五.逃走(四)

 ミサキがマスコミや自称マスコミの目をすり抜け、退職手続きのため市民病院を訪れたのは、釈放から10日目、5月21日の午後だった。事務局長の嫌味をさんざんに聞きながら手続きを済ませる。職員たちが遠巻きに好奇の視線を向ける中、ロッカーの私物を持って通用口を出ようとしたところに、ヤマダ医師が声をかけた。

「外にはマスコミが張ってる。家まで送ろう」

 ミサキは一瞬戸惑ったが、ためらいがちに礼を言うと、ヤマダ医師の後について地下駐車場に向かった。

「大変だったな」

「ご迷惑をおかけしました」

「ミサキのせいじゃない」

 エンジンをかけて手動運転に切り替えたヤマダ医師は、サングラスをかけるとアクセルボタンを押した。

「これから、どうする」

「しばらくはマンションで蟄居です。少しずつほとぼりも冷めているようですから、落ち着くまでおとなしくしていようと思います」

「そうか」

 車内に沈黙がおりた。

「タサキ博士からは、なにも聞いていなかったのか」

「なにも」

 ミサキは首を振る。

「なにか理由があったんだろうと思っていますが、私にはそれが何だか、見当もつかなくて」

 ヤマダ医師はまた少し黙った。

「ミサキ」

「はい」

「タブレットの電源を切ってくれないか」

 ミサキは怪訝な顔をしたが、ヤマダ医師の、いつになく真剣な様子に、なにか大切な話があると察してタブレットの電源を落とした。ヤマダ医師はうなずいて、前を向いたまま口を開いた。

「タサキ博士は、スーリア党の党員なんだ」

 ミサキは顔を上げて医師を見た。

「先生は、リョウを知っていたんですか」

「俺も、去年奴が病院に来るまでは面識がなかったが」

 ヤマダ医師は、マンションに向かう道を手動で運転しながら言葉を続けた。

「俺は、スーリア党でニッポン行政区の広報を担当している。俺とタサキ博士は、以前からゲームの中でアバターを介して連絡をとりあっていたんだ。今回のことは不運だった。博士は、アン=ジョージ事件に直接的な関与はしていない。たまたま心理検査官の仕事をこなして事件と接点を持ったから、公安の網にひっかかったんだと思う」

 ミサキは、唖然としてヤマダ医師の横顔を見ている。

「俺たちは、クラウディに危害を加えるつもりはない。ただ、違う方法で紫外線から世界を守りたいと思っているだけだ。だが、クラウド党が政府を牛耳っている間は俺たちの言い分はことごとく抹殺されてしまう」

 赤信号で車を停止させた医師は、ミサキを顧みた。

「ミサキは、オゾン層が再生しているというニュースを知っているか」

「いいえ」

「そうか」

 信号が青になった。

「去年の紫外線環境学会で発表された。オゾン層が、北極上空から少しずつ再生している」

「そうなんですか」

 ミサキはふたたびサングラスの奥で目を丸くする。

「それは、自然に?」

「それが、今回の事件に関わっているのさ」

 首をかしげたミサキを横目で見やって、ヤマダ医師は言葉を続けた。

「俺たちの仲間は、数年をかけてクラウディのプログラムに改訂を加え、オゾン層の再生を試みている。その成果がいま出ようとしている。もちろん、地球の安全装置に民意を待たず手を付けることの罪は百も承知。俺たちのやっていることは、犯罪には違いない。だが、こうするよりほかに方法がない。それでやむなく、こういう手段を取った」

「そうだったんですね」

 クラウディの歴史や、スーリア党の主張のことはミサキも知っていた。だがそれは、知っているというだけであって、身近なものではなかった。ましてそれが自分に深くかかわって来るとは。

「今回のことは、党幹部の失態だ。アンとジョージが逮捕されたときに、党としてすべてを公にするべきだった。それをしなかったから、公安に先手を取られっぱなしだ。グオ党首はいまだに対応を迷っている」

 情けない、とヤマダ医師はため息をついた。

「博士は、そのとばっちりを喰らったのさ。幸い博士は無事ノースアメリカを脱出したらしい」

 マンションが右手に見えてきた。建物の裏手にある駐車スペースへ向かいながら、医師は言葉を続けた。

「もしミサキが望むなら、博士のところに行けるように計らってみるが、ミサキはどうしたい」

 ミサキは、黙って考え込んだ。さまざまな思いが胸中を錯綜していることが伺えた。車はマンションの敷地に入り、ヤマダ医師は建物を迂回して裏手に回ると、空いている駐車スペースに車を入れた。エンジンを切って、医師はじっとミサキの回答を待っている。数分ののち、ミサキは大きく息を吐いた。

