4-4 これから彼女を裏切ろうとしていることに後ろめたさを覚える

 狩科はMEC臨床試験の翌日に、どうにか、大学の講義に出席できた。

 どうにか、というのは、精神的動揺が強かったから。あのとき混乱していた深津がどうなったのか気になって仕方がない。講義の内容は頭に入らず、苦悩していて居眠りもできず、自分は何をやっているのかと焦りが積もる。

 午前後半の講義が終了したとき、考え事をしていて、しばらく席から立てなかった。これがよくなかった。

「キョ~ン~タン! いよいよ危ないねえ」

 気づくと来海が左隣に来ていた。言葉は軽口なのだけれど、顔を見たら笑いはなく、心配そうに狩科を見ている。

「いよいよ危ないって…… 別に、なんともないから……」

 振り払うように狩科は強弁する。

 来海は狩科の隣に座って狩科に顔を近づけ、両手で狩科の頭を挟んで強制的に自分の方に向かせた。

「朝から放心状態で、人の話を何にも聞いていない人が、大丈夫なはずないじゃん! 今日こそは、話を聞かせてもらうまであきらめないからね」

「ちょっと、首が痛いよ、来海さん……」

「言って。『言うの? 言わないの?』じゃないの。言うの。言わなきゃ、キョンタン、自滅しちゃうよ」

「自滅するってなんで分かるの?」

「いままでのキョンタンとのつきあいと、女の勘!」

 来海は最後を強く断言した。目が真剣なので茶化して言ったわけではないと分かった。

 狩科はため息を一つついた。観念の表れだ。

「分かったから、その手は離して。これからお昼食べるでしょ。一緒に食べて話そう」

 来海は首を横に振った。

「食べながらで済む話じゃないと思う。キョンタンを逃がさないからお昼は一緒に食べるけど、その後でゆっくり話そう」

 来海が頭をつかんで話さないから、狩科は首を縦に振ることができず、口で答えるしかない。

「ハイ……」

 二人はコンビニでお昼を買って空き講義室で食べて、昼休みが終わる頃合いを見計らって学食に入った。学食には同じように何も食べずおしゃべりに来ている学生がちらほらいる。何も買っていないことは気にしなかった。

 二人が向かい合って座ったところで来海が切り出す。

「で、どうなの? と言っても、多分、MECの臨床試験の話だと思うんだけどね。で、どうなの? 人体実験でもやらされてるの?」

 人体実験という言葉に狩科は頭を振った。

「そんな厳しいことはやらないよ。むしろ僕はいい思いをしてるんだけど、その……一緒に臨床試験を受けてる人がいてね、その人のことが気になって。あまりうまく話せないけど、いい?」

「聞くよ」

 来海がしっかりと答えたので、狩科はおずおず語り出す。

「MEC臨床試験は人によってプログラムが違うんだろうけれど、僕は二人一組で、被験者の映像を合成して作った、架空の人物の過去の出来事を思い出すプログラムなんだ。その相手が、うちの大学院生で、しかも九里谷研所属で、本当に綺麗な人でね。架空の人物の過去に記憶では、二人はかなりフレンドリーで、傍から見てると恋人なんじゃないかってくらい。だけど、現実の僕とその人は何も知らない間柄だから、仲がいい記憶を思い出すと、なんだか不思議な気分になるんだ」

「綺麗な人で、恋人。その相手って女性ってことだよね?」

 来海が切り込んだ。狩科はうろたえて目を逸らす。

「うん。女性」

「で、その女とどうなったの?」

 できれば誤魔化したかった。しかし来海に退く様子がない。

 狩科は、普段の何倍も気合いを入れないと自分の声が途切れそうな気がした。

「僕は気分がいいよ。綺麗な人と恋仲になったような気分で。でも相手の人が、僕なんかと恋人みたいな気分になったことが納得いかなくて、自分で自分を信じられなくなっているというか、僕に好意的だったかと思うとそっけなくしたりして、不安定になってしまって。それを見ていると、つらいよ」

 来海が納得したようだ。

「MECが作った人工ツンデレかぁ。しかも破壊力は天然ツンデレと同レベル。振り回されてキョンタンはボロボロ。悪い女に引っかかっちゃったねえ」

 そんなんじゃない。狩科は擁護する必要を感じた。

「そんなに振り回されてないよ。週一回、三十分会ってるだけだし」

「で、あの放心状態でしょ」

 来海が突いたのは核心。狩科は肩を落とす。

 何も言わない狩科を見かねた来海が言葉を継ぐ。

「今までキョンタンを見てたから言うけど、キョンタンは愛を与える分と受け取る分のバランスが取れてないんだよね。そこを直す必要があると思うんだな。私の話、聞いてくれる?」

 自分が話さなくていいという提案に、狩科は首を縦に振った。見てとった来海が語り始める。

「承認欲求って、よく聞く言葉だよね。それって、嫌われてるけど、食欲や性欲と同じくらい、

人間の基本的な欲求で、満たされる必要があるものなんだ。ときどき、承認欲求は捨てるべき、他人に嫌われてもかまわない態度が人間が幸せになるために必要、という人がいるでしょ。でも、他人に承認してもらわないと満たされないというのは、社会で他人に受け入れられる人格を作る原動力として貴重なものなんだ。他人に嫌われても気にしないと言って好き勝手している人と、サイコパスは、見分けがつかないし、どこか共通なのかもしれないね。承認はお金みたいなもので、いつだって支払いばっかりで収入が少なくて苦労するけど、好きなだけ手に入れたいからって偽金作りに手を出しちゃ駄目なんだよ」

 来海は穏やかに、しかし情をのせて語る。狩科は黙って聞く。聞いてもらえることを分かった来海は話を締める。

「キョンタンはさぁ、承認というか、相手に好意を与えることが多くて、好意を受け取ることが少ないんだな。収入と支出を安定させるの必要なのは二つ。愛を与える人を絞り込むことと、自分を信じて他人から愛を受け取ること」

 来海は言い切った。

 当の狩科には、気にかけている深津から好意を受け取るのも難しいのに愛なんて遠い話だと思われた。

「あの人に好かれるのも難しいのに、愛をもらうなんて、無茶だよ」

 来海が身を乗り出す。

「ここにいるじゃん」

 そう言って、狩科の目の前にいる唯一の女性である来海は微笑みを作って顔を寄せる。

 ここにいる、とは、つまり、来海のことだ。狩科はそう理解した。

 言葉は理解したが、心が追いつかない。

 狩科は上半身を引いた。

「そういう話かなぁ……」

「キョンタンがどう聞き取ったのか分からないけど、それもアリだし、そんなに外したことは言ってないと思うんだな」

 来海はいつもの不適な様子に戻っている。そう、いつものペース。

 狩科は、いつものペースに甘える。

「それで解決するのか、いまいち分からないけどなぁ」

 いつものペースに戻った二人は、その後はくだらない会話をした。

 会話が終わったとき、狩科は、自分が他人の話を聞ける心理状態になっていることに気づく。

「来海さん、ありがとう。話をできて楽になったよ」

「そうでしょ。抱え込むとつらいよ」

 狩科は、来海に感謝しようとして、これから彼女を裏切ろうとしていることに後ろめたさを覚える。

 気が楽になった自分は不埒なことを考え始めていたから。

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