技術に恒常的に欠けていたから邪険な扱われ様になった、が正確だ。もし技術が少しずつ身に付くようになっていれば、少年が欲した理解者を増やせられたかもしれない。だが結局、自身が邪険にされている辛さを抱えているという問題は、そのままで来てしまった。まぁ、表現の話はあくまで仮定の話でしかない。
 自己(self)というのは、英語では再帰代名詞であるように、一度自らを他者化したうえでその他者を自分自身として再び受け入れたもの、という概念である。自己が成立するためには、自己同一性=アイデンティティの確立を必要とする。それにはまず、他者化された現実の自分の有り様と、通常イメージする理想的な自分の有り様とが折り合いをつけながら次第に一致すること。そして、形成された自己が社会的に承認されること、この二つが条件である。もし自身が設定した自己が他者から承認されていないと、他者の解釈というのは大概ほかの者によっても同じように解釈されていることから、自身の設定のほうがマイノリティになってしまって社会的に上手くコミュニケーションできなくなる。そのため、最終的に自身も受け入れることが難しくなり、こうして他者によって自己の変更を余儀なくされるのだ。
 ところが少年の場合、少年が関わる社会からは常に承認されていない。なぜなら同級生からいじめられ、親から心無い言葉を吐かれているからだ。少年にとって社会とは家庭と学校しか無いので、その外側に承認を求めることも出来ない。少年にとっては、外側という発想自体浮かんでいないだろう。これではアイデンティティが確立することはなく、不安定なままで置かされる。あるいは、少年の設定する自己が常に社会的妥当性がないものとして扱われることで、少年は社会にとってなるべく都合の良いものであるように、すなわち自己卑下した形で自己を何度も設定し、そうして直し上がったものが他者に承認されて居たと言うことも出来る。常に他者から否定されていることが自分らしさなのだ、と少年は自己を設定するのである。人は社会と関わって生きる上では、自己の社会的承認の必要からは避けられない。健気なことに、少年は自身を否定することによって社会の中で生きてきた。これでは自己肯定感は生まれようがない。
 他者から承認されていないという状態は、少年において敗北が確定している人間関係になおも依存したうえで、その営繕と承認のほうに自身の物事へのエネルギーをなみなみ取られていくばかりになる。自然と、学生として勉強に精を出す分の気力の余裕など供出させられて無くなり干ばつ化していく。従って成績は下がるしかない。成績が下がることは親の自尊心にとって望ましいことではなく、同級生が程度を低く見る根拠を与える。だが少年は勉強の側面で他者から承認されるだけの気力を搾る余裕がない。ますます少年は社会に承認されることはない。そうしたところも、同級生や親から冷たくあたられる一因になっただろう。少年は負のスパイラルに囚われたのである。

 自己肯定感が低く、周囲から迫害され、親に対する心からの甘え体験もないとなると、憎悪を満たすようになる。とはいえ、その憎悪を実際に殺人へと実行させるのは短絡的にはいかない。殺人が罪になる刑法上の戒律と、殺人に恐怖を覚える倫理観よりも、さらに上回る価値がそこにあると思いなせれば、殺人など厭いはしなくなる。
 尾木直樹『「よい子」が人を殺す』によれば、殺意が芽生えるのは、親子関係の変質とともに、学歴社会の崩壊があるからだという。まず前者だが、60代以上が経験したような親が子供の思春期・青年期の成長にとって頑固に立ちはだかる壁としての役割を、バブル崩壊後の政経進路が明確でないことに併せ親自身の生き方も自信喪失状態となることで果たせなくなりつつあることから、結果として子供が一人前に自立していく大人へのプロセスがほとんど消滅した。このような者に若者は殺意を向けないかわりに、無差別殺人に向かうか、自分を抑圧しアイデンティティを空洞化させかねない存在を抹殺するほうへ追い詰められる。また後者だが、若者にとって政治・経済的に先行き不安な現状では社会への信頼や国への尊敬心が教育によって育つことはなく、公や未来よりも個としての今の現実を大切にしなければ自分の足場が固まることはない。その中で、新自由主義思想の競争主義原理を梃子にした成果主義を持つ親に育てられると、数々の進路選択と成功のプレッシャーに耐えかねて殺意を芽生えさせる。
 またそこには、まず実際の対面的コミュニケーションが減少する代わりにインターネットやSNSを使う。それが、他者との距離感や親密性の度合いをやり取りの交換回数と反応速度を以って計測し、何らかの事情で回数や反応が遅れることを許さず仲間外れの恐怖や強迫観念に苛まれる。情報化社会によって過去の犯行や爆弾の製造方法などを簡単に調べられるので、模倣犯を生み出せる。さらに、新自由主義思想が教育の世界に入りこむ。これが、教育での勝ち組と負け組を肯定し、金持ち優先路線が公私を問わず露骨に始まる。地域と共に歩む教育実践を不可能にさせ、金を払って遠くの良い学校へ通わせることが我が子の社会的成功につながると親が思い始め、それが若者のネットワークを孤立化させる、という要素も加わることを説明する。

