三譚 永久の祈りに満ちる、竜と人がともに約う空——世界

一唱 天の祭壇へ

〈天の祭壇〉。

 エンハンブレ共和国とドミヌス王国の国境線にある山脈の一つ、霊峰ウェルテクスの頂の名前だ。

 その昔、竜たちの休憩所として、多くの竜が目撃された場所でもある。


「クィー、あんまり早く行かないでくださいーっ」

「くきゅ?」


 二人のやり取りに、視線を上げる。

 木の幹も岩も苔むした、深く色濃い緑で覆われた森の中、羽ばたいて先行しているクィーをフリアが懸命に追いかけている。

 人の丈もある大きな岩を軽やかに跳躍して乗り越え、クィーの前に着地するフリア。


「急ぎたくなる気持ちもわかりますが、一人で先に行っちゃうと迷子になってしまうのですよ?」

「くーきゅ」

「わかったのならよろしいのです」

「くきゅ!」


 二人の間に笑みがこぼれる。

 木漏れ日の中、トーリはまぶしそうに琥珀色の瞳を細めた。

 フリアにとって、トーリが竜と契約を結ぶことに意味があるのだろう。

 フリアはそれでいいと思う。

 だが、トーリは――

 と、音もなく忍び寄る何者かの気配に、ぴく、とトーリは耳をそばだてた。はー、と、これ見よがしに、ため息をつく。


「あーのーさーあー」


 半眼でくるりと振り返り、右斜め後ろの幹に指を突きつける。


「攻撃しないで後をつけられるのが一番神経使うんだけど!?」


 はっとフリアがクィーを抱きしめ、トーリと同じ方を見やる。

 青々と葉が茂る梢の下、太った幹の後ろから姿を現したのは、銀色の髪をしっぽのように束ねた黒いジャケットの青年だった。

 刃のように鋭いエメラルドの瞳は、心底不思議そうだ。


「なんでバレたんだ」

「ブライヤー、意外と気配消すのへたくそだよね!?」

「俺の完璧な尾行テクニックが見破られるとは。……なるほど、ただのバカじゃないってか」

「くきゅ」


 フリアの腕の中のクィーがなぜか得意げにうなずく。


「二人ともそんなにおれのことバカにしたいわけぇ!?」

「バカにしたいんじゃなくてバカだと心の底から思ってる」

「ほんっと失礼だよね!?」

「ってか、まーだ、諦めてねぇのかよ」

 

 ほとほとあきれたように話題を変えてくるブライヤー。


「とっとと、お家に帰ればいいものの、なんでそうしないかねぇ」

「そういうそっちこそ、悪役だとか名乗りながら中途半端じゃないか」

「お?」

「本気で邪魔したいんなら、命を奪うなりなんなりすればいいだろ」


 トーリは、殺す、という言葉が好きではない。

 口にするのも抵抗がある。別の言葉に言い換えたところで意味に大差はないが、それでも使いたくない言葉を使わない自由ぐらいあっていいはずだ。子供っぽいヘリクツにも思えたが。


