第8話 敗北の痛み

 印達と宗銀の『争い将棋』は続いていた。


 印達は宝永六年(一七〇九)十一月一日からの三連戦をすべせいす。

 一日空いて十一月五日に行われた対局は宗銀の勝利。

 第八局まで指して印達の六勝二敗。


 『指し込み制』はどちらかが四連勝した時点で手合いが変更になる。

 宗銀はあやうい所で指し込まれる事態じたいを避けていた。


 しかし、その抵抗も遂には限界が訪れる。

 第九局から印達は四連勝し、宗銀を半香はんきょう上手うわて平手ひらてと香車落としを交互に指す)に差し込む。


 この流れは変わらず、印達は宗銀を圧倒し続ける。

 結果、十局のはずだった『争い将棋』は予定をゆうに通り越す。

 第二十六局目からは手合いが定香(常に上手うわてが香車を落として指す)に、第三十七局目からは角香(上手うわて角行かくぎょうと香車を交互に落として指す)にと、印達がその力を示し続けた。


 もう少し分かりやすく言えば、印達が勝ちまくっていたのだ。


 角香落ちは三段の実力差とされている。

 印達も宗銀も同じ五段である。

 将棋は一対一の対人競技であり、運が介在する余地がない。


 同段位の玄人同士でここまで差がつく異常事態が発生していた。


 この理由は印達の

 いや、上達などと簡単に片付けてはならない。

 開始当初、二人の間に大きな実力差はなかったはずなのだ。

 この印達の鬼の如き強さは、まるで何かに取り憑かれているかのようだった。


 最初は十局程度とされていた『争い将棋』が続いたのはそのせいだ。


 誰も止められない程、圧倒的に差が生じたから。

 宗銀は屈辱をそそぐために止められなかったし、印達も中途半端に断る事ができなかった。


 ちなみに、第三十七局が行われたのは宝永六年(一七〇九)十二月十八日である。

 つまり、わずか七十日間で三十七試合も行われたのだ。

 これは年間に換算するとおおよそ一九二試合に相当する。

 更にはその間に、御城将棋や練習将棋、道場で門弟との将棋など休みは皆無。

 過密日程という限度を超えていた。


 余談であるが、参考に近代将棋の記録を紹介しよう。

 年度間で最も多く将棋を指したのは、89局(2000年度)の羽生善治五冠(段位は当時のもの)。

 比率として、その二倍以上もの対局を、短い期間に行ったことになる。

 

 疲労困憊ひろうこんぱいながら印達は実力を発揮し続けた。

 いや、むしろ、この荒行あらぎょうめいた『争い将棋』が、彼の才能を本格的に開花させていた。


 そして、泥沼どろぬまめいた死闘しとう、終わりの見えない戦いに陰りが生じたのは、この頃からであった……。


   +++


 負けた、負けた、負けた!

 五連敗だった。


 発狂しそうな負けである。

 血反吐ちへどを撒き散らしそうなほど悔しかった。


 ぐぬぬぬ、とは歯ぎしりをしながら苦しんでいた。


 年が明けても印達は将棋三昧しょうぎざんまいの日々であり、目の前の将棋盤には負けた対局が再現されていた。


 後悔は不要だが、反省は必要だった。


 そもそも、印達はどうして負けたのか分析せずにはいられない。

 次に勝つため、敗因を自分なりに検討し、次の『争い将棋』に備えようとしていた。

 いや、そうしなければ、自分に対する怒りで狂いそうなほどだった。


『勝ちたい、勝ちたい、勝ちたい』


 将棋に負けることは苦しい。

 この世でこんなに苦しいことが他にあるのか、と思うくらいに辛い。


 自尊心じそんしんが傷つく感覚は直接肺腑ちょくせつはいふえぐられるに等しく、運の要素の存在しない将棋で敗北する事は、自分の存在を全否定されているような錯覚さっかくおちいる。


 誇張抜こちょうぬきに、憤死ふんししそうになるのだ。


 しかし、将棋を指さないなんて選択肢は存在しないのだった。


 将棋を指して勝つということが楽しいのではない。

 もちろん、勝利は楽しいし、嬉しいものだ。

 しかし、それはあくまでも結果である。


 強敵と『将棋を指す』ことそのものがあまりにも素晴らしい行為。

 全力で燃え尽きるほど深く自身を捧げる幸福。

 少なくとも、印達にとって将棋は人生そのものと言えた。


 その時、印達と宗銀の『争い将棋』は既に四十五局にも及んでいた。


 その時の手合いは印達が角香混じり落ちの上手うわて

 同段位の強敵相手に、角行か香車を落として指すのだから、いつも勝ってばかりというわけにはいかない――という理屈は分かるが、だとしても五連敗を食らった印達ははらわたが煮えくり返っていた。


