六・重なりあう世界(二)

 12月半ば、ハルトはふたたびレールウェイに乗ってライトの病院へ足を運んだ。LRTも病院の待合室も、いつもより混雑している。予約時間を過ぎてもなかなか順番が来ず、かなり時間がたってからようやく番号を呼ばれたとき、待合室にはハルトしか残っていなかった。

 診察室に入ると、いつものサカタ医師の隣にもう一人、白衣を着て、ビジターカードを下げた若い男性が座っていた。

「やあ、初めまして」

「カンナヅキさん、こちらが記憶の専門家。タサキ先生」

「はじめまして」

 専門家というから老人かと思っていたハルトは、医師の若さに少し驚いた。サカタ医師と同じ年くらいに見える。

「彼はふだんノースアメリカ行政区の大学で教えているんだけど、ニッポンに戻って来ると聞いたので、この病院に来てもらったの」

「ハルト君だね。リョウと言います。話はミサキからある程度聞いているよ」

 リョウは、屈託のない表情でハルトを見た。

「ちょうど一年くらいになるんだって?最近はいろんな夢を見るとか」

「はい」

「よかったら、少しその夢や、おぼろでいいから何か思い出せそうなことを話してくれないかな」

 ハルトは少し迷った。また疲れてると言われて薬を処方されるのかもしれない。記憶をいじられたらどうしよう。

「何も怖いことはしないよ」

 ハルトの気持ちを察したかのように、リョウは笑った。

「まるで注射をすると言われた子供みたいな顔をするね」

「すみません」

 ハルトは苦笑した。リョウのやわらかな表情に、少し安心する。

「自分でも、どの記憶がほんとうなのかわからなくて」

「なるほど」

「こういう、僕みたいなケースって、あるんですか?現実と違う記憶があったりする」

「結構ある」

 リョウの言葉に、ハルトは驚いた。あるのか。

「ゲームで言えば異世界系というか、違う世界に迷い込んだような気持ちになっている患者に出会うことは多い。でもそのほとんどは、記憶障害とは異なる。統合失調みたいなケースだ」

 だが、とリョウはハルトの目を見た。

「ミサキの記録を見る限り、君はそういう症状とは思えない。だから、ミサキの見立ては一面正しいとおもってる。」

「一面?」

「何かの理由で記憶の再生に障害が出ている、というのは間違いないだろう。でもハルト君の場合は、どうやらそれだけじゃなさそうだ」

 リョウは静かに立ち上がり、リモコンを手にすると診察室の照明をすこし暗くした。

「君の記憶には、現実と異なる部分が色々あるみたいだね」

「そうです」

 ハルトはすなおにうなずいた。リョウはゆっくりとハルトの背後に歩いていく。

「なにか、覚えている言葉や風景があったら、話してみてくれないか。ああ、もし嫌じゃなかったら、録音をさせてもらえるとありがたい」

 ハルトは少しとまどったが、うなずいた。サカタ医師が、机の上に置かれたちいさな録音機のスイッチを入れた。

「君はいま」

 背後から聞こえるリョウの声は、まるで瞑想をするときのような、ゆっくりした、やわらかな声。

「どんなことを思い出したりするのかな」

「最近は」

 自然に、意識が記憶に集中していく。

「秋の風景を。風景というより、においや、肌の感覚や」

「うん」

「五感が覚えてるというか」

「秋の風景は、どんなふうなんだろうか」

 リョウに誘導されるまま、ハルトは脳裏をかすめては消える記憶を言語化していった。リョウの質問に答えていくと、曖昧さが少しずつ消えて、記憶の輪郭が見えてくる。季節は秋から晩秋へ、そして冬へ。

 コートを着て外出する。空気のぴりりとした冷たさ。自転車にのってあちこち旅をしたような気がする。

「最後に旅をしたのは、いつ?」

「最後に行ったのは——」

 ふいに、脳裏へ灰色の海の色が浮かんだ。

「三陸」

 唐突に、いまとは異なる言葉が口から出て、ハルトは自分でも驚いた。

「続けて」

 背後から、リョウのやわらかく、だが毅然とした声がした。



 一緒に海に行ったのは、茜。大学で美術史を専攻していた僕たちは、スケッチブックを持ってしょっちゅう一緒に旅をした。自転車や、各駅停車の貧乏旅行。卒業してから、僕は美術展の手配を請け負うイベント会社に就職し、茜は大学の研究室に残って、平安時代の色の研究に従事した。