「だから、命まで取るほどのことじゃねぇんだよ。諦めたり失敗してくれりゃそれでいい」


 ぼりぼりと面倒そうに頭をかく姿は、どう見ても気乗りしない者のそれだ。


「なんで?」

「さーて、当ててみな」


 にっ、と挑発的な笑み。


「そろそろ力づくでってなる前に、諦めてくんねぇかな」


 両手を広げて提案するブライヤーの調子はどこまでも軽い。

 フリアはクィーと一緒になって、つーんとそっぽを向いている。聞く耳持たず、と言わんばかり。取り合う気は最初からないらしい。


「……諦めて欲しい理由を言ってくれたら、ちょっと考えるかもしれない」

「お?」

「トーリさん?」


 フリアの顔には不満の色がありありと浮かんでいる。

 応えず、トーリはブライヤーをまっすぐに見る。

 不思議なことに、ブライヤーと対峙してからというもの、トーリの思考は黒から白に転じるようにすっかり冷静になっていた。

 ブライヤーが顔から笑みを消した。真面目な顔で言ってくる。


「……この契約は失敗するからだ」

「竜を説得するのが難しいってことはわかってるつもりだよ。だから、フリアやブライヤーも、うまくいくわけがないって、失敗するって、そう言うんだろ」

「違う。俺のような第三者の介入で失敗させられてるんだ。ずっと」

「……え?」


 我知らず、半開きになったトーリの口からぼう然とした声が落ちる。

 口を挟んだのはフリアだった。


「竜が人を見限ったからではないのですか? だからもう何年も――」

「偶然ってのは山ほどある。だが、そう続くもんじゃねぇのさ」

「なんのために……?」

「都合が悪いからさ。少なくともエンハンブレ共和国にとってはな」


 区切って、ブライヤーは手を伸ばした。謳う。


「世のため人のため誰かのためなら、奇跡さえも起こす万能の秘術――魔法。かつて、その大いなる力と秩序で人々をこの大陸を統治したオルドヌング王族。すなわち、オルドヌング王朝」


 いきなり吟遊詩人のような語り口で語りだしたブライヤーを、トーリは怪訝な目で見る。


「黄金時代。当時、真法まほうと呼ばれていた力は、王子が人を殺めたことで災いの力へと反転。そして、暴走。その後、ある組織を中心に王子を討伐した。この一連の出来事を〈イドの解錠〉と呼び、その後――」

「その後、ドミヌス王国の王政を否定するエンハンブレ共和国が誕生。土地と資源の確保、そして政治的思想の対立から、エンハンブレ共和国はオルドヌング王族を王とするドミヌス王国と戦争状態へ陥る」


 引き継いだのは、無表情のフリアだった。

 ブライヤーは一つうなずいた。続ける。


「王子を討伐するために一役買った組織はマセラ中立国と名を変え、ドミヌス王国とエンハンブレ共和国の戦争を仲裁、および調停。戦争の火種とも呼べるオルドヌング族を保護・・した」


 保護、の部分に反応してフリアが目を眇める。だが、彼女はぐっと押し殺した声で説明を引き継ぐ。


「アファナシエフ家やローゼンハイン家を含めた王室に連なる家は島流し。王の直系と、ユレンシェーナ家、マキラ家は貴族連盟に今も管理されている」

「ま、島流しっつっても、流れ着く島がなけりゃあ、事実上の死刑だな」


 あっけらかんと片手を上げて、ブライヤー。話はそこでおしまいらしい。

 話の流れがわからず、トーリは食らいついた。


「歴史の話を繰り返したところで、一体何の関係が――」

「オルドヌング王朝を想起させるような強大な力を持つ存在が生まれるのを、どっちの国も許すわけねぇんだよ」

「でも海上都市ヴェール・ド・マーレには竜がいた!」

「マセラ永世中立国の後ろ盾があるからだ」


 鋭く封じられる。


「あと、子供の竜ぐらいならバーラエナ 級攻城戦術兵器でどうにかなるからな」


 バーラエナ級攻城戦術兵器――マセラ永世中立国が保有する、戦争調停に使われた殲滅兵器。

 それよりも、トーリが引っかかったのは別の部分だった。


「子供……?」

「大人の竜が本気出せば、あのぐらいの都市なんて十数秒で消滅するに決まってんだろーが」


 嘲笑うようにブライヤーが鼻を鳴らす。


「〈竜の里〉の人間にしろ、オルドヌング族にしろ、今更、一族を皆殺しというのも体裁が悪い。だから、ひっそりと表に出ることもなく、だからといって殺すことはせず、うまく利用しつつ、歴史からフェードアウトしていただこう。そういう戦法さ」

「おれたちは何もしていない!」

「そうだな。そいつについては俺も同意見だ」

「なら!」

「平穏な統治にとって邪魔――理由はそれだけで十分だよ。為政者からすればな」


 ぐっとトーリの拳が強く握りしめられる。


「困ったことにそこにいるだけで、何かを脅かす存在というのは往々にしているもんなんだよなあ。当人からすれば理不尽な話だろうけどな」


 他人事のように言ってくるブライヤー。


「でも、たまにいるんだよ。お前みたいなのが。竜と再契約を結ぼうって言い出すやつが」

「つまり、この話は竜の側にもひっそりと伝わっていて、竜も〈竜の里〉の人間と出会うことがあっても契約をしようとしない。不干渉というお互いの平和・・のために。……そういうことですか」


 フリアがひどく落ち着いた様子でまとめる。

 ブライヤーはうなずいた。


「竜は生まれて物心ついたあたりから知ってるし、〈竜の里〉は確か成人の日の後、一度、里の外に放り出されて里に帰ってきた後、里長から話を聞くと聞いている。お目付け役の方は……」

