街の噂~裏通り編~

丸尾坂下

事故物件

 この部屋はいわゆる事故物件だ。


 築十五年と年季の入ったアパートではあるが数年前にリフォームをかけたお陰で古臭さはそれ程感じない。とりわけ俺がいる201号室は住人が頻繁に変わるためクロスや水回りを新調する周期が早い。事実先月張り替えたばかりのクロスには傷らしい傷は見当たらず、風呂場にあるステンレスで出来た蛇口は俺の顔を映しこまんとばかりに輝きを放っている。


 最寄りの駅から徒歩十分。二階角部屋日当たり良好。洋室七畳一間にベランダ、ロフト付。トイレと風呂が別なのもポイントが高い。家賃は格安。事故物件と知っていても住みたいと思う人間は多いようだ。


 俺はシャワーの吹き出し口を浴槽に向け、おもむろに風呂場の蛇口を捻った。途端シャワーヘッドから水が噴き出し、浴槽に若干の水たまりを作りながら勢いよく排水口に吸い込まれていく。そのまま水を垂れ流していると仄かに浴槽内が赤く色づき始めた。シャワーヘッドに目をやると溢れる水が急激に赤く染まっていく。まるで血液のように深く色づいた水は浴槽内を赤黒く染め上げていた。


「ほんとワンパターンでつまんねぇな!」


 俺は苛立ちながらシャワーヘッドに荒声をぶつけると溢れ出る赤い液体は徐々に色を失っていった。毎日繰り返される茶番劇。完全に色が抜けたシャワーの水で浴槽を綺麗に洗い流した後、室外で服を脱ぐ。間髪入れずに赤い水が出たことはこれまでに無いので気兼ねなくシャワーを浴びる。幽霊と呼ばれる存在が鏡に映りこもうがドアの向こうに立たれようがそんなのは問題じゃない。ただ、自分の体、とりわけシャンプーをしている時に赤い液体が出るのは本当に気持ち悪い。初めて赤い液体を確認した時は正にシャンプーで髪を洗っている時だった。目に水が入り、瞼を閉じたのがいけなかった。その一瞬の隙を突きあいつは調子をこいたのだ。目を開けると視界の半分を埋め尽くしていたどす黒い赤に、俺は思わず『ひぃっ』と情けない音を発してしまった。それから彼女は毎日水を赤く染めることに精を出しているようだが俺が驚いたのはその一回っきりだ。


 ふと排水口に目をやると長い髪が絡まっている。これもあの女が仕組んでいる。水の排出は悪くなるが俺に害がある訳ではないので放置する。――これらの現象は多分二年前に浴槽で手首から血を流して死んでいった二十三歳の女の霊の仕業だろう。多分、というのは霊が未だに顔をはっきりと見せないからで、死んだ場所から推測したに過ぎない。地方ニュースで二、三日顔をさらけ出した彼女を今も覚えているのは彼女の家族と、この部屋にいる者ぐらいではないだろうか。


 シャワーを浴び終え服を着替えた俺は冷蔵庫から取り出したビールを片手にリビングへと移動し、小さなクッションに腰を下ろす。後ろにある一人暮らし用のベッドを背もたれ代わりに体を預けビールの封を開ける。朝冷蔵庫に突っ込んだばかりのビールだが手に伝わる温度からキンキンに冷えているのは明快だ。缶を勢いよく傾けビールを喉に流し込みつつテーブルに無造作に置かれたテレビのリモコンに手を伸ばして画面に向ける。視線の先には暗い画面に映りこむ自分、と誰か。後ろのベッドの上に立つ人影。肩から上は画面から外れており、顔は映り込んでいないがこいつも凡その検討はつく。一年前ベッドの上で首を吊った状態で発見された三十二歳の男だろう。ベッドがある側の壁には服をかけておく為の小さなフックが四個ほどついている。ハンギングレールというものらしいのだが、この男はこのフックの一つに輪っかにしたベルトをひっかけ、首を預けた。貧弱なフックに男の全体重を預けても壊れないのかと思ってしまうが、案外丈夫に出来ているらしい。投げ出した足の踵がベッドに付き、上半身は直立のまま、つまりアルファベットの『J』の字のような状態で首を吊っていたのも良かったのだろう。アパートの大家と男の同僚が死体を発見するまでの数日間、男はベルトにテンションをかけ続けていたのだ。


 『J』で画面に映り込むのは格好悪いと思ったのだろうか、ベッドに突っ立った状態で毎日姿を現すのだがこれといって何かをするわけではない。姿を現すのはいい考えだが、面白みにかける。しかも顔出しNGとか興ざめ甚だしい。俺はテレビをつけそのまま夕方のニュースを見始めた。


 三十分程経っただろうか。リビングに直結しているロフトから視線を感じた。ふと、ロフトの方に顔を向けてみるが誰も視界に入ってこない。が、気配は残ったままだ。


 「タカノリっ! 邪魔すんな!」


 声を上げると途端に気配が薄れていく。こいつはとにかく地味。睡眠薬で眠るように死んだからなのか、未練や怨みなんてものが少ないせいかもしれない。一番使えない後輩だ。これも放置。


 その後も方々からのくだらない心霊現象は続き、俺はイライラを募らせていったのだが冷えたビールとテレビの欲には敵わない。こんな身でも欲は尽きないものだ。それに奴らは手を出してくるわけでもないし、行動もワンパターンで恐怖を感じる事もない。先輩として俺自らが体験してやってるんだから少しはパターンを変えてみたらどうなんだろうか。あっ、風呂場の女が一番の先輩か。いや、部屋の借主じゃなくなってからをスタートとすれば俺が一番の先輩だ。


 それよりも……時計を確認する。テレビの前にある時計を見ると午後5時半になろうとしていた。――そろそろ住人が帰ってくる――俺もそろそろ帰るとするか。テレビを消した俺はビールの空き缶を片手に風呂場の天井点検口から天井裏に身を潜める。


 二十分後、部屋の住人が帰ってくる。毎日のように『風呂場に女の人の髪の毛が!』とか『天井裏に誰かいる!』とか叫んでいるが、そんな事でびびっててどうする。


 本当に恐怖を感じるのは今からなんだから。二ヶ月も我慢してやったんだ。


 一体今度はどうやって殺そうか。

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