第12話 空蝉

 それは燃えるような太陽が照りつける日であった。

 打ち水の効果も薄れるような盛夏せいかだったが、印達の周りだけは気温が低下しているようだった。


 顔が青白い。

 そして、ゆらゆらと陽炎かげろうのように体が揺れている。


 それに対し、庭の松に油蝉が止まり、生命の喜びを表すような鳴き声が響いていた。

 最早、印達は蝉の鳴き声を耳障みみざわりだなとも感じなくなっている。

 チラリチラリと視線を庭に動かしながら、弟の印寿は朗らかに言う。


「兄上、将棋なんて面白くありません」


 今にも庭先に飛び出しそうである。

 走り回りたくて仕方ないと顔に書いている。


 印寿は数えで七つになっていた。

 反抗期というわけではないのだろうが、達者たっしゃに口答えするようになっていた。


 将棋には忍耐力が必須ひっすである。

 だから、幼い頃にはなかなか辛いものがある。

 印達自身はその辺で苦心くしんした事などないが、そう言いたくなる気持ちも分からないではない。

 好きではないのなら、苦行となるのも仕方ないのだ。


 柔らかく含めるようにして印達は言う。


「そうかもしれないね。でも、私達は将棋のお家だからね」

「勉強が大切な事は分かっております」

「では、頑張ろうね」

「ですが、こんな良い天気にせみを捕まえないのは人として間違っていると思うのです」

「ふむ、そうかもしれないけどね」

「兄上は将棋が楽しいですか」

「さて、どうだったか」


 本当に分からなかった。

 そもそも、楽しいかどうかで将棋を考えた事などなかった。


 鳥が空を飛ぶ事に悩むだろうか?

 虎は自分の爪や牙に悩むだろうか?


 印達にとって将棋はそれと同じようなもので、生まれた時から生活の一部だった。

 人生から切り離す事はできない。

 いや、切り離してしまうと自分ではなくなるのだ。


 印寿は印達の存在があったので将棋の稽古けいこを強要されなかった。

 しかし、思い返すと印達自身も強要されてきたわけではない。

 それは自分から求めていたものと、父から求められたものが一緒だったからだろう。

 強要する必要もなかったのだ。


 それがこんな幸せな事だとは思わなかった。

 今だから心底そう思える。


 そんな印達の考えを知ってか知らずか、印寿は外を見ながら言う。


「もっと外に出ましょうよ。日に当たらないと元気になりませんよ。見て下さい、あの向日葵ひまわり。お日様の下にあるからあんなに成長しているのです!」

「ははは、そうだね」


 これでも心配してくれているのだろう。

 印達がゴホッと鈍い咳をすると、印寿は「ほら」と勝ち誇ったように言う。


「兄上も少しくらいは木刀を振りましょう! 元気になりますよ!」


 印達は布団の上で苦笑する。


「はは、私の腕では木刀に振り回されるよ」

「そんな事ありません! どんな努力もはじめの一歩が肝心かんじんなのです!」

「ははは、そうかもしれないね。じゃあ、お前の嫌いな将棋もその一歩が肝心だとは思わないかい?」

「むー、別に嫌いではありません」

「そうなのかい?」

「ただ、もっと身体を動かしたいだけです」


 印寿は兄に似ず、見るからに身体が丈夫だった。

 七つとは思えないほど骨格もしっかりとしており、体重だって弟の方が兄よりも重いかもしれない。

 弟と相撲をしても、今の印達では勝てる気がしない。


 印寿に労咳が感染うつる危険性はあったが、印達の所で勉強がしたいと駄々だだをこねるので、毎日少しの時間だが一緒に勉強するようになっていた。


「さぁ、印寿、これは何かな」

「はい、兄上。詰将棋です」

「解いてみようか」

「むう」


 印達はさらりと詰将棋を作って見せた。

 いかにも簡単に作ってみせたが、それは即興そっきょうである。

 その出来栄えを見れば、父の宗印なら感嘆の息を漏らしたであろう。


 無駄駒むだごま一つない、完璧な十一手詰めの詰将棋を即興で作ったのである。

『握りづめ』と呼ばれる高等技術だが、それがいかに常人離じょうじんばなれした技なのか、眼の前の弟は気づいていない。


 そう、繰り返すようだが、それはなのだ。

 印達は偶然摑ぐうぜんつかんだ駒だけで詰将棋を創作することができた。

 まるで小鳥が歌うようにあざやかだったため、印寿はその凄さが理解できなかったのである。


 人は時として、あまりに高すぎる山を見えないものとする。


「では、この玉はどうやって詰むか分かるかな」

「むむむぅ」


 十一手の詰将棋に起きうる局面はどれだけあるのか?

