二唱 ボートの上で、キャットファイト

 海上都市ヴェール・ド・マーレへ向かうボートの上。

 海を二つに切るように、ボートは島へ向かっていく。しなやかな水は、すーっと吸い込まれそうなほど透き通ったエメラルドグリーン色。

 デニムジャケットのすそを海風にはためせながら、トーリはボートの手すりから身を乗り出していた。


「トーリさん、落っこちないでくださいね?」

「だいじょーぶだいじょーぶ」


 ペンキを塗った手すりに捕まりながら、調子に乗って首をひねらせる。

 斜め後ろのフリアといえば、まゆをハの字に下げて、困り顔にも見える心配顔。

 フリアの肩にいるクィーといえば、くあ、とあくびをかきながら退屈顔。

 その奥、色とりどりの日傘の花が咲き乱れる中、ぽっかりと浮かぶように小柄な老婆がちょこちょこと歩いているのが目に入った。


「うん……?」


 思わず視線で追いかける。

 薄いワンピースに日よけのストールを巻いた老婆は、ちょうどトーリたちの隣、大人二人分の距離を空けたボートの端にやってきた。

 おもむろにバッグから取り出した釣り糸を垂らし、パンくずを、ぱっ、ぱっ。パンくずにつられてやって来た小魚たちを、あれよあれよと慣れた手つきで釣り上げる。

 ほほー、と感心しながら、トーリは透明な袋の中でぴちぴちと跳ねる魚を見た。


「フリアあれできる?」

「もちろんですとも」


 何やら自信たっぷりにフリアはうなずいた。


「魔法を使えばそんなの簡単です」

「それダメじゃん!」

「うっ」

「慣れれば簡単なのよ」


 潮のにおいの中、ほほ笑みの香りが混じる。

 魚を釣っていた老婆が、トーリたちの方を見てにこりと笑っていた。


「あ、すみません…っ」

「いいのよ。仲がいいのね。お友達かしら?」

「え?」

「ええ、家が近所で幼なじみなんです」

「えっ?」

「あらまあ、いいわねえ。今日は二人でお出かけかしら?」

「そうなんです。おばあさまも、海上都市ヴェール・ド・マーレへ観光へ?」

「いいえ、私はこれから帰るのところなのよ」


 沖合いだと、いい魚が獲れてねえ。帰り際に、少し釣っていくのよ。

 そんなことをこぼしながら、フリアと話を弾ませる老婆。トーリが口を挟む暇もなく、あれよあれよと話題はまさに沖合へ。

 ここはフリアに任せてクィーと遊んでようかな、と思って、ちらりとクィーを見やれば、フリアの肩にいたはずの白い生き物の姿がない。すばやい。


「実はわたしたち、海上都市ヴェール・ド・マーレへ行くのは初めてなのです」

「そうなの? ようこそ、海の玄関口へ。ぜひとも楽しんでいってちょうだいね」

「ありがとうございます。ところで、あそこには竜がいる、という話を聞いたのですが……」


 老婆は鷹揚おうようにうなずいた。


「ええ、あそこには竜神様がいらっしゃるわよ」

「……人と一緒に暮らす竜がいるんだ」


 それを聞いたトーリの表情が自然と輝く。

 胸の奥からゆっくりと沸き上がってくるのは、希望のようなもの。


「フリア、聞いた!? 竜と生活してる人がいるんだって!」

「え? ええ……」


 だが、フリアはパールグレイの瞳をぱちくりさせるだけだ。それから、ふと視線を落として考え込む。


「でも、あそこに契約魔法を使える人間はいないはず……」

「けいやくまほう?」

「な、なんでもありません。よかったじゃないですか。もしかしたら、竜と契約をしてる人から、詳しい話が聞けるかもしれませんよ」

「契約?」


 初めて聞く言葉のように、老婆。

 トーリはなんとなく無表情で答えていた。


「……その昔、〈天の祭壇〉で竜と人が結んだ契約。契約によって竜は人に力を分け与え、人は知恵を竜に分け与えた、っていう」


 なんとも言えない複雑な苦笑が老婆から返される。


「その話は知ってるわ。でも、竜神さまと契約なんていうのは、おこがましいかしらね」

「おこ……? なにそれ」


 意味がわからず、トーリが首を傾げる。

 こそっとフリアが耳打ちしてきた。


「身のほど知らずとか、生意気とかそういう意味です」

「ああ、なるほど」


 ぽん、と手をトーリが打つ。打ってから、意味を図りかねたように聞き返していた。


「って、それってどういうこと?」

「契約なんて、一介の人間がするには恐れ多すぎるもの」


 そう言って老婆は、一点の曇りもない完璧な青空を見た。まるでそこに竜がいて、そのままひざをついて、祈りをささげそうな崇敬の眼差し。


「竜神様を崇め、その恵みに感謝する。その心を忘れないからこそ、竜神様は私たちに慈悲を与えてくださるの。日照りが続く日には、雨の恵みをくださり、曇天が続けば青天を見せてくださったり、ね」