 ここまでならば、攻撃行動をとった相手は親か同級生だったはずだ。アイデンティティを承認してくれない相手そのものなのだ。だが実際は、これという相手を特定せず偶然目の前にいた者を殺している。永山基準では、人を四人以上殺害すればほぼ死刑になる。少年は結局大量殺人をしなかったものの、事実上無差別殺人者となった。なぜ、無差別殺人という発露をしたのか。
 少年の現象は無差別殺人ではあるが、その前に一度ビルの屋上から社会を見下ろしている。鳥瞰は翼を持たない人間としては自分を認めない一般社会対自分自身という相対視をとても意識させただろう。相対的に現実を超越した存在としての自分にしか、価値を見出せなくなった。となると、少年にとって無差別殺人とは裏返しの自殺の意味になる。親や同級生に標的を絞らなかったのは、相対視され上から見下ろせる自身の想像の中でのポジションの、さらに上であり敵わず逆らえない存在を否応なく意識させるから都合が悪かったのかもしれない。でもそういった調整はあくまで乱数要素でしかなく、標的は本当に誰でも良かったのだろう。
 田代則春『人は何故、人を殺すのか』の中で、例として神戸須磨児童連続殺傷事件を念頭にした上で、器物破壊化殺人者の心中を「心の砂漠」と表現している。少年の心中には親をはじめ周囲の人など一切入っておらず、それらは心の埒外のただの生物に過ぎず、自分以外の人の入り込む余地はなかっただろう。何故なら人とは即ち自身を迫害する存在であり、心を許さぬようにせざるを得なかったのだ。本来少年の人格を形成するうえで、親や学校内外の関係者や地域社会の人々は、地域共同社会での連帯感をもって悪の気持ちが芽生えたときのブレーキ役になってくれたはずだ。しかし戦後民主主義の諸理念が消費文化と個人の欲望最大化を正当化させる論理的根拠として回収され、次いでコンピューター・ネットワークの整備によって情報送受信の主体が常にそれをする個人に固定され、必然として自分にとって都合のいい情報ばかり受容し、そうして個別の基準に沿った価値観形成をしていくようになる。それは他者の価値観を受け付けない心性に繋がり、価値観のリアリティが徹底して個別化・相対化すると同時に、むしろ個別の価値観が絶対化されることにもなる。こうした個人のプライバシー防衛のための全人格的人間関係の回避という傾向は、人間関係を断片化させ対面的コミュニケーションを減らす。従って、先の親子関係の変質等の要素も相まって、地域共同社会に連帯感が無く、誰も少年を助けられない。少年の心に誰も居ないとなると、想像や被害妄想の虜として空想と現実が一体化される。それが、少年の目に現象として人が映っていても、心中では物のようにしか投射されなくなる原因となる。
 かくして、少年にとって殺人活動は単なる破壊活動としてしか認識されていなくなる。何を破壊するのか。古村龍也/雀部俊毅『図解 犯罪心理がよくわかる本』によれば、攻撃行動を誘発し易い状況の鍵は「甘え」だという。甘えを拒絶されたと感じた場合、それを裏切りと取り、深刻な恨みを生じ攻撃的になる。自分の中にある認めたくない資質・欲望などの内なる悪を自身が引き受けることに耐えられなくなると、ときに自殺ではなく外部に投げ捨てて他者へ転嫁しようとする投影が起こる。少年が初めに親子を狙ったのは、それが甘えられる供給者と特権者として現在進行形で成立できている人間に他ならず、このことがそれを求めても得られなかった自分との対比を感じさせ恨みを生じたからだろう。少年は、自身の得られなかった「幸せな人間関係」という概念を、得られない恨みによって破壊した。