 単純計算だが、仮に一手につき十通りの手があるとする。

 すると、十一手先に起きる変化は十の十一乗……つまり、千億通りにも及ぶのである。

 印寿が偶然この答えに辿り着く事はありえない。


 実際、印寿はうーんと唸り始めた。

 印達としては、この問いが解けるかどうかは問題でないと思っていた。

 解こうとして本気で盤に向き合えるかどうかが問題なのだ。

 分からなくとも考え続けられる才能が将棋には必須であり、弟にもその素質があって欲しいと切に願っていた。


「兄上」

「分かったかい?」

「素振りに戻ってもよろしいですか?」

「はは、もう少し考えてからにしなさい」


 駄目か。


 印達は密かに落胆する。

 ここで向き合えないという事は、素質に欠けているのかもしれない。


 兄の贔屓目ひいきめかもしれないが、印寿には素質があると思っていた。

 駒の動かし方はひと目で覚えていたし、こちらが指導すれば手応えのようなものを返してくれる。

 ごくまれだが、印達がはっと目を見開くような指摘をする事もあるくらいだ。


 それに、もしも、自分に何かがあれば次男の印寿が跡継ぎになるのだから……そう想ってしまうのは切実さの込められた期待故であった。


「兄上、詰まらないです」

「難しいかい。じゃあ、一緒に考えてみようか」

「いえ、詰まらないのです」


 そこで印達は気付く。

 詰まないではなく、詰まらないと言ったのか。

 ここは将棋家の者として心得こころえを授けるべきなのだろう。

 居住いずまいを正して、説教に入ろうとした印達に印寿は言う。


?」


 ――と。


 印達は何を言われたのか、すぐには分からなかった。

 意味が分かってから自分の耳を疑う。


「え? 今、何を言ったのだい」

「こんな簡単な詰将棋は詰まらないのです」


 むぅとばかりに口を曲げている印寿。

 印達はまさかと思いながら訊ねる。


「解けたというのかい」

「はい」

「……本当に? そんなすぐに?」


 その言葉に腹を立てたのか、印寿は物も言わずに駒を動かし始める。

 桂馬と馬を捨てて、槍が突き立つ構成を見事見破り、印寿は十一手詰めを解いた。

 数えでまだ七歳の少年が、呼吸数回程度の短時間で、解答に至ったのだ。


 印達の呼吸が止まる。

 呼吸の仕方を忘れる程の衝撃を受けていた。


 印寿はやはり詰まらないとばかりに表情が変わらない。

 本当に、言葉通りの意味でしかないということだった。


「これで間違いありませんよね」

「……嗚呼ああ


 それは同意をしたわけではなかったが、印寿はそうでしょうとばかりに頷く。

 まさか、あっという間に解いてしまうとは。


「大したものだ……」

「そうでしょう」

「いや、驚いたよ……」


 得意気な印寿を見ながら、印達は感嘆の息を漏らす。

 それは称賛が多く含まれたものであった。


 鬼才異才天才と名声を一身に受けていた印達が弟の才能にため息を漏らしたのである。


 もちろん、玉磨かざれば光なしということわざは真理だが、天与の才能はやはり重大だった。

 高い山に登るには努力だけでは不足なのだ。

 天才が努力するからこそ、凡人が到達し得ない結果を残す。


 そして、天才と呼ばれる印達から見ても、印寿は見た事のないほどの才能を秘めた原石なのかもしれない。

 宝石のような、宝物のような……ただただ眩いばかりの才能に印達は目を細める。


 それは笑い顔にも泣き顔にも似ていた。

 印達は細い腕で印寿の頭を撫でる。

 印寿はくすぐったそうに身をよじる。


「兄上、詰将棋が解けたので、ちょっと庭で稽古をしてもよろしいですか」

「ああ……好きにしなさい」


 いつの間にか、油蝉はどこかへ飛んでいっていた。

 高い空へ向かって飛び去ったのだろう、と印達は思う。


 木刀を振っている弟に向かって、印達は呼びかける。


「印寿」

「はい、兄上」

「きっとお前は将棋の名人になるのだろうね」


 印寿は口を曲げて言い返す。


「それは兄上の仕事ではありませんか」

「ははは、そうだったね」

「宗看の名を継ぐと言っていたではありませんか」

「うん」

「八重ちゃんを幸せにする、とも言っておりました」

「……さて、なんのことか」

「わたくしは確かに聞いたのです」

「さてさて、難しいことを言う」


 印寿は半眼はんがんで呆れたようにため息を吐く。


「そもそも、わたくしは将棋が好かんのです」

「僕は、嫌いだと思う事もなかったなぁ」

「そんなに好きなら良いではありませんか。わたくしは剣の達人になってみせます」

「ははは、そうかい。そういえば、昔、赤穂浪士になりたいと泣いていたね」


 印寿は頬を赤くする。


「うー、兄上は幼い頃のことをしつこいです!」

「すまないすまない」


 印達は、ハハハッと笑う。


 将棋なんて余計な事をしている時間はないとばかりに、印寿は素振りを再開した。

 ねた表情は七歳の年相応に幼い。


 弟のに耳を傾けながら、印達は柔らかく微笑む。

 安心したとばかりにうとうとと午睡ごすいしながら、布団からほとんど出られなくなっていた印達は夢を見た。


「あにうえー、寝ているではありませんかー」


 正徳二年(一七一二)八月。

 暑い夏が見せた幻のような夢。

 それは久しぶりの悪夢ではない夢。



「まったく、兄上は本当に体力がない……わたくしが稽古をつけてあげるしかありませんねっ」



 誰も解けないような素晴らしい詰将棋の作品集を作る、弟の成長した姿だった。





 ――伊藤印達がのは、それからおおよそひと月後のこと。


 享年十五。

 鬼才としか言いようのない、将棋への才能と情熱。

 五十七番に及ぶ『争い将棋』にて、きらめくような棋譜を後世に残すが、真の意味でその才を花開かせることなく散る。

 夜空に咲く、大輪の花のような生涯であった。

 

 伊藤印達は薄命な鬼才として将棋史にその名を刻み込んだ。

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