十一唱 夜明け

 ひんやりとした湿り気のある空気が満ちていた。

 強固な石造りの牢屋の中、トーリは膝を抱えてうずくまっていた。

 フリアはトーリの向かいの壁に背を預けて座っている。フリアの膝の上で眠っているクィーの毛並を整えるように撫でていた。

 竜は既に島の外へ飛び立った後。

 牢屋に連れてこられてからどのぐらいの時間が経過したのか——一時間も経過していないと思うのだが、時計もなければ窓もないここでは正確な時刻はわからない。

 海上都市ヴェール・ド・マーレに加護を与えていた竜を無断で逃がしたトーリたちは、間違いなく処罰されるだろう。国外の故郷にいる母親にも被害が及ぶのは容易に想像がついた。

 すっかり旅を続けるどころではなくなってしまった。

 この先訪れるであろう、暗く沈んだ未来を想像し、心は一層重くなるばかり。

 沈黙だけが過ぎる中、トーリは喉を震わせた。意を決して声にする。


「……おれ、が」

「え?」


 不意のことに顔を上げるフリア。

 その目を、トーリは見返すことができなかった。


「ごめん、おれのせいでこんなことに……」

「そんな……いいえ、私の方こそすみません」

「フリアが謝ることじゃないよ」

「違うんです。わたしが、わたしがあのとき――」


 口を開いたまま、フリアの声が固まる。

 吐息は、紡がれずに霧散した。

 代わりに。


「……ごめんなさい」


 沈鬱な面持ちで、フリア。

 いつにないほど沈んだ表情に、トーリが思っている理由とは異なる理由でフリアが謝っていることを察する。

 だが、その理由を問いただせるほどの気力もなく、トーリは顔を虚空へ向けた。

 重苦しい色の牢屋の天井があるだけで、空は見えない。


「町……どうなったかな」


 こんなつもりじゃなかった。

 愚痴のような言い訳が口の端から落ちそうになる。


 ――虐げられた者に、道徳を望むというのは高慢ってやつなんだぜ?


