第22話 かけ(前)

 伊藤家現家守の市十郎は隻腕せきわんである。

 幼い頃に落馬をした結果、左肘から先を欠損けっそんした。


 嫡子ちゃくしとしての資格を失い、生家から出されてしまった。

 それは仕方のない話だ。

 実際、正しい判断だと今では思っている。

 ただ、今よりも若い頃は身持ちを崩しがちであった。


 出された家が大きな商家なのでお金には困っていないのだが、そういう理由であまりせびってばかりもいられない。

 何故ならば、優秀な血の繫がらない弟に負担をかけていることで肩身の狭い思いをしているからだ。

 そこで、懐が寒くなると将棋で小銭を稼いでいた。


 市十郎は二十も半ばを過ぎても独り身であった。

 お互いを慰めるためだけにしとねを共にする、子持ちの年増のところにフラリと転がり込むようなしょうもない人間だった。

 現在はその女と所帯を持っているが、そのきっかけは宗看――当時まだ印寿のおかげであった。


 ねんごろな女に金を集らないのは市十郎に将棋の才能があったから。

 他人のヘボ将棋を観ていて、どうしてこんな手を指すのだろうと不思議に思っていた。

 素人は二手先も読めていないのだ。

 即ち、自分が指した手で相手がどんな応手をするのかも見えていないのである。

 相手はこんな手を指してくるから、自分はこう指そうと予測しておく。

 つまり、三手先を読む事を心掛けるだけで、市十郎は勝つことができた。

 ある時、段持ちというお侍と将棋を指す機会があった。

 将棋家から初段の免状を授けられていると豪語ごうごしており、確かに手強い相手だったが、市十郎は辛勝する事ができた。

 指運ゆびうんが味方した面はあるが、三番指して三番とも勝てた。

 それ以来、市十郎は二段を名乗っている。

 初段に勝てたのだから二段だ。

 飛び級で三段を名乗らないだけまだ謙虚けんきょであろう。


 ――そんな思い上がりを宗看が叩き潰してくれたのだ。


   +++


 宗看=印寿との初対面は風呂屋の二階だった。

 当時は混浴だったので――実際には暗くてあまり見えなかったようだが――一階の風呂場を冷やかしながら将棋を指す人間が多かった。

 市十郎もそんな人間の一人だった。


 印寿は人目を引く偉丈夫だった。

 腕組みをして黙っているだけでも他者に威圧感を与える体躯たいく

 骨が太いのだろう、それに伴って胸板も厚い。

 脚も丸太のようである。

 以前、東大寺で見た金剛力士像のような雰囲気があった。

 当時の印寿はまだ十代だったが、市十郎は三十路みそじを超えているだろうと判断していた。

 それくらい貫禄かんろくがあったのだ。


 市十郎は将棋を指すために待っていた。

 風呂屋の二階は薄い茣蓙ござの敷かれた板張りだった。

 印寿はドシンと音を立てながら、市十郎の前に腰を下ろした。


「アンタが市十郎さんか?」

「……そうだけど、誰さんです? 以前どこかでお会いしましたっけ?」


 市十郎は初対面だと分かっていたが、あえてとぼけてみせた。

 市十郎は賭け将棋で金を稼いでいる。

 そこで一つの真理を学んだのだ。


 自分よりも強い相手に頑張っても仕方がない。

 何故ならば、自分よりも頑張って鍛錬しているから強いのだ。

 そんな奴相手に、何の準備もせずに挑むなんて愚かしいのだ。

 そこで、市十郎は勝てる相手からうまくむしることを覚えた。

 熱くなって頭に血がのぼり、実力も大したことのない相手こそがかもである。


 その際に忘れてはならないのは『侮られる』こと。

 侮られても侮るな――これが真理であった。


 そういう意味で、風呂屋二階のちんけな賭場とばはかなり市十郎好みであった。

 大金が行き交うことはないが、強敵がたむろしていることもない。


「アンタ、将棋が強いんだってな。俺も腕に覚えがあってな、少し指してみないか?」

「構わないけど、せめて名乗らないかい?」

「……印寿。伊藤印寿だ」

「伊藤印寿?」


 名字があるということは武家か――と考えてから、そこでひとつ思い出したことがある。

 聞いたことがあるのだ。


 鬼のように強いという将棋家の話を。

 魂を注ぎ込んで将棋に打ち込む天才の話を。


「……旦那が伊藤家の、へー」


 感心したように言っていたが、市十郎はどうやって逃げようとしか考えていない。

 どう考えても勝てる相手ではない。

 その市十郎の心理を読み乗ったのか、印寿は苦笑する。


「安心しろよ。平手では指さないから」

「駒落ち将棋ですかい」


 駒を落とすことで実力を対等にする。

 しかし、おそらくは、多少駒を落とした程度でどうにかなる実力差ではない。

 そもそも、印寿は自分が勝てる程度にしか駒は落とさないはずだ。

 たとえば、相手が玉以外の駒を全て落としてくれれば市十郎でなくとも間違いなく勝てる。

 お金を賭けようとしているのだから、そこの交渉は非常に厳しくなる。

 平手で公平なのだから、駒を落として対等にするという仕組み自体が非常に難しいのだ。


「あっしとしては勝ち目のない勝負はしない主義でね」

「二段を自称しているそうじゃねぇか。俺は六段だから角落ちが対等だと思うんだが」


 勝てるわけがない。

 そのくらいのことが分からないほど馬鹿ではない。


「大昔、将棋家の人間と指したことがあるんですよ、あっしはね」

「へー、誰だ」

「印達さん」

「……兄上か」


 印寿は不敵な笑みを浮かべる。


「強かったろ」

「ええ、鬼のように」

「いいや、鬼のように強いのは俺だ」


 兄を超えたと言いたいのだろうか。


「兄上は俺よりも強かったからな」

「はぁ……」


 そのあたりのこだわりはよく分からないが。

 実際、凄まじい天才だったのは間違いない。


「で、兄上にはどんな手合いで負かされたんだ」

「飛車角落ちでしたねぇ、確か」

「なら、俺は更に香車も落とそう」


 兄の方が強いと言っていた割に、印寿はそう譲歩じょうほしてきた。

 気がつくと人集ひとだかりができていた。

 皆、興味深げな様子でこちらを見ている。


「ふむ……」

「不服かい、この状況でも」


 おいおい前あんな偉そうな口を叩いていた癖に逃げるのかよいやいや受けないわけがないだろう恥知らず勝てる相手しからないのかよもう二度と敷居しきいまたぐなお前の風呂屋じゃねぇだろ……。


 周囲の人間は口々に言っている。

 好き勝手に。


「それに、お前さんに朗報だ。おまえさんが負けても俺は金は受け取らん」


 印寿が提示してきた額は一月も遊んで暮らせるほどだった。


「将棋家ってのは裕福なんですかい?」

「いいや、俺に出せる上限額だと思ってくれ。最近、家守が家賃を滞納しがちで困っているくらいだよ」


 市十郎の中の警戒感が最大限の警鐘を鳴らした。


「それで金を受け取らんなら、何のために指すんですかい?」

「なぁに、ちょっとした提案があってな」

「提案?」

「ま、四枚落としても俺の方が勝ち目はあると思っているんだよ。負けないなら関係ない」


 さすがにそれは舐めすぎだ。

 だから、市十郎は「どうぞ」と手で示す。


「指しましょうか」

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