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 ざばーっと、あふれ出したお湯が排水口へと流れていく。



「ああ〜いいお湯…」



 一人っきりの風呂場。そこでつい出てきた決まり文句をぼやく俺は浴槽で寛ぎながら天井を見上げる。


 ここは社の別館に設えられた浴場である。ほぼ全てが木造でできており、木の香りがふんだんに立ち込めるこの一室は自分のお気に入りの場所でもあった。

 4~5人はゆうに入れるくらいの浴槽で、まるで旅館の温泉にでもいるかのような雰囲気。


「はぁ…」


 と、そんな贅沢三昧の中でため息を漏らす。


 今日の朝から心境をかき乱す悩みの種。それは俺の心を鷲掴みにし、決して離そうとしない。


 (――――勇者、か…)


 見上げた視界の端に綺麗な月が見える。

 浴槽から立ち昇る湯気が窓の外へと消えていき、外からはりんりんと鈴虫の声が聞こえてくる。


 こういうところは日本にいたころとあまり変わらない。変わらないからこそ、初めて来たときは涙が止まらなくなったものだ。今でも心の内に穴が開いた気がして、寂しくなる時がしばしばある。だが…――――もうあれから十年の時がたった。長い…長い歳月だ。踏ん切りをつけるには十分な時間なのではと思えた。今朝までは。


 (もしかしたらこの月も…見ているかもしれないんだよな…)


 “創造神”…彼女から語られた衝撃的な話。

 それは、かつてのクラスメイトが“勇者”として召喚されその中に俺の“妹”がいる。


 もう会うことはないと思っていた。もう話すことも、笑いあうことも、触れ合うことも、共に歩んでいくことすらできないと、そう思っていた。なのに―――――


「遥がこの世界にいる…のよね」


 にわかには信じられない話だ。しかし、彼女がこんな下手な噓をつく筈がないし、もしついたところで誰にも旨みがない話だ。冗談ではないのだろう。それに…あいつはあいつなりに転生させたことに引け目を感じているようで、男だったことをいじられはするが、今日までいっさい地球の話を出さなかった。そんな妙に律儀なところがある彼女がこんな下手な噓をつく筈がない。ということはやはりあの話は本当のことで、今まさに“妹”たちは召喚された王都にいるわけだ。


 会いに行きたい。とても、とても。だけど、今の俺は―――――



『――――キュウビよー。おるか~?』



(びくぅっ!!??)



 と、俺は不意打ちをかまされ文字通り毛を逆立てた。



「おお、やはりここか」


「えっ!? ちょ!? なっ!? えっ!?―――――ルージュっ!?」



 ガラッと引き戸を躊躇なく開けて入ってきたのは一人の少女。深紅の長い髪を靡かせ、気が強そうな双眸が俺を見つめていた。 


 その名は“ルージュ”。幼い見た目に似合わず偉そうな態度と口調が目立つ彼女は俺の良い友人でもあり、育て親でもあり、師でもある存在であった。

 彼女は見た目こそ少女のような外見をしているが…この世界において見た目がその者の正体とは限らない――――彼女は“神竜”。つまり神の頂まで上りつめた存在なのである。


 腰から伸びた赤々と光る鱗に覆われた尻尾。髪をかき分け天に伸びる双角。笑った口からキラリと見える鋭利な牙。少女の見た目ではあるが、その正体を隠す気はさらさらなさそうだ。

 


