6-6 僕はついていけないよ

 狩科恭伽君はさして目立たない高校二年生だった。交友関係は狭く、彼女もなし。誰かに認められるわけでも邪険にされるわけでもない。まったくのモブとして高校に通っていた。

 そんな彼には気になる女子がいた。名前は岸辺(きしべ)結(ゆい)という。モデルのように細い身体に、背中の三分の一までかかる流れる黒髪。いつもどこか遠くを見ているような表情をしていた。狩科君の目には、彼女がこの世界にいないような気がした。目を逸らしているうちに消えてしまうんじゃないかという気がした。

 気づけば彼女を目で追っていた。でも声はかけられなかった。

 夏休みが明けた九月のある日の朝、狩科君は自分の下駄箱に封筒が入っているのを見た。封筒にはなにも書かれていなかった。

 狩科君はなにも考えず教室に入ってから封筒を空けた。便箋に書かれた文字はやわらかく女性的だった。


  狩科恭伽君へ


  お話ししたいことがあります。

  今日の放課後、第一校舎の裏に来ていただけませんか。


                     岸辺 結


 末尾の署名を見たとき、狩科君の心臓は跳ね上がった。思わず便箋を手で隠した。周囲を見渡して、自分に視線が来ていないことに安堵した。

 年頃の男の子である。変な期待もする。自分に、静まれ、静まれ、と言い聞かせた。

 終礼が終わって狩科君が第一校舎の裏に回ると、岸部結が学生カバンを横に置いて座り込んでいた。彼女は下を向いていて、周囲が目に入っていないようだった。

「岸辺さん、来たよ」

 狩科君が声をかけると、岸部結は立ち上がり笑顔を見せた。

「狩科君、来てくれたんですね」

 岸部結のうれしそうな様子を見ると、小恥ずかしいのは狩科君の方だった。岸部結を真正面に見られなかった。

「それで……話ってなんですか……」

 狩科君が声をかけると岸部結も彼を真正面に見られないようで、少しうつむきながら、小声でつぶやいた。

「あの……言いにくいんですけど……」

 そこで少し沈黙が流れた。狩科君は天国と地獄の両方を想像して待った。

 岸部結はなにかを期待するそぶりで口を開いた。

「私、狩科君のこと、ずっと気になってたんです。よかったら、友達になりたいな……って思ってて…… 迷惑じゃ、ないですか……」

 かしこまるのは狩科君の方だった。持っていた学生カバンを下に落とし、両手を左右に振って否定の意味を示した。

「いや、迷惑じゃないよ! 僕も岸辺さんのこと、なんだか気になってて。まさか岸辺さんの方から声をかけてもらえるなんて、思ってなかったから……」

 岸辺結は驚いた。

「いいんですか!?」

 狩科君も受け入れるのに迷いはない。

「いいよ。岸辺さん、これからよろしくお願いします」

 岸辺結は目を細めるほどの笑みを作った。

「結、でいいですよ。それと、敬語も使わなくていいです。これからよろしくね」

 結からもらった好意がこそばゆくて、狩科君は右手で頬をかいた。

「僕も、恭伽でいいよ」

「はい。恭伽」

 友達、と言っていたけれど、女の子と友達になるのは特別なことだ。狩科君は、残暑の九月だというのに春が来た気がした。

 それから結とは楽しく過ごした。お金がさしてなかったから派手な遊びはできなかったけど、公園を散歩したり、図書館に行って雑誌コーナーにたむろしたり。男女の中に踏み込んではいないけれど、恭伽には別に不満はなかった。

 十月も半ばを過ぎたある日、帰ろうと席を立った恭伽は女子に声をかけられた。

「狩科君、奥手かと思ったけど、女の子とつきあう気があったんだね。岸辺さんに交際を申し込むなんて、趣味が変わってるけどね」

 最後の一言にカチンときた。

「趣味がおかしいとは思わないけどなぁ」

 煙たがられたはずの女子は意に介さない。

「惚れてる男子には、女子の欠点なんて見えないものだからね。狩科君から交際を申し込むくらいだもん。今は脳内お花畑でいいと思うよ」

 最後の一言も気になったけれど、さらに一つ前の言葉が恭伽には気になった。あの日の状況だと、結から申し込んだことにならないか?

