1-4 場合によっては臨床試験不適合を意味する

 狩科が人間ドックに案内されたのは十日後だった。附属病院に向かうと看護師に案内された。身長、体重、血液検査に尿検査。まだ大学生の狩科は、会社従業員が受ける健康診断を経験したことがなく、勝手がよく分からない。薄い水色の、ホテルのパジャマにも似た検査着も、こんなものかと物珍しく見ている。そう言えば血液検査なんて何年ぶりだか。前回の検査の結果を知らないから良くなったのか悪くなったのかも分からない。でも、別にそれでいいでしょ、と深く追求しなかった。

 そんな狩科も、一ヶ月半後のMRI検査では、注意事項の多さに驚いた。強い磁気を当てるので、心臓のペースメーカーどころか、骨折したところに金属製のボルトが入っていても検査は不能。検査ができなければMEC臨床試験の被験者から漏れてしまう。注意事項を読み終えたとき、それが意味するものに背筋が寒くなった。大きな怪我をしなかった過去の自分の幸運に感謝した。実際に検査を受けると、MRI装置が上げるうなり声に、秘密組織の拷問装置ってこんな感じだろうかと不埒な想像をしたのは検査技師に言わなかった。

 精神科医による問診を受けたのは、それから二週間後。

 場所は本物の外来精神科の診察室。呼び出されるまで待合室で待つ。他に座っているのは普通の患者たち。

 今は大病院ならどこでもそうだろうが、受付をすませると番号を印刷された紙を渡され、ディスプレイと館内放送で番号が呼び出されるのを待つ。特にここは精神科である。名前で呼び出すと個人の病歴情報が漏れるという点でよろしくない。だから名前は伏せられる。

 自分が番号で呼ばれるモノになる。そのことは、いつ来ても、いい気持ちがしない。狩科は嫌なことを思い出し、陰鬱とした気分になる。

「二十四番の方、三番診察室にお入りください」

 狩科は手元の紙を見た。最初に見たように二十四番と印刷されていた。彼は席を立った。

 三番診察室の扉を開けて中に入り、扉を閉めたところで名を名乗る。

「狩科恭伽です」

 机の脇に座る、白衣を着て眼鏡をかけた男性は、穏やかな微笑みを浮かべている。

 精神科医はいつもそうだ。患者を警戒させると治療に結びつかない。熟練の精神科医は究極の営業スマイルを身につけている。

「狩科さん、どうぞおかけになってください」

 トゲのない誘いかけを受けて、狩科はなんの緊張もなく会釈をして、患者の席に座った。

 面談は淡々と進む。近所のおじさんと大学生が世間話をしているような他愛ない空気が流れる。

 その風景は、精神科の診察室だというのに、のどかすぎた。

 精神科医はなんの気負いも見せず狩科に問いかける。。

「君、精神科医に慣れてるね。普通はもっと緊張するものだけど」

「初めてじゃないので……ッ」

 気楽に問われて気楽に答えた、自分の言葉の危険性に狩科は気づいた。

 精神科通院歴の存在。

 場合によっては臨床試験不適合を意味する。

 それを答えてしまった以上、もう取り返しがつかない。

 狩科は、それまで精神科医に向けていた目線を横に逸らし、静まれ静まれと深呼吸する。彼には、精神科医の笑みが、罠にかかった獲物を見る猟師の笑みに見える。その思いが、狩科自身のやましさから感じられたものであっても。

 精神科医は目の前の青年が落ち着くのを待って、柔らかいトーンで厳しい言葉をかける。

「そのときのこと、話してくれるかな?」

 狩科は精神科医の顔を見た。精神科医が今までと変わらず微笑みを浮かべている。彼は観念し、目を落として、過去の恥ずかしい話をおずおずと語り出した。彼の細い肝っ玉では隠し立ても強弁もできなかった。

 これで終わった。試験の対象者から漏れた。彼はそう思って診察室を出た。

 予想に反して「健康状態:臨床試験に適合。臨床試験への参加・不参加の希望を返答願います」という通知が届いたのは十日後だった。暦は七月。季節では梅雨が明けていた。

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