嘘をつけない音

こむらさき

前編 雑居ビルと非常階段非常階段

「バカ!」


 気が付いたら駆けだしていた。

 夏の東京は湿度が高くて少し走るだけでも息苦しい。

 エレベーターのボタンを押す。けれど雑居ビルのエレベーターはなかなか来てくれない。

 これじゃ遥斗はるとが来るのを待ってますと言ってるみたいだ。


 意を決して非常階段の扉を開く。

 追いかけてきた彼に止められて言い訳をされるくらいなら、ここを下っていってしまおう。

 びゅうと吹いてくる生温かい風が最悪な気持ちに拍車を掛ける。


 バーテンダーとの恋なんてこんなもんだってわかってた。

 彼氏にしてはいけない職業とか、恋をしても不幸になる職業の代表格。

 好きになったときに、これは叶えてはいけない恋だと思ったし、冷静でいよう。そう思ったのに。


 カンカンとやかましい足音が響く。

 涙が出てきて、悔しくて、化粧が崩れるのも構わないで、腕でグイと目元を擦る。


 どうにでもなれ。

 あんなやつ信じるんじゃ無かった。

 

 遠くでいつもみたいにサイレンが鳴っている。

 二人で朝方みた時には綺麗だと感じたネオンも、今は苛立たしい。


「おねーさんどうしたのー?うちで飲んでくー?」


「うっさい!」


 座り込んでタバコを吸っている下の階にいたホストに声をかけられ、反射的に怒鳴っしまった。

 小さな声で「おおー」と驚かれながら見送られ、更に惨めな気持ちになる。


「待てって」


 捕まれた手を振り払う。

 聞き慣れた柔らかい声。少し骨張った長い指。

 後ろからホストたちが囃し立てる声が聞こえて、とても恥ずかしい。


憂希ゆうきさんってば」


 無視して階段を降りるけれど、彼はそのまま付いてくる。

 まだ営業中なんだし、早く店に戻ってよ。

 心の中でそんなことを思いながら、なんで私が店のことを心配してるんだって苦笑する。

 また溢れてきた涙を拭って、下り階段をまた一段降りようとした。

 ズッと滑って踵が僅かに滑る。

 ふわっと身体が一瞬浮いて、ああ、これは痛いな……と覚悟を決めたけれど、私の鳩尾辺りに回ってきた腕によって、身体がしっかり固定される。

 そのまま後ろから抱きしめられるようにして拘束される。

 ビルから出れば、彼も諦めてくれると思った。お店はまだ営業中だし、さっきいちゃついていた彼女のまだいることだし。

 もう少しで到着したであろう裏口を恨めしく見ていたら、身体をぐるりと180度回されて、逃げようとしていた原因と向かい合わせになる。


「放っておいてってば。体調が悪いから帰ろうとしただけ」


「体調が悪い人は、扉を開けて即バカって言わないでしょ。わからんけど」


 夜の仕事をしているからか、少し青白い彼の肌。

 笑ったときに見える牙みたいな上下の犬歯。

 涼しげな目元から覗く瞳は、赤みを帯びた褐色で、アッシュカラーの金髪と相まってなんだか本物の吸血鬼みたいに見える。

 彼は、腰を曲げながら眉を八の字にして俯いている私の顔を覗き込んだ。


「ほら、泣いてるじゃん」


「そうやって誰にでも優しくしないでよ」


 細くて長い、骨張った指で目元を拭おうとする彼の手を、叩き落とす。

 困った顔のままの彼は、小さく溜息を吐いた。


「信じてもらえないのはわかるけどさあ」


 がっしりと腰に腕を回されているので逃げるわけにもいかない。

 本気で振り払えば逃げられるかもしれない。でも、そこまでする勇気も決断力もなかった。


 彼が黒いスラックスからスマホを取り出して、耳に当てる。

 微かに漏れ聞こえる呼び出し音。

 しばらくして、女の人の声がそこから聞こえて胸が痛む。さっき店で抱き合っていた人は、困ったときに頼るような間柄の人なんだ。

 ポリアモリー?ってやつ?聞いたことがある。

 彼がたくさん彼女を作って、その全員を愛する人だとして、私にはそういうのは無理なのでやっぱり諦めよう。

 どう話そうか。でも、ちゃんと断れるかな。

 だって、今だって本気で怒れば彼は離してくれると思うのに、私は彼に止められることに甘んじている。

 意を決して非常階段を降りるなんてことをしたのに。


「はいはーい。じゃあよろしく」


 私が何を考えているのか知りもしないで、彼はスマホから耳を離す。にっこりと笑った彼に「帰るから、離して」と言おうとした。


「じゃあ、今日はデートしようか」


「は?」


 腰に巻いていた黒いサロンを外した彼は、私の手を取って近くの扉を開いてビルの中へ戻る。

 派手なドレスを纏っている女の人がひしめき合っているのをものともせず、グイと割り込んだ彼はエレベーターの登りボタンを押した。

 さっきはあんなに来なかったエレベーターがすぐに来てそれも腹立たしい。

 彼に肩を抱かれてそのままエレベーターに乗ると、さっきまで私がいた7Fのボタンを押される。


「ちょ、デートってどういうこと?」


「ちょっと開ボタン押してて」


 言われたとおりに開ボタンを押していると、非常口の横にある銀色の郵便受けの中に乱暴にサロンを突っ込んだ彼が笑顔で戻ってきた。


「じゃ、行こう」


「待ってそういうことじゃ」



 私の話を流しながら、彼はエレベーターに再び乗り込む。

 開ボタンを押していた私の手を握ると、彼は1F行きのボタンを押した。

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