第40話 彼への侮辱は許しません。

 苛立ち交じりの男の声と同時に、掴まれた小暮の手から文庫本が落ちる。


「あっ……」


「やっと反応してくれたぁ」


 小暮が慌てて本を拾うべくしゃがみ込むと、男は嬉しそうに笑みを浮かべた。男の言葉を聞く限り、小暮はナンパ紛いの彼らに対して無視を決め込んでいたらしい。


「なに? やっぱりカレシ待ち? 嬢ちゃんみたいな美人待たせるなんてカスなカレシもいたもんだよなぁ。オレなら絶対そんなことしないのに!」


 気を良くした男はつらつらと語り始める。 


「カスなんて放っておいてオレたちと行こうぜ? な? ぜったい楽しいからさぁ」


 その様子を見て、俺は反射的に間へ割って入らなければと足を一歩踏み出そうとした。


 しかし、それは他ならぬ彼女の声によって阻まれる。


「……っ……ちっ……――――っざいなぁ……」


「……は?」


 背筋が凍るように冷たいその声に、男たちも面食らって動きを止めた。


 それから彼女は逃げるでも、怯えるでもなく男たちを睨みつけるように低く見つめる。


「ウザい。……目障りですよ、あなたたち」


「な、なんだよその態度。さっきからさぁ! 実は俺、すっげえムカついてんだよなぁ!」


「私もムカつきましたが、何か? 彼への侮辱は許しません」


「……っんだとぉ!?」


 いよいよもって激昂する男たち。


 それでも、俺の足は動かなかった。ただ、忘れようとした過去の記憶をまさぐるように、頭だけがフル回転を続けている。


 先ほどの遠野とおのから聞いた話の続きだが、小暮夢乃にはひとつだけ噂が流れたことがあったらしい。


 それは、――――彼女には裏の顔がある。というもの。


 噂の発生源は、たったひとつの目撃情報。小暮が他校のお世辞にも素行が良いとは言えない男子生徒数人と一緒に歩いていたというものだ。


 それは明らかに、学校で目にする小暮夢乃のイメージとかけ離れていた。


 しかしそれから、その噂が進展することはなく時間とともにその話をする人はいなくなった。小暮夢乃は、優等生であり続けた。


 でも。ああ、そうだよな。やっと腑に落ちた。


 彼女のその、見つめる先を射貫くような鋭い真黒の瞳。


 柔らかく笑う彼女だけじゃない。


 俺はその瞳も、知っていたんだ。

 


 彼女は心底つまらなそうに深く息を吐いて、彼らに告げる。


「……生憎、あなたたちの相手をしている時間はないんですよね。彼が来てしまいますので」


 それから思案するように彼女は目を閉じた。


「ではこうしましょうか。3秒あげます。その間にここから去ってください。立ち去るなら、私はすべて忘れましょう。さーん、にー、いーち……」


「はあ……!? てめぇ、何言って――――」


「ぜろ、ですね」


「――――ぐほぉっ……!?」


「去らないというなら、のしたほうが早いですよね。邪魔なので」


 一閃。まさに閃光のように、その脚が男の顔面を蹴り飛ばした。


 さすがの通行人も何人かが足を止める。


「あ、兄貴……っ!? ……っこのアマぁ……!」


 残りの二人が小暮に向かって殴りかかった。


 しかし小暮はそれを羽のように軽い動きでかわすと、回し蹴りの要領で容赦なく二人を蹴り飛ばす。


 一瞬にして、男三人が彼女の前で地に伏した。


「もういいですか? 懲りたのならさっさと消えてもらえると助かります」


「こ、の……っ……!」


「あ、兄貴! ちょっと待ってください! この強さ、……この女もしかして……! ――――ぐえっ!?」


 何かを言おうとした男のうちの一人を、小暮が蹴りつける。


「知っていましたか。……それは少し、面倒ですね。また噂とかにはなってほしくないですし……ううん、これだけ見物人がいたら何もかも遅い、ですね。やっちゃったなぁ……」


 小暮は周りを見てようやく現状を理解したとでも言うようにまた、ため息を吐いた。その顔は瑞菜と会ったあの時以上に青ざめている。


 人通りの多い駅前でのこの騒ぎだ。この話は間違いなく学校まで広がるし、警察だってすぐに顔を出してもおかしくない。


 それは優等生、小暮夢乃の終わりを示していた。


 俺もまた、そんな簡単なことに今更気づく。


「……バカ。バカ。バカ。なんで我慢できなかったの……? これまでずっと、うまくやってきたのに。これじゃあもう……嫌われちゃう……」


 小さな呟きは俺の元まで届かなかった。


 一度、考え込むように小暮は目を伏せる。それから、暗く自嘲的な笑みを浮かべて男たちを見つめた。


「……気が変わりました。とりあえず、私の憂さ晴らしに付き合っていただけますか? 道連れといきましょう……っ?」


「ひ、ひぃ……っ!?」


 その笑みと誘い文句に、ついには男たちが明確に怯えた様子を見せて後ずさる。


 それはどちらの顔にも絶望が浮かぶ、異様な光景。



 対して、俺の頭には葛藤が渦巻いていた。


 あの頃の俺なら、たとえ彼女がそれを求めていないと知っていても問答無用で飛び出して、彼女を助けることが出来たただろうか。


 あの頃の彼女なら、彼らを一掃した後、周囲のことなど気にせず素知らぬ顔でこの一件を終えることが出来ただろうか。


 俺たちは互いにあの頃より、弱くなってしまったのかもしれない。


 張りつめていた糸が切れてしまったかのような、自暴自棄とも思える彼女のその表情を見て愚かな俺はやっと間違いを悟った。


 止める足など、あってはならなかった。


 だから。もう遅いかもしれないけれど。


 重い足を一歩、その渦中へと踏み出す。震える声を絞り出す。


「待て……っ!」


「ゆ……祐樹、くん……?」


 振り向いた彼女の真黒の瞳が映す感情。それは恐怖にも似ている。


「……行くぞ!」


 涙さえ滲ませそうな彼女の手を取って、俺は走り出した。

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