 これらを踏まえて、少年が無差別殺人をせずとも済めるようには第三者としてどうすれば良かったかを考えてみる。

 星一郎『面白くてよくわかる!アドラー心理学』によれば、無視された子は承認欲求が満たされず、自己肯定感が育たない。すると承認欲求を満たそうとして、周囲から注目を受けたいがために、衝動的・反社会的行動をとることもあるという。そもそも「心の砂漠」を形成させるような環境が問題だ。
 しかし現在はプライバシー防衛のための全人格的人間関係の回避という傾向があり、これが「心の砂漠」を見抜けないどころか放置し、時に新自由主義的な自己責任論で個人問題化させる。個人を取り巻く状況は悪化している。
 加えて、日本人特有の気質も相まる。異物を許さない質だ。日本の風土は災害が起こり易く、日本人は危機に何度も見舞われてきた。だから災害に対処し生存する方法として、皆で有機的に協力し合い災害を乗り越えることにし、その協力団結の妨げになる異物を即ち人間全滅の端緒と恐れと見做して排撃する無意識的な機序を設定した。異物とは人や物に限定されない、とにかく好ましからざるもの=問題という概念だ。従って日本人は災害だけでなく、問題そのものを排撃しようとする思想が固まっていった。少年が青年となって出所後、就職活動先などで人間扱いされなかったのは、こうした一因がある。少年とは異物であり、異物に関わると日本人が全滅するかもしれないという恐怖の回路が機能するからだ。ちなみに、そうした回路は災害時には治安を強力に安定化させる力を持つのだから、回路自体についての善悪を判じるつもりはない。今回は排除として作用したということなのだ。
 さらに、報道の仕方にも問題がある。マスコミの報道目的は、認識論的に二側面ある。一つはイデオロギーに捉われず事実の伝達の厳密化を目指す客観性志向。二つはこれに矛盾し、スポンサーから提供される広告料を稼ぐためにしばし情報の客観性をないがしろにする商業的利潤の追求だ。だが存在論的に、マスコミは常に情報の選択・加工をしている。それは時間的・経済的制約に基づいて情報を伝えないといけないからで、報道側は一般的に馴染んでいる既存の報道パターンの中に情報を流し込む作業を常時行い、そして視聴者確保のための情報の差異化を加えていく。機能の必然として、マスコミは真に客観的な報道など出来ない。この二重の記号化の中で、社会の人の大多数の意識(とマスコミが思う意識)を反映した形での差異化が付けられる。少年は殺人犯Aという記号となり、殺人犯Aが永久不可侵の絶対的な悪だという前提で、どう悪いのかを各社が差異化しながら取り上げる。少年は、排撃“するしかない”人と成るのである。

 今まで考えて来たように、個人の感情が決して社会と切れているわけではない。特にこんにちの社会において心理学的な知見は、不当に自尊心が低められてしまった個人の状況を説明する知見として、さらにそうした人間モニタリンク・コントロールを助ける知見として、ますます受容されてしまう。R.ベラーによれば、ポップな心理学的知が一般に受け入れられるようになると、あらゆる社会現象の説明が個人の内面へと帰されるようになるという。すると、社会現象や問題の多くが他者との関係から生じてきているにもかかわらず、原因を個人の心にまずもって帰してしまうことによって、問題の本質を見誤らせ、解決をむしろ妨げてしまうのが問題になる。事件があるとよく個人の「心の闇」という言説が流布するが、個人的な問題にばかり消化するべきではない。一見すると個人の問題に見えることは実は社会の問題かもしれないことに気づき、しかし全てを社会の問題にしたところでその社会の構成員は自分も含まれることから、自分も変わらなければならないのである。C.W.ミルズは『社会学的想像力』にて、自己と世界との相互浸透を把握するのに欠くことの出来ない精神の資質を、社会学的想像力といった。
 でも、少年を取り巻く社会は困難さをもたらす。少年は恐らく今後も孤独のままで、社会からは忘却されるだろう。少年は、親や同級生から否定されることで存在を殺され、青年となって青年自身を殺し、殺害によって殺人犯Aという記号として一時的に話題になっても日常の話題や時事ネタが次々湧き出るような社会では次第に不特定多数の人々から忘れ去られて存在を殺される。少年は3回殺されることになるだろう。