「わたしのことは今どうでもいいでしょう」


 すねたようにフリアが遮る。

 ブライヤーがやれやれと苦笑した。


「お前を送り出した母親もセトサンとやらも、みんなグルになってお前の失敗を望んでんだよ」

「違う!」


 大声で否定し、ぐっと溢れ出しそうになる感情を押し殺す。


「セトさんは……! 母さんだって――だって母さんは!」


 お父さんは、立派に――

 言葉を失って、トーリはそのまま黙り込んだ。

 と、トーリの前に進み出たのはフリアだった。


「待ってくださいブライヤーさん。偶然は続かない。その言葉が本当なら、全員が全員、あなたのような人に邪魔されて失敗したとは思えません。また、竜の中にも、契約を拒まないものもいたはず」

「食らいつくねえ、お目付け役。そうさ、アタリだぜ」

「なら、竜と共に〈天の祭壇〉へ行けた人もいたのでは。そこに至った人は一体――」


 どこへ、というフリアの言葉は続かなかった。息を飲み、緊張の面持ちでブライヤーを見ている。

 ブライヤーは普段の軽薄さが嘘のような静かさで答えてきた。


「契約する前に、契約者がいなくなれば、契約はできねぇだろ?」

「……まさか」


 気づいたように、ゆっくりとトーリは目を見開いた。


 ――立派に、〈竜の民〉として最期まで生きたのよ。

 ――むしろ、あっちの方から交渉を切ってきたから、俺がこういう手段に出てんだけどねぇ。


「お前――!」


 瞬間、頭が沸騰した。

 反射的に剣を引き抜き、トーリはブライヤーへ襲い掛かった。


「トーリさん!」


 フリアの制止の声にも構わず、トーリは剣をブライヤーの逆袈裟めがけて振り下ろし――直前、ブライヤーを覆う球体の盾に防がれる。


「ぐ…ぅ…ッ!」


 剣と接触した部分が、勢いよく火花を散らす。


「お?」


 ブライヤーの意外そうな声。しかし、彼は動揺した様子もなく、トーリをゆっくりと指さした。

 あわせて、無数の白い光球が次々とブライヤーの周囲に浮かぶ。光球から、バヂィッと鋭い電気音。

 反射的にトーリはブレスレットにはめ込まれた法石に触れた。同時、後方へ飛ぶ。

 間髪入れず、光球が残像を残しながら、ありとあらゆる角度から迫ってくる。

 自分の法石を扱う技量では、一枚の魔法の盾で防げない。

 そう判断を下し、トーリは前へ突き進む。

 右へ左へ。防ぎきれない光球は法石の魔法で相殺――しきれず、灼熱が頬をかすめる。とっさの痛みに顔を歪め、それでも構わずトーリは足を踏み出す。

 迫るトーリから逃れようと、ブライヤーが後方へ跳躍。直前、足元、木の根にかかとをひっかけ、背中から苔むした地面へ倒れ込む。


「おあ?」


 その無防備な姿がさらされた瞬間、トーリはブライヤーの上に飛び乗った。剣の柄を両手で握り直し、切っ先を上から振り下ろす。

 一瞬の交錯。


「トーリさん——!」


 鳥が、一斉に羽ばたいた。

 にぃ、とブライヤーの口元は、毒蛇のような笑みで歪んでいる。

 トーリの剣の切っ先は、ブライヤーの喉元で止まっていた。皮一枚、食い込むかの瀬戸際。

 トーリに組み敷かれたブライヤーが聞いてくる。その表情は余裕すら含んでいた。


「どうした? 殺すつもりじゃなかったのか?」

「……っ」

「怯んだか?」

「違う!」


 強い否定。

 お?とブライヤーが目を見張る。

 蚊の鳴くような声をトーリは喉の奥から絞り出した。


「だって、あんたにも…家族とか友達が…いるんだろ……?」


 予想していなかった答えだったのだろう。ブライヤーが目を丸くした。

 この男を殺したら、誰か泣く人がいるかもしれない。

 自分がこの男に対して向けた怒りは、行動は、全ては、目の前の男に及ぶだけにとどまらず、この男と繋がっている第三者にも波及する。

 それが、どうしてもトーリには耐えられなかった。

 母の胸を裂くほど悲しい慟哭を、トーリは今も覚えている。

 知らない誰かに、どうしてあんな顔をさせられるだろう。


「……優しいな、お前は」


 エメラルドグリーンの刃を細めるブライヤーの表情は慈愛に満ちていた。