 あれは、3月。その年大学院を卒業する茜と僕は、月末に入籍することになっていた。僕が大きな美術展の準備を担当するため、ロシアの支店に2年間出向することが決まり、それが茜の卒業と重なっていたことから、一気に結婚話が進んだのだ

 栃木に住む茜の両親に挨拶を済ませ、二人で東北へ旅行に出かけた。冬の海を描きたいと誘ったのは僕だ。リアス海岸の磯浜に座って、かじかむ手をカイロで温めながらスケッチをしていた時。

突然の地鳴り、天地が瓶の中でゆすられているかと思うような揺れとともに、ごろごろとすさまじい音を立てて、磯浜を引きずるように海が遠ざかり——

「津波が!」

 ハルトは大声をあげ、そして、我に返った。


 白衣の女医が目をみはっている。その顔立ちが、茜に重なった。おかっぱ頭。切れ長の、きりりとした黒い瞳。


 記憶が、まさに津波のように脳裏に押し寄せ、そしてあふれた。


 茜と僕は、手をつないで海岸から走って逃げた。土地勘がないので、どこに逃げたらいいかもわからなかったが、とにかく海から離れないと、と思った。茜の足がもつれ、小石に足を取られて転んだのを引きずり起こして走った。僕の故郷は和歌山。子供のころから、地震のあとの津波の恐ろしさを繰り返し教わって育った。

「ちょっとまって。もう走れない」

「頑張って。もう少し高台に行くんだ」

 茜をはげましながら振り返ると、巨大な黒い壁が海の上にせり上がり、こちらに迫ってくる。僕の恐怖の表情を見て振り返った茜が悲鳴を上げた。夢中で崖をよじ登り、線路に登る。頼むから来ないでくれと必死で願ったのに、黒い壁は楽々とその手前の土手を乗り越えてきた。あっという間に水の壁が押し寄せてくる。抱き合った茜の身体が引きはがされる。夢中でそれを掴もうとしたが、波にもみくちゃにされて何が何だかわからなくなり、気がついたらひとり、木の幹にしがみついていた。


「僕は」

 自分がどの言葉を話しているのか、もうわからなかったが、医師たちの存在を思い出し、ふたりに理解できる言葉を必死で探した。それは、ひどくぎこちなかった。

「僕は、地震と津波——大波で婚約者をなくして」

 全身の力が一気に抜け、ハルトはひどい疲労感を覚えた。

「それで、いったんはひとりでワカヤマ——僕の実家に戻ったけど」


 ひとりで生きる気持ちに、どうしてもなれなかった。


 茜の両親は、茜が海にさらわれたのは、お前が旅に連れて行ったからだと責めた。自分でもそのとおりだと思った。ひとりアパートで呆然と座り続ける僕は、電話にも出ることができなくなり、連絡が取れなくなったことを心配した両親が、和歌山から迎えに来た。ロシア赴任が延期となったこともあり、魂が抜けたような姿で和歌山の実家に帰省した。

 実家に戻ってからも、死ぬことばかり考え続けた。そして五月の末。両親の目を逃れるため、「ボランティアに行く」と告げて、だが旅行鞄にはなにも入れず。片道切符だけを持って東に向かう新幹線に乗った。茜のふるさとで死のうと思った。山のふもとに広がる湿原が、茜はとても好きだった。

「新幹線——レールウェイを乗り継ごうとして」

 記憶はホームのエスカレーターに乗ったところまで。そして。


 いつのまにかこの世界に来ていた。


「どうして」

 頬を、涙がつたった。

「なんで」

 なぜ、ここなのか。

 茜は行方不明のままだった。どうせなら。どうせ時のはざまを往来することができるなら、茜のいる世界に行きたかった。せめて、茜と見た青空のもとで暮らせたらよかった。

 両手で顔を覆って、ハルトは泣いた。医師二人は、黙ってそれを見守っていたが、ハルトの嗚咽が落ち着くと、リョウがゆっくりと口を開いた。

「辛かったね」

 涙をかくさず、ハルトはうなずいた。

「でも、みんな辛かったから。あの時は」

「そうか」

 一万八千人が、死亡もしくは行方不明となる大災害だった。ハルトと茜のような思いをした人も、多くいたにちがいない。現にハルトの見ている前でも、抱き合ったひとの群れが、ホースで水をかけられた働きアリのように、あっけなく波にのまれていった。それだって、もしかするとオゾン層が破壊されたときの人類に降りかかった悲劇に比べたら、軽い災害なのかもしれない。人類の歴史はさまざまな慟哭に満ちている。自分の体験だって、そのひとつに過ぎないのだ。