 声がよみがえる。永遠を閉じ込めたように美しい森に落ちていった、ブライヤーの声が。


 ――以前のような関係には、もう戻れないということです。


 寂しげなパールグレイの色がまぶたの裏に閃く。


 たとえお互いの関係に亀裂が生じたとしても、修復することができる。

 そのことを諦めたくないのはトーリの本心で、信念だ。

 その一方で、今まで考えたことがなかったのだ。

 自分を傷つけた人から差し出された手を、相手がどんな思いでそれを見るかなんて。

 ……バカだおれ。

 ぎゅっと膝を抱えて、トーリは口の中でつぶやいた。





 小刻みに息を何度も吸うような音に、フリアは目覚めた。

 いつの間にか眠ってしまったらしい。

 目を薄っすらと開けば、ひんやりとした石の床に寝転がっているトーリが、息苦しそうに浅い息を繰り返している。


「トーリさん……!?」


 膝の上のクィーが転がり落ちるにも構わず、トーリへと駆け寄り、呼びかける。


「しっかりしてください…っ」


 横を向いている少年を仰向けに寝かせ、額に手をやる。手は湯のように熱い。

 フリアは慌てて立ち上がるなり声を張り上げる。


「誰か! 誰かいませんか!?」


 鉄格子を握りしめ、人気のない通路に向かって叫ぶ。

 だが、反響した声は石に吸い込まれるように奥に消えていくばかり。


「トーリさんの具合が悪いのです! お願いですから誰か来てください――!」


 しぃんと無情な無音が返される。

 フリアは己の手を見やった。白いグローブで覆われた小さな手。


 ――いいかい、フリア。魔法で人を傷つけてはいけないよ。


 耳元で、しわがれた祖母の声が繰り返される。


 ――魔法で人を殺めることがあれば、そのときお前は――


 衛士たちに取り押さえられた時、フリアは魔法で全員吹き飛ばすことはできた。

 だが、しなかった。できなかった。

 誰かを傷つける恐怖に竦んだのではない。


「お願い……誰か……」


 力なく、フリアはずるずると座り込んだ。


「誰かトーリさんを……助けて……」


 すがるように鉄格子を握りしめたフリアの唇から、か細い声がこぼれ落ちた。

 すっと、前触れもなくフリアの目の前に影が踊る。

 暗くなった視界に気づいたフリアが顔を上げれば、松明の灯りを背後に、銀色の髪を束ねた青年が立っているのが見えた。


「ブライヤーさん……?」


 フリアを見下ろすエメラルドグリーンの刃を見つめながら、その名をつぶやく。

 ブライヤーはフリアの疑問に答えず、牢屋の中にいるトーリとクィーを一瞥した。じゃらりと鳴る鍵を黒いジャケットから取り出し、無言で扉を開いた後、あごでうながす。


「出ろ」

「出ろって……」


 突然のことにぼう然としていれば、ブライヤーはさっさと牢屋内に入ってきた。

 トーリの傍らにしゃがみ、その額に手を当て、露骨に顔をしかめる。


「ったく、体調管理もまともにできねぇガキが……」


 ぶつくさ言いながら、ブライヤーがトーリを背中に背負う。

 そのまま当たり前のように牢屋から出るブライヤーを、クィーが追う。翼をぱたぱたと動かしながら、くぅーきゅー、とのんきな鳴き声を上げながら。

 途中、ブライヤーが肩越しに振り返ってきた。


「何ぼさっとしてんだよ。さっさと逃げるぞ」

「は、はい……っ」


 言われた通り、フリアは牢屋を出た。

 格子扉の牢屋が並ぶ通路をフリアとブライヤーは無言で歩いていた。

 牢屋には誰も捕まっていない。空っぽだ。今は囚人を捕える目的で使われていないのだろう。この城が刑務所や裁判機関としての役割を持っていた頃の名残。

 歩いている途中、不思議に思ってフリアは尋ねる。


「あの、どうして助けてくれたのですか…?」

「お前らを助けたわけじゃない」


 淡々と言ってから、ブライヤーが正面の奥、突き当りの通路を見た。


「……上は、見張りがいるか。荷物抱えたまま立ち回るのは分が悪いな」


 荷物、という言葉に、むぅとフリアが閉口する。

 こっちへ来い、と言われるがままブライヤーの後に続き、来た道を引き返す。

 たどり着いたのは、行き止まりだった。


「……何をしているのですか?」


 薄っすらと色が違う四角い石が交互に組まれた壁をぺたぺたと触るブライヤー。

 時々、壁に耳を当てたり、叩いたりして確認した後、うなずく。


「あった」


 ブライヤーが一つの石を押した。押された石が奥に引っ込む。

 続いて、押し込まれた石の周辺にある石を順番に押し込んでいく。

 音を立てて現れたのは、隠し通路。


「この通り、ってな」

「道……? どうして……」

「古今東西、為政者の地下には脱出のための通路があるってのは定番だろ」

「それはそうですけど」

「この建物は町の中央にあるからな。なら、どうしたって逃げ道は地下に作るしかねぇだろ」


 そのぐらいの知識はフリアにもあるし見当もつく。


「そうではなく、なぜこの隠し通路を開く方法を、ブライヤーさんが知ってるんですか?」

「さてな」


 はぐらかされた。フリアが眉根を寄せる。


「そもそも、この地下にどうして転移できるんですか。ここの館に張られている結界は、。あなたの魔法の力が反転していたとしても」

「なら、お前は、その戒魔士では突破できないものをどうにかできるってことを、そいつは知ってるのか?」

「……っ」


 フリアは返答に窮した。言い返そうと吐き出しかけた声を殺す。

 ブライヤーに背負われているトーリは意識を失ったまま、目を覚ます気配がない。


「のんびりしてる暇もねぇ。さっさと行くぞ。それとも一人置いてかれてぇか?」

「……それは」


 フリアが言いよどめば、ブライヤーがからかうように、にぃと口の端を釣り上げた。


「メルクマール様といちゃいちゃしてたみてぇだし、お前一人なら、かわいがってもらえんじゃね?」

「くぅきゅ?」

「な……っ、あなたどこで見てたんですか!」

「見てねぇよ。尾行してたみたいな言い方しやがって」

「なら、なぜあの宿屋にいたのですか。偶然みたいな顔してましたけど」

「昔ヴェール・ド・マーレに遊びに来た時、あそこに泊って飯がうまかったからだっての」

「そんなの信用できませんっ」


 はーっ、とほとほと面倒そうな溜息。


「信用できねぇのはいいけどよ、来るわけ来ないわけ? こっちはくだらないガキの問答に付き合ってられるほど時間ねぇんだけど」

「……行きます」

「よろしい」


 満足そうにうなずいたブライヤーが、光よ、と唱えた。

 球体の光明がぽう、と浮かび、闇を吸い込んだ真っ暗な空間を照らし上げる。

 階段を一段一段下りていく度に、濃い潮の匂いが増す。

 階段を下り切った先にはアーチ状の通路が広がっていた。

 出口の見えない通路の先を見据え、ブライヤーはよどみのない足取りで進んでいく。

 クィーといえば、どういうわけか、ブライヤーの頭の上にちょこんと座ったまま動こうとしない。いつもはフリアの傍にいてくれるのに。

 フリアは無言でぎゅっと胸のペンダントを握りしめた。何も紋章が浮かんでいないガラスのようなペンダント。


 出口付近についたら――


 フリアは胸中でつぶやく。

 後ろからブライヤーに奇襲をしかけて、気絶させて。

 地下通路がどこまで続いているかわからないが、海上都市ヴェール・ド・マーレから逃げ出して地上に出れば、どうにでもなる。意識のないトーリを魔法で運ぶことなんてフリアには造作もない。

 そう、誰かを傷つけるような攻撃的な魔法を使わずとも、フリアが本気を出せばブライヤー一人、取り押さえることぐらい――

 と、そこまで考えかけたところで、クィーのエメラルドグリーン色の瞳とかち合う。

 クィーは鳴かずにフリアをまっすぐに見ていた。

 何か居心地の悪さに、胸が締め付けられるような思いがする。

 結局、フリアはブライヤーに手を出すことなく、出口までたどり着いた。

 長い梯子を上り、地下通路から地上へ出れば緑と土に覆われた丘が周囲に広がっていた。


「夜明け……」


 ちょうど朝日が昇る時刻のようだった。

 水面が明るくなり、水平線から太陽が昇る。

 世界が生まれ変わるような美しい景色に、フリアは目を細めた。

 朝の白んだ空気の中、氷で食い荒らされた憐れな海上都市の姿が、遠目に見える。

 青竜の氷の息吹は、ただの氷ではない。融解するまで、時間がかかるだろう。


「南下したところにある波止場町に向かうぞ」


 ブライヤーの言葉に、フリアはうなずくことしかできなかった。

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