 ―――一方、俺は彼女を見とめ驚きのあまり硬直する。



 長い付き合いだ。今更その異質な見た目に驚いた訳ではない。俺が驚いた理由、それは…彼女が姿であったためだ。


「何をそんなに驚いておる」


「誰だっていきなり入ってきたら驚くでしょうよっ! そんな姿でっ!!!」


「むぅ、そうか。しかし風呂場なのだから裸なのは当然じゃろう?」


 突然の闖入者たる彼女は、にかっと意地悪そうな笑みを浮かべ、俺の断りなく戸を閉めて入ってくる。


「それは…そうだけど。断りもなく入ってくるのはルール違反よ。ここ一応わたしの家なんだけど?」


「まあまあ、そう堅苦しいことを言うでない。ほれ、手土産も持ってきてやったぞ」


 俺の嫌そうな口ぶりを気にもとめず、彼女は持っていたものを自慢げに見せてくる。


 それは酒瓶だった。まだ封を切っていない新品の一升瓶。


「なんでお酒なのよ。わたしが苦手なの知ってるでしょ」


「まあそう邪険にするものでもないぞ。晩酌とは人が作った素晴らしい文化なのじゃからな。少しぐらい甘んじて見るが良い」


 ただ貴女がお酒を飲みたいだけでしょうよ。という言葉が喉から出かかったが、止めた。言ったところで結果は変わらないだろうから。


 そうして一緒に持ってきていた袋をガサゴソとあさり、中から取り出したのは大きめの盆と二人分のお猪口。


「ほれ、湯舟酒じゃ!」


「勝手に浮かべないでくれる?」


 満足そうな彼女に向かって冷ややかな口調で不平を漏らすが、案の定彼女の耳に入っていない様子。都合のよい耳である。


 ―――――そうして、彼女は勝手に用意した湯舟酒の傍らに陣取ってしまった。

 こうなるともうなにを言ったところでテコでも動かないだろう。せめて髪の毛ぐらい纏めてほしいのだが、そんなことを気にするような奴でもない。

 俺はそうそうに諦め、そそくさと彼女から遠ざかって身を落ち着けた。しかし、それが気に食わなかったらしい彼女は眉間にしわを寄せて不満そうに唸った。


「むぅ。なぜ逃げるのじゃキュウビよ」


「貴女の尻尾が邪魔だからよ」


「ふむ。それは悪かったのぅ。しかし、視線まで背けることもあるまい?」


「・・・」


 無言の圧力。プレッシャー。ただ少女に見つめられているだけだというのに、途方もないほどの重圧を感じさせる。これは並みの人間なら一瞬で卒倒し意識を失うであろうもの。もれなく失禁つきだ。

 重苦しい沈黙が風呂場一帯を支配した後、一向に反応のない俺にしびれを切らした彼女はシュルっと尻尾を伸ばす。それはまるでウミヘビのようにしなやかで魚のように素早い動きだった。


 尻尾は俺の腰に取り付き強引に引き寄せようとする。しかし、そうはさせまいと浴槽の縁を掴んで踏ん張る俺。そんな突然始まった妙な攻防戦――――


「(ググググ)」


「(ググググ)」


 お互いに一歩も引かない静かな戦いは、あきらめ悪い性格が災いしてなかなか決着がつかなかった。


「…お主はホントに…っ。意地っ張りじゃのうっ」


「っ。貴女こそ…っ貞操観念をもっと…っ。身に着けたらどうっ?」


「魔獣にそれを言うかのっ」


「神獣でしょうがっ!」


「それはそうじゃがっ。人の真似事をする物好きは…なかなかおらぬぞ??」


「それはっ―――そうでしょうね…」


 墓穴を掘った…。人と魔獣の価値観なんて、月とスッポンぐらい違うものだ。その頂点に君臨するであろう彼女に人の道理を説いたって無駄な話である。

 口角を引きつらせる俺に対し、ニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべた彼女は、ふっと息を吐くとふいに尻尾の力を抜いた。


「少し悪ふざけが過ぎたかのぅ。ほれ、これでも食って機嫌をなおしてくれ」


 ようやくの幕引きにほっと胸をなでおろしていると、引き戻した尻尾を器用に使い、彼女は袋に残っていたらしい木箱をこちらに寄せてくる。


「? 何よこれ」


「む? いなり寿司じゃな」


「なっ、なんでここに持ってきてるのよ!」


「いらんのか? 好物じゃろう。心配せずとも痛まないようにはしてある」


「…もらうわ」 


 さっと濡れないように脇に安置する俺。その表情はどことなく浮かれたものであった。…我ながら単純である。



 そして―――ようやく落ち着いた二人はお互いになにも言わず、このまどろみのようなゆっくりとした空間で、この時間を噛み締めるように揺蕩うのだった。









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