「僕が申し込んだって、誰から聞いたの?」

 女子は即答した。

「岸辺さん自身が言ってるわよ。狩科君が岸辺さんのことを気になっていたって言ってくれたって」

 あー、たしかに。あの日、恭伽も結に、前から気になっていたと言っていた。そのくらいの行き違いはあるのか……と恭伽は観念した。

「そっかー」

 その一言を女子は肯定と受け取り、呆れて恭伽のそばから離れた。

 それからしばらくして、恭伽は結と市内のショッピングセンターに来ていた。二人いろいろ我慢していたので、今日ぐらいはお金を使ってもいいかと申し合わせていた。グッズを扱う店で恭伽が勝手が分からず戸惑っていると、店の奥から結の声が聞こえた。

「きれい!」

 恭伽がおっとり結の元にやってくると、結はキーホルダーを手に取っていた。

 鎖の先には二cmほとのきんいろで花形のプレート。プレートの花びらの位置に青く透き通る球が五つ載っている。

 恭伽には、キーホルダーもきれいだったけれど、喜ぶ結の顔がもっときれいだった。だから肯定した。

「きれいだね」

 キーホルダーは量産品で、棚に三つ引っかかっていた。結は二つ目を手に取った。

「おそろいで買おうか。恭伽にあげる」

 女の子からのプレゼント。それはとてもうれしい。でも、女の子に払わせるのは体面が悪い。

「僕が買うよ。それでいいでしょ?」

 するとなぜか結が少し不機嫌になったような気がした。

「いいや。私に買わせて。恭伽は気にしないで」

 強く言われると恭伽は否定できない。

「分かったよ。結、お願いね」

「ハイハイ」

 結はキーホルダーを二つ持ってレジに行く。戻ってくると右手で片方のキーホルダーを恭伽に差し出した。恭伽は右手でそのキーホルダーを受け取った。

 キーホルダーは見た目にきれいだけれど、安くて、作りものであることはたしかだった。

「この石、宝石じゃないけど、僕たちにはちょうどいいのかな」

 恭伽の、ともすれば馬鹿にしたような一言を、結は気にしなかった。

「これを持ってる私たちの気持ちが本物だったら、それでいいよね」

 本物の気持ち。それは恭伽にとても大切に思えた。

「そうだね」

 その後も二人は楽しく遊んだ。帰ってからも恭伽はキーホルダーを手に取って眺めていた。

 それから数日後。教室で恭伽は女子に声をかけられた。

「狩科君、岸辺さんと続いているんだね。岸辺さんが、狩科君がキーホルダーを買ってくれた、私のこととても大事にしてくれる、って言ってたわよ」

 最後の一言はよかったけれど、途中が恭伽には気になった。

「僕がキーホルダーを買ったって?」

「そうよ。本人がそう言ってたわ。青いガラス玉のついたキーホルダー」

「たしかにそのキーホルダーだけど……」

 女の子が払ったというのは恭伽にとって体面が悪い。恭伽のことを思って逆に言ってくれたのだろうか。

 しかし、前にも似たようなことがあった……

 女子が去った後、恭伽は家の鍵につけていたキーホルダーを見た。青い透き通る玉が五つ。それは、やっぱり、今見ると偽物だった。

 それからしばらくした頃。体育が終わって更衣室で学生服に着替えている最中に、同じ授業を受けた男子から声をかけられた。

「狩科、意外と記憶力なかったんだな。お前の彼女、遊びに行く約束をすっぽかされり、宿題し忘れたお前にノートを見せるようにせがまれたり、散々な目に遭ってるらしいじゃないか」

