宜仁、八月三十一日

―――

 気を失いたい。今。恐怖で失神するように出来ていたかった。




   *   *   *




 国内のすべての制限文献を国家芸術院改定版に置き換えるため、雇われた作家たちが執筆を続け政府の検閲を受けている。

 作家たちが迫害を受けることを恐れ、魂を売って書いたのだろう国芸版を初めて読んだ時、全身の血が凍りつきながら、かっと燃えて逆流するような激情に襲われた。

 こんなことが赦されるか。

 こんな冒涜が赦されるのか。

 一体誰が、何の権利があって、自由であるべき表現作品を粗悪な塗料で塗り込め、似たり寄ったりの形に潰すのか。

 こんなことが、国家の大義を負った仕事であるものか。

 僕はこの先の人生、読みたいと思う本のほとんどを、国家に許可を願い出て生き方を強制され、そうでなければ姿かたちすら似ない国芸版なるまがい物だけを読んで生きていかなければならないのか。


 亡命しよう。そう思った。

 改元前後の駆け込み亡命希望者多発があったので大使館側は今も警戒している。僕は運動神経が悪く、小学生よりも走るのが遅い。大使館に駆け込んでの亡命は難しい。

 ならば、しばらく耐えて努力を重ね、海外研修旅行を勝ち取ろう。国立第一大学文科は一年次の年明けに若干名を海外研修に国費派遣する。行き先の国にはハッピーエンド法のような無茶苦茶な思想強制がない。研修メンバーに選ばれるよう努力し、到着した先で逃げよう。それしかない。

 今や私的な海外渡航も一般人には難しい。特に、僕の両親は改元前の蔵書がかなり多く、強制廃棄に抵抗する傾向ありとして感情リスク履歴がついているから海外出張すら許されない。そのため、実子の僕も単独海外渡航が許可される見込みは薄い。

 亡命は両親も許してくれるだろう。中央省庁勤めで政府側の人間ではあるが、二人とも本が好きだ。僕に好きなだけ本を買い与えて育て、改元期、幾つもあった本棚いっぱいの蔵書を強制廃棄に出すときは二人とも泣いていた。家庭内で国を批判するような会話こそしないが、僕の気持ちは分かってくれるはずだ。

 第一大学には危なげなく入れると思っていたが、こうなるとただ入るだけではダメで、常に獲れる限り最高の成績でなくては研修旅行に選ばれない。

 僕は文字通り寝食を削って勉強したし、死に物狂いで自分の言動を削り込み、傷口に生ゴミを塗りたくるような嫌悪感に耐えてマイルドな国芸派を装った。糞の海に潜って息を止めるみたいだ。浮かび上がっていい時まで絶対に耐えると決めていた。




 そうして最終目的のためのあらゆるハードルを越え続けた僕が今、v=gtのルール通りに速度を得ながら巨大な地球の夜に墜ちていく理由をしるそう。


 僕の両親が、僕が何を好きで何を考えるか概ね分かるくらいきちんと僕の両親だったからだ。

 そして愚かなやり方で僕を愛しているから。

 研修旅行メンバーの選考を勝ち抜き枠を掴んだことを告げると、両親は、パスポート取得に必要な確認書類群の提供を拒否した。改元後、パスポート取得の難易度が上がり要提出書類は大幅に増えた。未成年の僕には独自に用意できないものがたくさんある。


――亡命するつもりだろう、お前は。


 父親がそう言ったとき僕は、上手な真顔で、しないよ何それ、と言えたと思う。

 でも駄目だった。両親は絶対に許さないと言った。研修旅行参加の可否を伝える最終的な締切日には僕はまだ十六才の未成年で、締切日までにパスポートを提出しなければならなかった。学務にも後日提出できないか何度も問い合わせたが撥ね付けられた。調べると、これまでも遅刻や取得遅れで締切日にパスポート提出できなかった先輩たちが全く救済措置なく研修不参加とされていることが分かり、僕は必死になって両親を説得した。毎日毎日。

 結局、それがいけなかった。

 必死すぎて、両親の心配が現実のものであることの支持材料を与えてしまっていた。


――うまくいかなかった時のことを考えたか?

――よくて一生自宅軟禁、悪ければ刑務所行きだ。家族全員。


――すぐ成人年齢になる。静かに生きていればまた読めるようになる日がすぐ来るんだ。

――馬鹿な真似しないで、このまま優秀に、誰にも目をつけられないように生きろ。それが一番いい。


 『馬鹿な真似』。

 『一番いい』。

 僕は両親がすでに化け物になってしまったことを知る。

 その両親が僕に、化け物だと気付かれずにうまく生きていけと言っている。

 笑いも出なかった。

 取り返しのつかないことというのはある。たとえば人生などだ。


 その後、数日かけて二つの物語を書いた。書き終わる前に僕は成人した。


 一。

 拡大ハッピーエンド法が表現作品の規制を越え実生活にまで侵攻してくる。拡大法施行を拒むため、僕は投身自殺を試みるが失敗し、重症のまま施行後まで生き延びてしまい拡大法通りの取り扱いを受けた後で死ぬ。両親は病院を相手に訴訟する。


 二。

 課題のため国家図書院で文献閲覧していた大学生が、天己以降に書かれた批判的文献を発見する。膨大な文献を短期間で国家図書院に格納する無理な作業の隙間に、反体制分子が危険を侵して潜り込ませたものの一つと言われるが詳細不明。大学生は国芸派だったが、とある理由から主人公と同じ運命を辿る。


 遺書だ。

 だから、僕自身はそれらがどう扱われるか知ることはない。遺書とは通常、本人の死後に初めて他者に読まれるものだから。

 どうにでもするがいい。物語通りになることを望んでなんかいない。ただ、絶対に誰かに読んでほしい。この法律は必ずいつか実生活に範囲を拡大し、人間の言動そのものを縛り始める。

 少なくとも両親が無視できず内容を見るように、どちらもタイトルを『遺書』とした。


 それで僕がすべきことは終わり。


 まだ朝が来ない、暗い夜の時間に、寝静まった自宅内を忍び足で歩き、ベランダに滑り出る。


――天己四年八月三十一日未明、自宅マンション五階のベランダから投身自殺を図る。全身十八か所骨折の重症で都内病院に緊急搬送、入院。


 先程の『遺書(一)』にはそう書いたが、僕は入院なんかする気はない。生きていたら二本の遺書内容を国に知られ握り潰されるかもしれない。

 だから頭から落ちる。確実に死ぬ。

 そのくらい、僕にはできる。このまま生きることに比べたら、遥かに容易たやすい。



 そうして今、物理法則に忠実な速度を得ながら、巨大な地球の夜に墜ちていく。


 逆さまになった夜景が見えた。きれいだ。

 遠くの空が明け始めて明るい水色と薄紅色に燃え始めていた。きれいだ、ほんとうに。


 世界はこんなに美しいのに、人のすることだけが愚かで醜悪で、


 ああでも、




 これでもう、偽りの肥溜めに潜っていなくてもよくなる。





 葬られた数々の作品たちと同じところに、僕も逝く。





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