2-3 高揚感は、煙草の煙が部屋の空気に溶けるように消えた

「Aさん、お二人が会っているのはどんな場所ですか?」

 スピーカから流れる声にAさんはためらいがちに答える。

「カフェテラス……屋外の席です……」

 続けてスピーカから声が流れる。

「Bさん、お二人が会っている時期はいつ頃ですか?」

「今年の五月です」

 狩科は臆せず答える。

 質問はなおも続く。

「Aさん、お二人はなにか飲み物を飲んでいますか?」

「はい……」

「それはなんですか? お二人の飲み物をそれぞれお答えください」

「私が紅茶で……伊里弥……千波さんがコーヒーです」

「Bさん、違っていたらおっしゃってください」

「いいえ、違いません」

 Aさんはずっとためらいがちに、狩科はいつもきっぱりと質問に答える。待合室で見せた様子とは逆転しているのが狩科には面白い。

 狩科は試験の構図を理解する。

 別の人間のある日の出来事を回想しているのだ。

 今、自分は、自分とは別の人間になっている。

 狩科は、この日を、どれだけ待ちわびたことだろう。

 狩科にとって自分は小さく、そして薄汚い。他人の方がよほど立派だ。だが現実に他人になることはできない。

 その秘めた夢を、MECは、今、現に、叶えている。

「Aさん、千波伊里弥さんは佐上優希さんとしばらく会っていなかったと思いますが、千波伊里弥さんはどう答えましたか?」

「大学で……重たい課題が出されたからだと……。徹夜したとも言っていました」

「Bさん、千波伊里弥さんは佐上優希さんになにかたずねましたか?」

「はい」

「どうたずねましたか?」

「優希の方が忙しいんじゃないのか、とたずねました」

「Aさん、合ってますか?」

「合ってます……」

 脳裏に浮かぶ映像に沿って質問と応答が続く。

 狩科の心中に、自分が別人になっていることの高揚感が満ちる。

 しかも、これほど美しい人と二人きり、しかも実に親しげなワンシーンを繰り広げている。

 なんという役得だろう。MECの臨床試験に参加してよかった。

 MECが見せる記憶の中の千波伊里弥は、落ち着き払っていて、女性に臆することなく軽口をたたく。狩科がいつも横目にうらやましく見ていた、同世代の青年の振る舞いをする。こんな人間になりたいとずっと思っていた。そして今は自分がそうなっている。

 試験の間、Aさんは落ち着かない様子で答え、狩科は自信を得ていた。楽しい時間が経つのは早く、あっという間に今日の試験の終了時刻が来た。

 狩科の脳裏に声が流れる。

「Memory Extended by Computerトランスレータ、ベースシステムとの接続を終了します…………ベースシステムとの接続を終了しました。これから脳との接続を終了します。以上を持ってシステムは終了します」

 そして脳内が静かになる。

 狩科は、幸せな一時を作ったMECに感謝する。

 満ち足りた気分でいると、目の前のAさんは驚いた様子で狩科を見ていた。彼女は小さく声を漏らす。

「気持ち悪い……」

 狩科の高揚感は、煙草の煙が部屋の空気に溶けるように消えた。

「いろいろあると思います。でも、MECの記憶がなくなった途端、僕の顔を見て気持ち悪いって…… 僕、やっぱり、気持ち悪い人間ですよね……」

 狩科は精神科の診察室で精神科医と向かい合っている。試験終了から三十分待たされたのは、おそらく、Aさんが先に問診を終わるのを待っていたのだろうと狩科は想像した。

 精神科医は穏やかに告げる。

「ここはあくまでMECで精神に悪影響が出ていないか確認するための問診で、カウンセリングをする場じゃないんだけれど、あえて言うなら、全ての人が自分を気持ち悪いと思っていると考えるのは認知の歪みだから、そう思わない人もいる、と考えた方がいいよ」

 精神科医の助言に狩科は落ち込む。

「心理学の本はみんなそう書いてありますけど、そう考えられたら簡単ですよ。そうはいかないから苦しむのに」

「楽な道はないからねえ」

「ハァ……」

 Aさんの一言は、その日に狩科が眠りにつくまで尾を引いた。

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