09 夜鴉、恋人を甘やかすと決める


 自分と似た声の誰かが、遠くで笑っている。

 楽しげなその声を聞いていると、ふと浮かんでくるのは雲雀の――冬風亭小雀の演じる『初天神』だ。

 親子の滑稽なやりとりを生き生きと演じる彼女の落語はただただ楽しくて、聞いているときだけは、嫌なことを全て忘れることが出来る。

 そして聞こえてくるこの声のように、俺は明るく笑うことが出来るのだ。


「お前、またそれ見てんのか」


 笑い声に重なるように、師匠の呆れた声がする。

 それに釣られて目を開けると、目の前に広がっていたのは圓山師匠の家の居間である。

 慌てて身体を起こすと、頭が激しく痛み、視界が歪む。


「寝てろ寝てろ。まだ二日酔いがぬけちゃいねぇだろ」


 師匠に肩を叩かれて、そこでようやく眠りこけていた理由を思い出す。


 昨晩はワインバーでしこたま飲んだのに、獅子猿兄さんとここで更に深酒をしてしまったのだ。

 チラリと見ると、獅子猿兄さんのほうは縁側の方で死んだように眠っている。あの様子だと、もうしばらくは起きそうにない。

 

 今日は寄席が休みで本当に良かったと思いつつ、俺は奥さんが入れてくれた水を飲む。

 少しだけ気分はマシになったが、冷静になってくると自分の醜態が情けない。

 まさか自分が二日酔いになるなんて。それどころか師匠の家の居間で無様に眠りこけるなんてと青くなっていると、そこでぷっと師匠が噴き出した。


「そんなこの世の終わりみたいな顔すんな。小雀だって、俺だって、良くここでぶっ倒れてるだろう」

「ですが、俺は……」

「いいんだよ。酒に酔って無様に潰れるのは、冬風亭一門のお家芸だ」


 お前も芸が板に付いてきたなと師匠が笑うと、そこで雲雀がニコニコしながら側へとやってくる。

 その手に握られた携帯には俺が写っており、どうやら聞こえていたのは彼女が動画に撮った俺の笑い声だったらしい。


「昨日はずいぶん飲んでましたね」

「ひば……小雀姉さんは、大丈夫だったんですか」

「いっぱい飲む前に寝ちゃいましたし、カーくんが部屋まで連れてってくれたのでベッドで熟睡です」


 言いながら、雲雀は肩が触れあうほど身を寄せてくる。そして彼女は突然俺の頬に触れ、何かを探るように顔をしかめる。


「くすぐったいのですが」

「うん、もう大丈夫……ですね」

「一体何してるんですか。セクハラですか」

「失礼な!! 私はカーくんが元気になったか、確認しているだけです」

 

 最後に頬をぐりぐりと撫で、雲雀は満足そうに「よし」と頷く。


「カーくん、なんだかずっとうなされてたんです。だから起こそうとしたけど起きなくて……。ならいっそ楽しい夢を見て貰おうと耳元で色っぽく落語をやってみたんですけど、それでも起きないから心配だったんです」

「たしかに少し、嫌な夢を見ていた気もします」

「ストレスですか? 私が癒やしますか?」


「……ストレスだとしたら、鴉を苦しめてるのは十中八九原因は姉弟子のお前だろうが」


 会話に茶々を入れてきたのはもちろん師匠で、直ぐさま雲雀が「そんなわけないでしょう」と反撃する。


 そのまま他愛ないいがみ合いを始める二人の声は、噺家だけあって無駄に大きい。張りのある声は頭に響いて痛かったが、あまりにくだらない言葉の応酬はおかしくて、つい笑ってしまう。


