第六章 他人の過ち、自分の過ち

6-1 心が折れそうだ

 八月の終わりはまだまだ暑い。

 狩科がMEC臨床試験のために大学附属病院に通い始めて三週間目。目的の建物まで向かう道は、初回から相変わらず天高く日が昇り空気は蒸し風呂としてまとわりつく。週一回しか着ない襟付き半袖シャツと替えがないジーパンは汗に濡れている。

 でも、いいか。深津さんは何も言ってこなかったし。

 ……そう思ったとき、出会ってから二週間しか経っていないけれども、深津とずいぶん気軽に話をできるようになったものだと思った。最初は高嶺の花もいいところだったけれど、夢にあふれていて、かなりマイペースで、でも意外と単純だからなんとなく先も読める、そんな深津を、美しいと言うよりかわいいと思い始めていた。

 これもMECが後押ししてくれたからだろうか?

 考える間もなく、それ以外にあり得ない、と結論づけた。

 普通に狩科恭伽が深津瑠璃に会っていたら、深津にとっては不勉強で意気地なしな後輩というだけで特に目を引かなかっただろう。

 でも狩科恭伽が千波伊里弥として、深津瑠璃が佐上優希として、あらかじめ親しい仲にある二人として時間を共にした。

 佐上優希への親しみが深津瑠璃への親しみを生み、千波伊里弥への信頼が狩科恭伽への信頼を生んでいる。

 結果的に、MECは繋がるはずのない狩科恭伽と深津瑠璃を繋げた。

 狩科は、MECに感謝しかない。

 MEC臨床試験の待合室の扉を開けると先に深津が来ていた。扉が開く音に顔を上げた深津は狩科を見ると会釈した。

「狩……ここではBさんですね。お疲れさまです」

 そうだった。二人はプライベートで出会っていない、という建前だったのだ。

 こういうところが秘密の恋人みたいでこそばゆい。

「Aさん、お疲れさまです」

 狩科は挨拶し返すと深津の左に座った。そんなに間を開けなくてもいいかと思えた。

 深津は狩科が座ると身体の前で両の手の指を組んだり外したり、もじもじしている。そしておそるおそる狩科を見る。

「Bさん、私たち今まで、佐上優希と千波伊里弥が、つきあう、と言ったら言いすぎですけど、仲がいいところを見てきたわけですよね。それでなんですけど……」

 そこで深津が言葉に詰まる。

「それで?」

 狩科は問いかけて深津の言葉を待つ。深津は指を組んだり外したりしながら、ポツポツと話す。

「これ以上話が進んだら……私たちは何を見るんだと思いますか?」

 話が進んだら、の箇所が途切れ途切れでようやく聞き取れる程度の細さだった。

 進んだら、と考えたとき、狩科の脳裏に不埒で淫らな映像が浮かんだ。

 まさか、それはないだろうけれど。だって事前の全身像撮影で着衣しか撮影していないし。

 深津の気持ちを折らないように慎重に。

「いや、ちょっと、心配も色々あると思うんですけど、男女の深い仲には……」

「そんなものを見せられたらMECを無理矢理引き剥がすと思います」

 狩科の言葉を遮って深津は断言した。

 脳の神経細胞と共鳴している稼働中のMECを無理に引き剥がしたら、脳と精神にどんな後遺症が残るか。まったくもって危険だ。

 MECの研究者を志し勉強を続ける深津が危険性を認識していないはずがない。

 それでも断言したということは、深津は狩科同様にHな場面をチラと想像したのだろう。

 女性にはそれはきつい。

 狩科は言葉を選んだ。

「深津さんが何を想像しているのか、はっきりおっしゃらないので分かりませんが、これは真面目な臨床試験ですから、とってもおかしな内容はやらないと思いますし、僕も期待しません」

 期待しない、という言葉に深津は大きく首を縦に振った。

「そうですよね。狩科さんも期待しませんよね。狩科さんがまともな人で安心しました」

 そう言われると健康な男子としては落ち込んでしまう。でも深津がパニックに陥るよりはまともだと狩科は自分に言い聞かせた。

 開始時間が来て、試験者が待合室の扉を開けて二人に呼びかける。

「被験者のお二人様、時間になりましたので試験を始めさせていただきます。試験室にお越しください」

 三回目ともなると、この呼びかけもルーチンワークとなった。

 二人は実験室に移り、二人の試験官に付き添われてMECを装着する。今日もいつもと同じだ。

 MEC起動シーケンスの音声が二人の脳に流れる。   

「Memory Extended by Computerトランスレータ、脳との接続を試行………………接続を確認、ベースシステムとの接続を開始………………接続終了。システムは正常に起動しました」

 起動シーケンスの音声が終了しても、いつもと同じだろうと思っていた。

 狩科の脳裏に、今まで見たことがないはずの風景が過去の自分の体験のように思い浮かぶ。

 

 場所は夕方の浜辺。南に向いている海岸なのか、右側の海と陸の境に太陽が落ちようとしていて、周囲がほんのり赤く染まっている。暦は七月の梅雨明け。

 佐上優希は波打ち際に座り込んで波が足下をさらうのに任せている。千波伊里弥は後ろで波が届かないところからそれを見ている。

 千波伊里弥が、今までと違って、佐上優希に対する疑いの念を持って尋ねる。

「俺とここに来て、楽しかった?」

 佐上優希は笑った。彼女から、夕日の反対に向かって長い影が伸びている。

 彼女の言葉にも影が差している。

「やっぱり、それ、聞くんだ」

「聞くよ」

 千波伊里弥の答えに、佐上優希は彼を見ずに話し続ける。

「どっちが先か分からないんだけど、伊里弥を見て、楽しくなさそうだなって思ったら、気づくと自分も楽しくなかったのね。伊里弥が楽しくないから私が楽しくないのか、私が楽しくないから伊里弥が楽しくなくなったのか、それは分からないんだけど、私たち二人、楽しいって思えないの」

 千波伊里弥は後ろから佐上優希をじっと見ている。

「俺はお前が先だと思ったけどな」

 佐上優希は立ち上がった。

「もう、どっちでもいいよ。続きはないんだから」

 千波伊里弥は佐上優希の背中に拒絶を読み取った。

「そうだな。続きはないな」

 ここでようやく佐上優希は振り向いて千波伊里弥を見る。

「このあと、二人一緒の電車で帰るのも嫌じゃない? じゃんけんして、どっちかが遅くまでここに残って二人が一緒にならないようにしようよ。それが私たちの最後」

「そうだな。それがいいよ」

 破滅的な結末へ向かう提案を千波伊里弥は抵抗なく受け入れた。

「じゃーん、けーん、ポン」

 千波伊里弥がグーで佐上優希がパー。

「じゃあ、私帰るね」

 それだけ言い残すと佐上優希は千波伊里弥に背を向けて浜を上がっていく。千波伊里弥は何も言わず見送り、日が沈むまで浜にいた。


  ……狩科は思う、心が折れそうだと。

 たしかに男女の進展の一つの形だが、これは当事者となっている自分にとってあまりに痛い。落胆するというか、心の激痛に叫び声を上げてのたうち回りそうだ。

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