 その二つ、恭伽には覚えがなかった。

「そんなことしてないよ」

「嘘ついている奴は大体そう言うんだよ」

 声をかけてきた男子は鼻で笑った。

「誰か、話してたの?」

「俺の彼女が聞いたって。女子の噂話に聞こえてきたってさ」

 恭伽はためらいがちに聞いた。その言葉はからかう男子には想定内だったようだ。彼の認識になんの変化ももたらさなかった。

 ここは年頃の男子が集まる更衣室。恋バナはいつも興味の的。恭伽の噂は肩を並べていた彼らに、ティッシュペーパーが水を吸うようにしみこんだ。

 恭伽の胸中は、彼らには見えなかった。

 十一月に入って少し冷えるようになった頃。その日、二人は近所の公園を歩いていた。先を歩く結。後ろをついていく恭伽。二人の足下で踏まれた落ち葉が音を立てる。

 結は後ろを見ないで言葉を口にする。

「恭伽が私に告白してくれて、うれしかったんだ」

 恭伽の心臓がトクンと跳ねた。

 結が手紙を下駄箱に置いたのも、結から友達づきあいを申し込んだのも、後ろを歩く恭伽は当事者だから知っている。

 でも結の言葉にはためらいがない。

 ためらいの無さが、恭伽の心を揺らす。

 結は、後ろを歩く彼を信頼しきっていて、振り返りもしない。

「恭伽が買ってくれたキーホルダー、ポーチのストラップにつけてるの、分かる? 安くて、作りものだけど、私たちの信頼は本物だと思うんだ。恭伽がね、遊ぶ約束を忘れても謝らなかったり、宿題をしないで私のノートを見ようとしたり、ちょっと頼りなくて、情けない子でも、私はね、そんな恭伽のことも好きなんだ」

 結は後ろの恭伽を見ない。前だけを見ている。

 後ろを歩いている恭伽には、その先に結が見ているものも見えるはず。

 なのに、彼の目には結が見ているものがどこにも見当たらない。

 恭伽の心は幻にとりかこまれた。

「私ね、ずっとおかしな人間だって言われてたんだ」

 その言葉には悲しみがこもっていた。でも、そこからつながる言葉には希望があった。

「それをね、恭伽が『結はおかしくない』って言ってくれて。私、本当にうれしかったんだ。恭伽、言ったよね。『おかしいのは結じゃない、まわりだ』って。ようやく分かったんだ。私のまわりがおかしかったんだって」

 結が踏みしめる落ち葉の音が、結の言葉を遠い世界のもののように思わせる。

 恭伽には、結が言う「恭伽」が誰なのか分からなくなった。

 恭伽は結が言うようなことを、言ったことがない。意識がないうちに口走ったはずもない。

 それまでの疑念が恭伽の胸中に積もっていた。

「結。僕はそんなこと言ったことないよ。結がおかしいとか、結のまわりがおかしいとか、そんなこと、言ってないよね?」

 結は立ち止まり、振り返った。

「言ったよ。『結はおかしくない。おかしいのはまわりだ』って。恭伽が守ってくれたから、私は救われたの」

 結を救った「恭伽」は、どれほど心の広い男だったのだろう。今、結がみている狩科恭伽に、そんな心の広さはなかった。

 恭伽は立ち止まり、今までの思いを打ち明けた。

「いいや、言ってない。結は、前から嘘が多かったよね。結が僕を呼び出して友達になったのに僕が交際を申し込んだとか、結がキーホルダーを買ったのに僕が買ったことになってたりとか。約束を忘れたことも、宿題のノートを見せてもらったことも。全部なかったよね? そんな嘘、つかなくてもいいよね? もっと普通に言おうよ」

 結が悲しんだ表情を見せる。

「私がおかしいって言うの?」

 そんなこと言ってない。その一言を言うには、もう遅かった。

 恭伽は、自分が正直になろうとした。

「結が嘘つくからだよ。嘘つくから人が離れるんだよ。嘘さえつか……」

「みんな私がおかしいって言う!」

 結は恭伽の言葉を最後まで聞く気がなかった。

「私が嘘をついているとか、私の記憶がおかしいとか、私が狂ってるみたいに言う。恭伽は私のこと分かってくれると思ったのに。私、知ってたよ。恭伽がずっと私を見てたのを。この人なら、おかしいのはみんなだって認めてくれると思ったのに。恭伽も私を信じないの?」