 口からこぼれた笑い声は、まどろみの中で聞いた冷たく虚ろな物にはほど遠い。

 そのことにほっとしつつ、俺は師匠と姉弟子の賑やかなやりとりをいつまでも眺め続ける。


 そうしていると心の奥に残っていた夢の残り香が消え、自分が何者であるかを思い出す。


「カーくんも笑ってばかりいないで加勢してください」

「それくらいにしましょう師匠。下手にいじめると小雀姉さんが暴走して、逆にストレスが増えます」

「加勢するふりして師匠の言葉を肯定しないで下さい! 私はカーくんのストレスではなく、ハニーです」


 言うなり抱きついてくる雲雀を見ると、師匠は「やってらんねぇ」とさじを投げる。

 そして彼は「俺たちは俺たちでイチャイチャするぞ」と奥さんを連れ立って散歩に出て行ってしまった。

 これは気を遣われたかなと思っていると、そこで雲雀が俺の身体にぎゅっとしがみつく。

 

「……私、ストレスですか?」


 珍しく弱気な声が響き、雲雀の小さな手が俺の服をぎゅっと握りしめる。

 その姿を見て、冗談とは言え彼女を不安にさせる台詞を口にしてしまった事を悔いた。

 だから俺は、いつも以上に優しく彼女を抱きしめる。


「嫌な夢を見たのも、私がなにかしたからですか?」

「そんなことはない」


 二人きりなので口調を崩し、俺は絶対にないと断言する。


「でも雲雀……雲雀……って、うわごとで呼んでましたよ。それにほら、私……カーくんに恨まれても仕方ないことしたし」

「どれのことだ」

「え、そんなにいっぱいあります?」

「あるだろう。風呂場に突撃して乳首見せろと迫ったりとか」

「……確かに私、乳首以外の所も見ましたしね」

「俺の使ってた手ぬぐいを盗んだりもしたな」

「あれは、その、借りただけですよ! その後すぐ返しましたよ! それにパンツ盗むよりはマシでしょう?」

「いや、盗んだだろ。最後の日に、勝手に一枚持って帰っただろう」


 雲雀の身体がびくりと跳ねた。


「いや、あの、貧の盗みの出来心でございます」

「落語の台詞で誤魔化すな」

「でもあの、返すつもりだったんです……。あのあと急にいなくなるとは思ってなかったし、ちょっと借りて、にぎにぎしてみたいなって……」


 だって……さわり心地が……あまりに良くて……。

 などと理由にならない理由を口にする雲雀がおかして、俺は彼女の頭をコツンと優しく小突く。


「……じゃあ夢の中で怒ってたのは、パンツを盗んだ私に対してですか?」

「違う」

「手ぬぐいの時のことですが」

「それも違う」

「あ、飲みかけのペットボトルですか!」

「それは初耳だ」

「……なら、師匠を盗った時のことですか?」


 そこで声のトーンが下がり、雲雀の小さな身体が震える。


「別に、師匠は俺の物ではない」

「でも十年前……私が弟子になったから、噺家になることを家族に認めてもらえなかったんですよね?」


 そしてそのときのことを、彼女は気にしているのだと、俺はこの時初めて気がついた。

 姿を消した理由については雲雀にも軽く話していたが、それについて彼女はあまり深く尋ねてこなかった。

 とにかく戻ってきてくれて嬉しいと、口にするのはそればかりだった。

 でも笑顔の裏では、自分のせいで俺が噺家になれなかったのだと思い、悩んでいたに違いない。

 