 憐みから手を差し伸べるように、ブライヤーがトーリの頬に手を伸ばした。


「その優しさがお前を殺す」


 はっと気づいた時には遅い。

 頬に寄せられたブライヤーの手の平に、白い光が収束している。感じる熱量と圧力に、ぞわりと背筋が粟立った。首が飛ぶと確信するほど強い力。

 まずい、とブライヤーから離れようと身体を動かすも、間に合わない。両腕を顔の前でクロスさせようとし——

 がぎぃん!と水晶を砕く甲高い音と衝撃。

 ブライヤーの手に収束した光が、衝撃と共に鏡のように砕け散っていた。


「おいおい……マジかよ」


 ざっと、地を踏みしめる音にトーリは肩越しに背後を振り返った。

 フリアがそこにいた。泣いても笑ってもいない、最初から感情なんてなかったような無表情で。

 無言で立っている白い少女から、空怖ろしいほどの圧力を感じてトーリは口をつぐんでいた。

 大地が、揺れている。

 地震でもないのに、大地が、岩が、怯えたように震える光景は異様であり、それだけにフリアから寄せられる威圧感の強さを物語っている。

 ブライヤーが苦い笑いを含みながらフリアを見やった。先ほどと異なり、表情に余裕はない。


「ほんっと、こと守りにおいては凶悪的な強さだな」

「あなたがトーリさんを殺す気で力を振るうなら、わたしも同等の力で防ぐことができる。当然、ご存知ですよね」

「さすがは魔法。いや、これこそ真法っていうべきか?」


 フリアは答えない。

 パールグレイの瞳がエメラルドグリーンの刃を射竦める。


「だがな――」


 そうブライヤーが口走った瞬間、ふっと、トーリの下にあったブライヤーの身体の感触が消え失せる。


「フリア!」

「自分のために使おうとすると、威力が落ちるっていう致命的な弱点があるんだぜ?」


 トーリが叫んだ時には、遅い。

 フリアの目の前に現れたブライヤーが、振り上げた手に収束した力をフリアめがけて叩きつける。

 くっ、と苦しげにうめいたフリアが半透明の光の盾でブライヤーの一撃を防ぎ――きれなかった。衝撃を殺しきれず、フリアの小柄な身体が森の中を転がる。


「フリア――ッ!」

「正当防衛の範囲でしか自分を守れねぇ力なんて、何のための力なのやら」


 フリアがせき込みながら手を突いて身体を起こそうとする。


「魔法の力は…っ、自分のために…、私利私欲を目的として使われるべきものではありません!」

「頑ななだな。そいつ守ったその真法とやらだって、巡り巡ってお前のためになってるだろうが。そいつが死ななくてお前だってよかっただろ?」

「……!?」

「全ては巡り、繋がり、回帰する。そいつが俺のカゾクとかトモダチとかを憂慮して殺すのをためらったように」


 ブライヤーがフリアの方へ歩き出す。


「魔法が世のため人のため誰かのため? 私利私欲を目的として使われるものじゃない? 違うね。魔法が一体なんなのか、他でもないお前が考えるのを放棄してるんじゃねぇよ」

「くきゅ」


 唐突なクィーの鳴き声。

 勘付いたブライヤーが背後を振り返った。

 ブライヤーの足元付近。トーリが自身の間合いまであと一歩というところまで、迫っている。


「だーからお前もお前で俺を殺せねぇくせに、そういうことすっかね!?」

「ぐあッ!」


 いらだたしげにブライヤーが白い手を横に一振り。

 たったそれだけで、すさまじい衝撃波が生まれ、周囲の木々が余波で激しくざわめく。

 トーリは衝撃波に吹き飛ばされる途中、法石の力で空中にフィールドを生成。手を突き、ぎりぎりのところで受け身を取ることに成功。着地と同時、剣を大地に突き刺して、それ以上吹き飛ばされるのを防ぐ。


「トーリさん!」

「うっぜぇな、マジで」


 トーリは剣を大地に刺し、片膝をついた。ブライヤーをこの上なく強く睨みつける。

 対し、エメラルドグリーンの刃はひどく静謐だ。


「どっちも堕ちる覚悟ができたら来いよ。――その時は全力で相手してやる」

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