「あれ? でも竜ってそういう偶像――ふご」


 フリアに背後から口を両手でふさがれる。

 ふごふご、と口の中で文句を言うも、フリアは気にした風もなく老婆と話を続ける。


「その竜と人の橋渡しをしたのが、もしかして、海上都市を統治していらっしゃる領主様の祖先なのですか?」

「ええ、シャルセディオ家。現領主はメルクマール様よ。先代亡き後、まだお若いのによく統治してくださってるの」


 ふんわりと目元を優しく細めて、老婆がほほ笑む。


「町の人にも目をかけてくださってくださるし、定期的な町の視察なんてご自身でされていらっしゃるのよ」

「領主様自らがですか?」

「そうね。好きでやっていらっしゃるのでしょうね。運が良ければ、お会いできるかもしれないわね。穏やかなお人柄ですもの」


 その後も、フリアと他愛のない話を一つ二つ。

 やがて、老婆が、ここは日差しが強くて、私みたいなおばあちゃんにはつらいわねえ、と言い出したところで、その場はお開きとなった。

 さんさんとした陽の光を避けるように、ボートの影へ行く老婆を見送る。

 フリアがゆっくりとトーリの口から手を外した。

 ぷは、と新鮮な空気を吸った後、トーリはむくれてみせる。


「……竜神信仰ってとっくの昔に廃れたはずなんですけど」

「竜たち自らによって禁止されましたからね。その辺りは、〈竜の民〉であるトーリさんの方が詳しいんじゃないんですか?」

「一説には、竜がいなくなったのは、いつまで経っても神様扱いする人間に嫌気がさしてーっていう話もあったかな」


 竜がこのヴェルシエル大陸から姿を消した理由は、諸説ある。

 諸説あるものの、どの説も身勝手な人間を見限ったという結論にたどり着くのは一緒だ。


「人は、竜の力を竜が望まない形で使わないと誓うも、何度も同じ過ちを繰り返した」

「そうしていつしか、竜は姿を消した……」


 聞けば聞くほど、ありふれたおとぎ話だ。

 どちらからともなく言い合った後、トーリは戸惑うような心地でつぶやいた。


「じゃあ、なんで……」

「国が違えば、そこに住む人の在り方も違う。ここはドミヌス王国ではなく、エンハンブレ共和国ですから」

「でも、竜も人も、住んでる存在は一緒だ」

「そう……ですね。そうだったら良かったですね」


 フリアはそう言って遠い目をする。ここではないどこかを見つめる目。

 フリアは自分のことを語りたがらない。どうしてセトに頼まれたフリをして、トーリの旅に付きあっているのかも、未だわからずじまいだ。

 と、そこで唐突な思いつきのように、トーリは人差し指を立てた。


「あ、なら、竜の考え方が変わったとか?」

「どういう風に?」

「竜神信仰をありにしたとか?」


 がぶり。

 なぜか、クィーがトーリの指にかみついた。


「いってぇ!?」

「くーきゅくーきゅ」

「ばーかばーかって言っただろ今!」

「あ、すごいです。トーリさん、よくわかりましたね」

「あからさますぎるだろこれ!」

「クィー、これからはもう少しわかりづらく馬鹿にするんですよ?」

「くきゅ!」

「どういう教育の仕方!? って、フリア、ずっと気になってたんだけど、クィーの言ってることわかるの?」

「え? ええ、なんとなく頭に伝わってくるというか……。むしろ、トーリさんこそわからないのですか?」

「わかるわけないだろ」


 がぶがぶ。


「うがー!」

「クィー、いくら相手がトーリさんといえど、そんなかみつくのはお行儀が悪いですよ」

「くーきゅ、くっきゅきゅくー」

「え?」

「くーきゅ?」

「……いえ、そんなことは」

「きゅー、くきゅーくー」

「た、ぶん……?」

「きゅー?」

「……」


 ついにフリアが黙り込んだ。

 フリアが、いやまさか、という目でトーリを見た。今の今までそんなこと考えたこともなかった、というにわかには信じがたい様子。


「でも、そういう茶番めいたオチがついたら、わたしは泣きたくなるのを通り越して笑いたくなるんですけど、クィー?」

「くきゅう? くーきゅきゅ。くきゅーきゅー」

「ああもう、さっきからなんの話をしてるんだよ!」


 かき分けるように一人と一匹の間に割って入る。

 ごにょごにょと自身の指先をいじるフリアは、わかりやすいほどトーリと目を合わせようとしない。


「えぇと、トーリさんを応援してる、みたいな……?」

「くきゅくきゅ。くきゅっきゅっきゅっ」