「私は、残ります」

 そして、思いを振り切るように首を振った。

「私まで逃げ出したら、リョウはますます悪者になる」

 サングラスをかけたミサキの表情は、ヤマダ医師には見えないが、声が幽かに震えていた。

「でも、ありがとうございます。先生のお話しを伺って、彼が私にこのことを話さなかった理由がわかったような気がしました」

「理由」

「私の父は、クラウド党のニッポン北部支部長なんです」

 ヤマダ医師は絶句した。ミサキは、フロントガラス越しに見えるマンションの、自分の部屋のベランダに視線を向けた。

「ずっと、考えていたんです。どうして何も話してくれなかったのかなって。私を信じてくれていなかったのかなって。でも、彼は私と家族の関係のことを考えて、言えなかったんだと思います」

「そうだったのか」

「本当は、私は家族よりもリョウを支えたい。両親の傍には兄がいますけど、リョウには誰もいないから。そのことを知っていたら、こんなことになる前に、リョウのもとに行っていたのに」

 でも、とミサキは自嘲気味に言葉を続けた。

「それは私が勝手に考えているだけのことで、本当は、彼は私を信じてなかっただけかもしれない。なのに私が押しかけたら、彼は戸惑うかもしれない」

「それはないだろう。グリアンが——タサキ博士が、ミサキを大切に思っていることは間違いないさ」

「ありがとうございます」

 うつむいたミサキの頬に、初めてけぶるような笑みが浮かんだ。

「その言葉で充分です。私は、ニッポンに残ります。私がそちらに行くことで、父や父の後援会の人たちが迷惑をかけるかもしれないし」

「茨の道を選ぶんだな」

「会うのが怖いだけかもしれません」

 笑みが自嘲の色に翳った。

「本当は、彼が私を必要としていないことが、わかってしまうかもしれないから」

 顔を上げると、ミサキはヤマダ医師を見た。

「話してくださって、ありがとうございます。機会があったらリョウに伝えてください。私はあなたを信じて待ってる、って。もちろん、先生の話は誰にも言いません」

「わかった」

 ミサキは一礼して車を降りる。ミサキの後ろ姿が、マンションの裏口から建物の中に吸い込まれていくのを見送って、ヤマダ医師は病院に戻っていった。



 その次の休診日。

 白衣を着て脳神経科の入院病棟を訪れたヤマダ医師は、ナースステーションにハルトの脳波検査のオーダーを出した。看護師に連れられてハルトが検査室にやってくると、医師は看護師に、

「あとはこちらの技師がやるから、病棟に戻って大丈夫だ」

 と告げた。看護師が立ち去ると、医師はハルトを更衣室に誘導し、自分はそのまま検査室を出た。

 3分後、普段着に着替えたハルトは、救急外来玄関から何食わぬ顔で外に出る。ヤマダ医師は通用口から駐車場に向かい、車を出して病院の裏側にある細い通りに向かう。そこでハルトと合流すると、医師は、車のナビを停止させて手動運転に切り替えた。

「よく決心してくれたな」

 ヤマダ医師の言葉に、ハルトはうなずく。

「もう、他に方法がないと思いました。お話しを聞いて、活動の趣旨も理解できましたし」

 本当にお役に立てるかはまだわかりませんが、と肩をすくめるハルトに、医師が、大丈夫だ、と笑う。

「ずっと、考えていたんです」

 ハルトは、灰色のコロニーの風景を目に映しながら、ゆっくりと語る。

「僕がこの世界でできることは、なんだろうって」

 この世界の常識もわからない。仮戸籍では行動も限られる。そんな中でできることを、ハルトはずっと考えてきた。

「ササヤマ農場にいられる間は、そこでご家族を助けることができます。それもひとつの生き方なのだとは思います。でも、こんなことになって、どうしたらいいかわからなくなった」

 ハルトは、ハンドルを握る医師に視線を向けた。

「この世界に来てからずっと、僕は太陽を欲していました。それがかなうなら、その助けができるなら、僕はそれに賭けてみようと思います」

「ありがたい」

 ヤマダ医師がそう言った瞬間、タブレットから呼び出し音が鳴った。病院の事務局からだ。ヤマダ医師はタブレットを手に取り、音声通話のボタンを押した。

「はい、ヤマダです」

「先生、いまどこに」

「もう家に戻るところですが」

「患者と一緒にですか」

 事務局長の声が震えていた。

「精神科に入院中の患者が行方不明になって、大騒ぎです。先生のオーダーで検査室に行ったあと、検査をした様子もないし、防犯カメラに、患者が着替えて出ていく様子が映っていまし——」