 結の目は潤んでいた。

 唯一の理解者と信じた男に裏切られた女。その場面だけ見ればそうだったろう。

 首を縦に振れば、結の本心を肯定することになる。恭伽は首をゆっくり横に振った。

「結の嘘に、僕はついていけないよ」

 結は泣きじゃくった。

「恭伽、ついてこないで! 私につきまとわないで!」

 恭伽は、まだやり直せるのではないかと思っていた。結に歩み寄るとき、落ち葉の音が周囲に響いた。手が届く距離に来たとき、結の右手が恭伽の身体を払った。

 恭伽を見ず泣きじゃくる結。

 恭伽には、黙ってその場を離れるしかなかった。

 それから、結は学校で恭伽を見ても、なにも言わなくなった。

 そして、狩科恭伽の悪い噂が次々と広まった。

 カンニングはうまくやればバレないと豪語した。

 つきあっている女の子に金をせびった。

 つきあっている女の子は次々入れ替わっていて、同時進行も復縁も何でもあり……

 狩科君は一つ一つ問われる度に否定した。

 でも、嘘つきは弁解がつきもの。

 狩科君は、すでに嘘つきと見なされていた。彼の言葉を聞く者はいなかった。

 話しかける者もいなくなった。

 以前は埋没していたけれど、今は周囲の注視の中で孤立していた。

 二学期も終わりに近い十二月。

 校舎の廊下を歩いていた狩科君は、向かいから伏し目がちに歩いてくる岸辺結を見つけた。周囲には他の生徒がいた。

 いつもなら素通りしたろう。

 でも、彼らがすれ違うとき、狩科君は衝動的に岸辺結の右手に手を伸ばした。

 聞きたかった。彼女の本心が聞きたかった。

 狩科君は岸辺結の右手をつかんで彼女を引き留めた。

 急いた心からは短い言葉しか出なかった。

「結、僕になにが言いたいの?」

 岸辺結の両目が、狩科君の両目を捉えた。彼女の目は、おぞましいものを見ていた。

「もうなにも言わないで! この嘘つき!」

 その言葉は、岸辺結の本心からの叫びだったのだろう。

 彼女の叫びは見ていた他生徒の心を捉えた。

 狩科君は手を離した。手には力が入らないし、口はあえぐだけだった。

 去って行く岸辺結を周囲は同情して見送った。

 狩科君は、この場から消えなかった。でも、身体は消えてくれなかった。

 翌朝。彼は起きると腹痛に襲われた。

 制服に着替えようとすると脂汗をかいた。

 母親が病院に連れていったが、検査の結果、別の病気が疑われた。

 紹介されたのが精神科だったとき、母親はうなだれた。

 狩科君も、自分が最底辺に落ちたようで嫌だった。

 診察室に入ったとき、白衣を着た精神科医は最上の営業スマイルを浮かべていた。

「何があったんだい?」

 優しく問いかけられて、狩科君が答えるまで数分かかった。

「言えません。言ったら母さんに迷惑がかかります」

 精神科医は笑みを崩さなかった。

「精神科の診察室で話したことは、他の誰にも言わないんだ。君はキリスト教の懺悔室を知っているかな? 信者が牧師に話したことは、牧師は誰にも言わない秘密にする。そうして、信者は言いたいことをいってすっきりして帰っていくんだ。私も他人の秘密をいっぱい持ってる。だけど、信じるか信じないかは君次第だけど、他人には言ってない。君が話したことは、お母さんにも学校の先生にも言わない。どうかな、話してくれるかな?」

 狩科君は秘密にしなければいけないはずなのに、なにかにすがりたかった。

「本当ですか?」

 精神科医は首肯した。

 狩科君はポツポツと語り始めた。その語りは、懺悔だった。途切れ途切れで、一部はあいまいにぼかしたところもあった。でも、思っていることを初めて口にできた。

 過去を語り終えた狩科君は、精神科医に一言問うた。

「僕がきちんとしていれば、彼女は普通の女の子でいられましたか?」

「君はどうしたかったんだい?」

 精神科医が問い返すと、狩科君はどうにか望みを口にした。

「彼女を守れるような男の子になりたかったです。僕じゃない、他の誰かになりたいです」

 狩科君の目には涙がにじんでいた。その涙が嘘か本当か、そのときの狩科君には分からなかった。

 精神科にはしばらく通い、長らく学校には行かず……

 三年生に上がるとき、電車で通う遠くの高校に転校した。前の高校では噂が立っていて復学は無理だと判断されたからだ。

 転校して上位の進学校に移ることなんて許されていない。今までより偏差値で劣る高校を選ばざるを得なかった。突然やってきた結構できる転校生。噂が立つに決まってる。何かやらかしたらしいとささやかれた。だから友達はできなかった。

 狩科君は高校生活後半の一年半を、コールタールの沼のような身動きがとれない環境で過ごした。

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