「クィーが何言ってるのかわかんないけど、なんかフリアの言ってることがウソっぽいってのはわかった」

「ぐぎゅ」

「わかりやすすぎなんだよっ」


 ぴしっ、と白くもふもふとした額を指先で弾く。


「きゅっ」


 クィーが目をつむりながら、小さくのけぞる。だが、すぐさまクィーは、きっ、とにひるむことなく軽いジャブを繰り出してきた。ぺしっ、と音を立てて、トーリの鼻先にヒット。


「あっ」


 トーリが驚いたような声を上げる。ジャブが当たった鼻を押さえながら。

 そのまま両者とも、しばし、じっとにらみ合い――


「ファイト」


 フリアのゴングと同時、トーリとクィーはボートの上を転がるように取っ組み合いのケンカを始めた。


「何をしているのですやら……」


 一人と一匹のケンカを止めもせず、あくびをかみ殺しながら、フリアはのんびりとボートの手すりに背を預けていた。





「って、何がファイトなんだよ!!」

「え?」


 クィーにかみつかれ、パンチを食らい、とどめに電気を帯びた白い火を吹かれ、あちこちぼろぼろになったトーリが、フリアにつめ寄る。

 ぜーはーと息を切らすトーリに、フリアは、のほほんとした顔で瞬き一つ。


「何のことですか?」

「何のことですか? じゃないよ!」


 ケンカの勝者であるクィーといえば、既にフリアの肩の上。ごろごろと猫のようにのどを鳴らしながら、フリアになでられている。こうも満足そうな顔をされては、脱力しかない。


「もういいや……」

「ああ、そうでした、トーリさん。ちょっと考えていたのですが、変わったというのであれば、竜が自ら望んで都市にいる可能性もあるのでは?」

「え?」

「別に〈竜の民〉と契約をしなくたって、どこに竜が住むのは勝手でしょう?」

「それは」


 言いかけて、そうだったらいいな、という憧憬。

 それなら、なぜセトはトーリを〈竜の里〉から出そうとしなかったのか、という疑問。

 あるいは、どうして、自分たちの前には姿を現してくれないのか、という小さな反発。


「そうでなければ、あるいは――」

「あるいは?」


 とたん、フリアの白い顔に、薄暗い、暗雲のようなものが垂れ込める。


「いえ……、これ以上はなんとも」


 フリアは浮かんだ考えを追い払うように、ふるりと首を横に振った。いつになく真剣な顔でトーリを見る。


「ただ、竜は〈竜の民〉以外の人と話せません。正確には、竜の声が聞こえない。それなら何をきっかけに、竜はあの島に住むことになったのでしょうか」

「昔話みたいに、ケガしてたところを助けてもらったとか?」


 はぁー、とフリアがクィーと一緒にため息をついた。息ぴったり。双子か何かか。


「……トーリさんみたいに世の中のすべての人の頭が単純だったらよかったのに」

「ほめてる? 馬鹿にしてる?」

「ほめてるってことにしておいてください」


 どうやらあきれているらしい。

 決まりが悪い心地で、トーリは反論した。


「そ、そんなこと言ったら、おれたちだってクィーとしゃべれないのに、仲良しじゃん。な、クィー」


 相変わらずフリアから離れることはほとんどないものの、トーリがそばにいても、クィーは隠れなくなった。

 だが、クィーは、つん、と主とそっくりのしぐさで、そっぽを向くだけだ。


「きゅっ」

「まだすねてんのかよ」

「仲良しなのと、意志の疎通ができるのはまた別なような……」

「くーきゅくーきゅ」

「ほんっと、お前わっかりやすいなあ!」

「お二人とも落ち着いて」


 どうどうと止める気があるのかないのか、適当に手を振るフリア。

 構わず、トーリは再びクィーとにらみ合う。

 クィーは一歩も引かない。エメラルドグリーン色の瞳を精一杯つり上げ、負けじとトーリをにらみつけている。

 やがて。


「ファイト」

「たぁっ!」

「くきゅっ!」


 べしっばしっ――

 一人と一匹が同時にお互いの顔面にフックを仕掛ける。

 二回目のじゃれ合いを、フリアが生暖かい目で見守る中。

 海の向こう、空を突き刺すように細く高く伸びた塔がシンボルのような島が。

 岸辺に張りつくように並ぶ、赤や黄、桃色といったカラフルな壁の家々が。

 海上都市ヴェール・ド・マーレが、目の鼻の先まで近づいていた。

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