 リョウはゆっくりとミサキの隣に腰をおろすと、静かに尋ねた。

「君の名前は?」

 問いかけられて、ハルトは涙にぬれた顔を上げた。

「今の名前は、仮の名だろう。本当の名前は、なんていうのかな」

 ハルトはぽかんと口を開けた。

「僕は——」

 なんという偶然。太陽の陽、人間の人、文字が自然に脳裏に浮かび、ハルトは自分でも驚いた。

「僕は、陽人はるとです。出井いでい陽人はると

 サヤカちゃんすごいわ、と震える声でミサキがつぶやいた。

「シンクロだね」

 迷信めいた言い方をして、リョウは口元に笑みを浮かべた。

「君の記憶がほんとうなら、君はAD時代から来たことになる」

「まさか」

 言いながら、ハルト自身も、それしかない、と感じていた。

「そう言うと架空小説じみているが、全く例がないわけではない。とはいえその大方は、記憶のすり替えだ」

 録音機を止めて、医師は足を組みなおした。

「人間の記憶のメカニズムは、わかっているようでわかっていなくてね。君のケースも、もしかしたら人類の古い記憶がリアルに再現されているだけ、という可能性はまだ捨てきれない。だが」

 リョウはじっとハルトを見た。

「君は本当に身体ごと過去からここへ来たのかもしれないな。細胞年齢や、君の見た目からすると、そう考えるほうが納得できる」

「そんなこと、あるんですか」

「類似のケースは、僕の見た中では一つしかない」

 その言葉に、ハルトのほうが驚いた。

「あるんですね」

 リョウは、そのケースについてはそれ以上語らなかった。

「人間は、この世の仕組みをすべて知っているわけではないからな」

 沈黙。

「本当にそうだとしたら」

 ハルトは、低い声で問うた。

「僕は、帰れますか」

「わからない」

 わからないが、とリョウはハルトの視線を受け止めた。

「君はおそらく、非常に稀有な偶然によってここに来た」

「はい」

「時間を往来する方法を、人間は手にしていない。つまり人為的に時空を超える方法は、今のところ誰も知らない。もう一度その稀有な偶然が起きる確率を考えると」

「帰れる可能性は低い、と」

「そういうことになるな」

「そうか」

 茜の手を離した、これが、罰か。

「なんで、こんなことが起きたんでしょうか」

「それも、僕にはわからない」

 リョウは、首を振った。

「その意味を探すより、ここで生きる意味を探したほうがいいんじゃないか、と、僕は思う」

「ここで、生きる意味」

 今のハルトは、死にたい、とは思わない。だが、太陽のないこの世界に来てよかった、とも思えない。もし、この記憶が本物で、自分がオゾン層崩壊前の世界——過去——から来たというのなら、なぜ、こんなことが起きるのか。むしろそれが知りたかったが、リョウはわからない、という。

「定期通院は続けたほうがいい。記憶が戻る時は不安定になりがちだから、通院頻度を少し上げて、頓服薬があったほうがいいかもしれないな」

「わかりました」

 リョウの提言に、ミサキがうなずいた。

「僕はめったにここに来られないけど、ミサキによく話をするんだね。ミサキは、一見そっけないけど、君のことをとても気にかけているよ」

「ちょっと、余計なこと言わないでください」

 ミサキが顔を赤らめた。

「患者の心配をするのは、当たり前でしょ」

「昔から、ミサキは情が見えにくいんだよ。ああ、僕たち、医大の同級生でね。専攻が一緒だったから、長い付き合いなのさ」

「やめて」

「そうでしたか」

 ハルトは思わず苦笑した。茜もそうだった。特に女子から「冷たい」と思われがちだったが、感情の表出が苦手なだけ。ほんとはひどく怖がりで、優しくて、子供向けのアニメを見てさえ感動して泣いていた。


 茜に、会いたい。


 茜を知るハルトの全身が、寂寥でいっぱいになった。

 ここで生きる意味とは。茜のいない世界で、太陽のない世界で生きる意味とは。

 なんだろう。


 リョウが生活上の注意点をいくつか告げ、ミサキが処方箋を出して、診察は終了した。ハルトが診察室を出ると、会計窓口はもう閉まりかけていた。

 病院の外には、細かな雪が舞っていた。ハルト——陽人——は灰色の空を見上げる。もういちど恋人を喪ったような寂寥感が、まだ胸をふさいでいる。同時に大きな宿題を出されたような心地がして、ハルトは軽い眩暈を覚えた。

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