 医師はまだ事務局長が話している間に通話を切り、タブレットの電源を落とした。

「やっぱり、ちょっと大胆過ぎたな」

「大丈夫でしょうか」

「あまり、大丈夫じゃないな」

 ヤマダ医師はそう言いながら、交差点を左折し、アクセルを踏み込んでスピードを上げた。

 一時間半ほど走ると、飛行機が低空で空を往来する様子が見られるようになってきた。

「飛行機で行くんですか」

 乗れないでしょう、とハルトが不安げに尋ねると、ヤマダ医師は、

「そう、と、思わせて」

 と言いながら、空港に近いハイウェイに添って走る広い貨物道路の待機車線で停止した。医師に促され、ハルトは雨よけをかぶって車を降りる。ヤマダ医師はタブレットの電源を入れると、ハイウェイ下の空き地、シダの群れの中に投げ捨て、車を置いたままハルトをいざなって空港と反対側に歩き出した。人影のない昼の貨物道路を1ブロック歩いて左に折れ、細い道に入ると、ちいさな有料駐車場の前に有人タクシーが停まっている。二人の姿をみとめて、長い背丈を折り曲げるような恰好で、運転手が降りてきた。

「タバちゃん?」

「そうだ。ヨッピーか」

「会うのははじめましてだな。乗って。ああ、俺は荷物を載せることになってるんで、中に入ったら口はきかないで」

「わかった」

「あれ、二人?」

 ヨッピーが問うと、ヤマダ医師はうなずいた。

「予定変更だ。俺も行くことにした」

「むしろそれがいいと思うよ」

 もう行くしかない、とつぶやいて、ヨッピーは伸び放題の髪をかき上げながら後部座席のドアを開け、中を指さす。二人が無言で乗り込むとドアを閉め、運転席に座るとゆっくりと車を発進させた。1kmほど走ったところでナビの呼び出し音が鳴って、モニターが切り替わる。ハルトとヤマダ医師はモニターのカメラに映らないように身体を伏せた。

「はい」

「誰か乗せてますか」

 運行管理者らしき女性が問いかける。

「いや。さっき客から荷物を預かって、これからフナガタに行くところです」

「ならよかった。警察から連絡があって、そのへんで二人連れの男が乗ったら通報してほしいとのことです」

「二人連れって、年齢とかそういうのは」

「詳細はまだ来てなくて。ただ、その近くにいるらしいとしか」

「じゃあ、とりあえず客を乗せたら連絡します。女装とかされたら、俺見抜けないし」

「そうしてください」

 通話が切れるとヨッピーはナビに繋いだタブレットを操作して報道番組にチャンネルを合わせた。番組では、アン=ジョージ事件に絡む人物の相関図を映しながら、リョウの性的嗜癖の憶測について面白おかしく報じている。

「こればっか」

 ヨッピーはつまらなそうに呟いて、チャンネルを変え、ラップのような音楽を大音量で流し始めた。


 ヨッピーのタクシーは、海岸沿いの荒れ地を抜ける車通りの少ない道をのんびりと走った。途中何度か運行管理者から連絡が入ったが、幸い怪しまれている様子はない。次第に潮の香が車内にまで漂ってくる。爆音のラップを聞きながら三時間あまり走ると、ひなびた港が見えてきた。タクシーが海際まで入って停車する。養殖場専用の港らしい。まだ日中のこととて、周囲に人気はなく、ただ桟橋のきしむ音だけが響く。しばらく待っていると、ちいさな軍艦のような船が港に入ってきた。

「きたきた」

 ヨッピーに促され、二人は車を降りる。ずっと縮こまっていたので、身体がこわばっている。身体をほぐしている間に、ゆっくりと静かに船が接岸し、乗船口に立っていた船員が、公用語で話しかけてきた。

「どなた?」

「俺はヨッピー。こっちがハルト。それと、タバちゃん。予定より一人多いけど、乗れる?」

 船員がうなずいて歩み板をおろす。ハルトとヤマダ医師が乗り込むとすぐに船は岸を離れた。甲板からふりかえると、ヨッピーはとうに車を走らせて、赤い尾灯が建物の向こうに曲がるのが見えたきりだ。船員に案内されて船内に入る。外から見るよりも広々とした操舵室があり、背の高い、黄色い髪の男が舵をとっていた。その隣に立っていた男が振りかえる。

「やあ、ようこそ」

「なにがようこそだ」

 ヤマダ医師——タバちゃんは、苦々しい声で応じた。

「お騒がせが過ぎるぜ、グリアン」

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