『勝ちたい、勝ちたい、勝ちたい』


 ――どうしてあんな手を指してしまったのか。


 その時の印達は第四十一局目の、香車を見落とした手を目から火が出るほどいていた。

 寝ても覚めてもどうすれば勝ち筋があったのかを考える。


 熱がもりすぎて興奮が最高潮に達した印達はゴホゴホと咳き込みながら反省する。

 角落ちとはいえ、あまりにも一方的な敗北で調子を崩してしまっていた。


 元々身体の弱い印達は一度体調を崩すと長引く。

 しかし、復調ふくちょうするための時間的余裕が現在の所、皆無かいむであり、更に、精神的打撃もっていた。


 しかも、五連敗の結果、定香にまで手合いが戻っていたのだ。

 二段差という手合いは宗銀こそ不本意だろうが、印達はただただ負けることをいとう。

 勝負師としての矜持きょうじである。


 負けない、負けられない、負けたくない。

 負けるくらいなら死んだ方が良い。


 将棋の敗北は死と同じくらい辛い。

 実は四十五局目が終わった時、寺社奉行の本多忠晴ほんだただはるが争い将棋の中止をうながしてきた。


 ある程度実力がはっきりとした今、これ以上指し続けても仕方ない。

 正論だった。


 負けが重なり続けていた宗銀も五連勝し、多少なりとも実力を示した。

 印達は確かに現状五連敗中だが、そもそも、角か香を落として指した将棋の敗北なのだ。

 宗銀を定香落ちにまで追い込んだ。

 二段という実力差は十分満足すべき結果のはずだった。

 非常に切りの良い時機だったのだ。


 本多忠晴の客観的かつ冷静な意見だったが、名人である大橋宗桂はその提案を断り、続行を決断する。

 当然だろう。

 総合した成績でいえば圧倒的に息子が負けているのだから。


 それは正論を超越ちょうえつした結論。

 勝負師なら誰もが頷く選択だった。


 宗銀としては安心しつつも勝利への重圧で怯む面もあった。

 駒を落とした将棋の下手したては、そういう意味で負担がある。

 有利なのだから勝たねばならないという重圧は人を臆病にする。


 それに対して、印達は続行を聞いて純粋に安心していた。


 ――まだ指せる。

 ――こんなところで止めてなるものか。


 勝負の世界は、勝ちと負けで雲泥の差だ。

 二番と一番は天地ほども違う。

 だから、圧倒的に叩き潰すまでは止められない。


『勝ちたい、勝ちたい、勝ちたい』


 ……そもそも、圧倒的に印達が勝ち越しているのだ。

 現時点で平手の対局は十八戦あったが、印達はその内十四勝している。

 勝率77.8%――異常な勝ち越しだ。


 この時点で、印達の方が宗銀よりも遥かに強いという事が証明されている。


 しかし、とんでもない負けず嫌いである印達は満足できない。


 ただ一敗するだけでも腹の底が気持ち悪くなり、汚泥おでいのようなものが溜まってくる感覚に襲われる。

 息が苦しくなり、勝利をかつえる。


 しかし、勝利に満足するという事もない。

 ただただ負けたくないという執念だけが彼を突き動かしていた。


 線の細さからは想像もできない病的な負けず嫌い――それこそが印達の強さを支えていた。


 くだんの寺社奉行が『争い将棋』の中止を言い出した理由はそこにあった。


 異常事態だったのだ。

 誰がどう考えても。


 元々丈夫ではない印達は病的に痩せこけていた。

 服を脱げば、肋骨が浮いているどころか、背骨の形すら分かるほどせていた。

 印達は小柄な方だったが、遠目には背が高く見えるほどである。


 栄養状態が悪いわけではないが、印達は食事で眠くなる事を嫌がり、段々と食が細くなっていた。

 十三歳の少年とは――成長期とはとても思えない。


 その結果、勝利にえた幽鬼ゆうきのような容貌ようぼうになっている。


 それでも印達は止まらない。


『勝ちたい、勝ちたい、負けたくない、負けたくない、負けたくない、負けたくない、負けたくない、負けたくない、負けたくない、負けたくない、負けたくない、負けたくない、負けたくない、負けたくない、負けたくない、負けたくない、負けたくない、負けたくない……』


 それは言葉にもならない、純粋な想いの発露はつろ

 家族に何を言われても、将棋を指し続ける。


 伊藤家の一室。

 穴蔵のような、薄暗い部屋の中。


 ゴホゴホと咳き込む音とパチンパチンという駒音だけが朝から晩まで鳴り響いていた……。

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