「だからあの、そのことを怒ってるなら言って下さいね。今も恨んでいて、ストレスになっているのだとしたら、私は……」


 何か言いかけて、雲雀は胸を押さえる。

 その様子を見ていられず、俺は彼女の頬に触れ、宥めるように優しく撫でた。


「さっきのは冗談だ。お前のことは恨んでいない、ストレスでもない」


 でも十年前に盗まれた下着の行方だけは気がかりだから、それだけは返して欲しいと言いながら雲雀の手を持ち上げた。

 それから俺は自分の顔に小さな手を重ね、微笑む。

 彼女に笑顔を見せ、恨んでいないことが伝わるようにと願いながら手を握っていると、雲雀の目から一筋涙がこぼれた。

 彼女の涙に俺は驚いたが、俺以上に慌てていたのは雲雀だ。

 彼女は乱暴に涙を拭い、笑おうとする。


「ご、ごめんなさい……ひどい顔を見せました」

「そんなことはない」

「あ、あります……! だって昔、祖父母がまだ元気だったときに言われたんです。お前の泣いている顔は気が滅入るって……」


 その言葉を聞いて、彼女が辛いときでも笑っていた理由を、今更俺は知る。


「って、そんな話の方が気が滅入りますよね! もうこの話は終わりです! オチもないし、終わりです!」


 そう言って、雲雀は無理矢理笑顔を作ろうとした。でもどうしても見ていられなくて、俺は彼女の顔を手のひらでぎゅっと挟む。


「な、……なにふるんでふか?」

「今の顔の方が、泣き顔よりひどい」


 潰されたタコのようでひどいと言えば、雲雀はふひぃぃぃぃと叫んで、俺の手から逃れる。

 そして直ぐさま抗議をしようと口を開いたので、今度は顎を掴み、唇ごと言葉を奪う。


「ひどいが、それでも可愛いと、俺は思う」


 それは嘘偽りのない言葉だったのに、雲雀は信じられないという顔でパクパクと口を動かしていた。


「泣いた顔も、潰れた顔も、お前はどんな顔をしていても可愛い。気が滅入るどころかずっと見ていたいと思う」


 俺の言葉に、雲雀はアワアワと口を動かすが、言いたいことは何一つ出てこないようだった。


「無理して笑わなくていい。どんな顔を見ても、俺はお前が好きだ」


 だから気にせず泣いてしまえと微笑んでから、俺はもう一度雲雀の唇を奪う。


 柔らかな唇を軽く食みながら、俺は決めた。

 雲雀を泣かせないように、不安がらせないように、これからは今以上に彼女への愛情を言葉や態度で表現していこうと。


「愛してる。だから泣くな、雲雀」


 長いキスを終え、そっと唇を離すと彼女の涙は止まっていた。

 だが予想外だったのは、そこで突然雲雀が立ち上がったことだ。

 彼女は、目が見えないとは思えぬ軽やかな身のこなしでこたつを飛び越え、自分の部屋へと駆け込んでしまう。

 一体何が起こったのかと唖然としていると、そこでコホンと小さな咳払いが響く。


「……今のは、小雀には刺激が強すぎると思うぞ?」


 響いた声に振り返ると、いつの間にか縁側で寝ていた獅子猿兄さんが起き上がっていた。


「いつから起きてたんですか」

「実を言うとお前より早く目覚めてたんだが、圓山師匠の家で寝ているのが気まず過ぎて動けずにいた」


 そして途中からは、お前たちがイチャイチャし始めて更に起きれなかったと獅子猿兄さんはこぼす。


「しかしお前、よく照れずにあんなこと出来るな」

「照れるようなことはしていませんが」

「してただろ! ち、ちゅうだぞ! ちゅう!」

「照れることですかそれ」

「えっ?」

「え?」


 俺は何かおかしなことを言っただろうかと思ったが、何故だか獅子猿兄さんは顔を赤らめ、もじもじしだす。


「とりあえず、水飲みます?」

「あ、はい……お願いします」

「何で敬語なんですか」

「いや、うん、経験値の差を感じて……」

「寝ぼけてませんか兄さん。俺、弟子入りしたての前座ですよ」

「いや、うん、そうなんですけど。他の経験値が、ですね……」


 二日酔いが残っているのか、寝ぼけているのか、獅子猿兄さんは何やらぶつぶつと独り言をつぶやいていた。

 そして雲雀の方は部屋から出てくる気配がなく、その日は夜まで自室にこもったままだった。

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