 大事なのは、少年を排撃したり無関係でいたりすることではなく、少年を教訓として二人目の少年を生まないように我々が変わることである。少年の存在を証明できるのは、アイデンティティを他者として承認する我々も関わるからだ。



 ここからは、ただの余談だ。
 なぜ殺人をしてはいけないのか。

 これはあくまで考え方や解釈の一つに過ぎない。物理学の一分野である熱力学に、「エントロピー」という概念がある。エントロピーとは、何かをすることができて何かをすることができない、その不可逆性の度合いであり、一般には散乱して元に戻らない度合のことだ。人が死ねば、死体を構成する原子は散乱していくので、死体はエントロピーを増大させる。ところで仏教では無用の殺生を禁じている。言い換えれば、仏教はエントロピー増大を嫌う。仏教は、この世の森羅万象すべての実在を否定していて、事物の本質は、それそのものの実体とは別に存在する概念上のものに過ぎないと考えている。概念とは様々なものがしかるべき因縁=「空」で組み合わさった結果の現象=「色」に過ぎない。ブッダは空の考えを応用し、輪廻転生という苦しみを生むのは魂ではないとして魂を否定したうえで、それは自分という存在そのものへしがみ付こうとする人の意志だと考えた。その執着を捨てられれば、転生の原因の自意識そのものが消えるので、転生の輪廻から解脱し苦しまなくなる、というわけだ。気を付けるのは、あくまで原子が再利用=輪廻転生することが煩悩を引き起こす可能性に通じると言っているのであって、人間だけが輪廻転生するとは言ってはいないことだ。動物も植物も無機物でも、原子が散乱した状態だと輪廻にとらわれる。だが物質として高分子化合物という形で安定的に存在していれば、生命がその体を維持するために利用される殺生を除外すれば、原子が再び別の何かとして利用される機会がなくて、従って輪廻からは外れる。仏教にとっては、人間も動物も関係なく、全てのものの救済を目指すのである。一方で必要以上の殺生は総合的にエントロピーを増大させることになるので、仏教は殺生を禁じるのだ。
 自分という存在への執着を捨てられれば、転生することが無くなり、苦しむことも無くなると書いた。だがその会得だけでは、今持っている人生の悩みをどうにかすることはできない。どのように煩悩や執着を捨てられるかの途上に取り組むことになる。ましてや、自分という存在への拘りを捨てるとは言ったって、自分に対する暴言や中傷などに傷つき落ち込むままにはしていられない。ではどうするかというと、何も反応しないことである。感情を上げも下げもせず、暴言を肯定も否定もせず、暴言を相対化し暴言を受け取ってやらないことによって相手に勝利する。少年も、自身へ向けられた邪険の意向に反応せず相対化すれば、邪険を生身の受け容れなければならないものと捉える観念から解脱でき、あるいは社会が家庭や学校しかないという観念を相対化することによって、それらとは全く別の社会の構成員に相談や情報を求めるといった行動に接続したかもしれない。

 コミュニケーションをコントロールするような視点を持ったり、相対化の感覚を持ったり、いずれにせよメディア的な啓蒙によって知識を持っていなければ、疎外感に捲かれるばかりに攻撃行動に行き着くかもしれない。要るのは啓蒙であって、犯罪の厳罰化だけではさらなる規定外者を生み出すだけである。

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