1944年 ミナヱと死後の恋



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 窓を開けても風はそよとも吹かず、蒸し暑い夏だった。少し前から家の中ではイヤな匂いがする。初めは気のせいかと思ったけれど、何日か後には疑りようがないくらいひどくなった。何と言ってもこの気温だ。きっと家の中で何かが腐っているに違いない。そう思って一日に五回も掃除をしているのに、腐ったものがまだ見つからないのだ。

「兄さんも掃除手伝ってよ。買い物も行けないんだから」

 そう言うと兄さんは肩を竦めて、のろのろと物置からバケツを取ってきた。

 私はラヂオをつける。

 党からの発表がなされていた。我が国の軍は南海で敵の空母を3隻も沈めたらしい。連日の大勝利はとても嬉しい。兄さんが「ウソだよ」と言うので私は困惑し、しょんぼりする。鵜呑みにさせておいて欲しいと思った。そのまま意気軒昂な軍歌が続けて3曲も流されたので、おとなしく床を雑巾で拭いていた兄さんはしんどそうな顔で呟いた。

「もっと洒落た曲はないのかな」

「レコードなんか出してきても、お隣さんに聴かれたら大変よ」

「それもそうだなぁ」

 お隣のマキナさんは良いお友達だった。以前はご自慢のお魚の酢漬けをしょっちゅう分けてくださったものだ。昆布とユズがよく効いていて、とても美味しいのだ。

「それより掃除よ。こんな臭い中で生活なんて無理」

「……」

 兄さんは黙った。もくもくと掃除を再開する。この人のやり方は几帳面だ。床もすぐにぴかぴかになるだろう。けれども鼻を刺すような悪臭は消えない。兄さんはあまり気にしていないようだが、私にはそれが耐えがたい。

「床下もあとで見てね。虫とか涌いてたら最悪よ」

「ミナヱがやれよ。おれは蝿が大の嫌いなんだ」

「もう、兄さん男でしょ。頑張ってよ。私は配給へ出かけるの」

「……わかったよ」

 昔の兄さんならもう少し嫌がっただろう。

 最近はさみしい顔で笑うばかりになった。

 兄さんがこの家にいる事は誰にも知られてはいけないし、兄さんは外にも出られない。もっと落ち込んでいても良いだろうに、私に気を使って笑っている。下を向いて雑巾がけをしている兄さんのこめかみや首筋を、汗の滴が伝っている。純粋に悲しかった。兄さんはもしかしたらえらい人になれたかもしれないのに、戦争のせいでこんな風になって。

 身支度を始めるつもりだったのに、心に変な火が灯ってしまった。たまらず抱き着いたら、暑い。べたべたと肌がくっつく。熱がこもる。こすれた熱はぱっと燃える。

 上から抱きついたので「重い」と言われたけれど、兄さんは怒っていなかった。兄さんは私を怒ったりしない。絶対に怒らない。

「ごめんね兄さん」

「何が?」

「兄さんが逃げるのを止めなかった事」

 私は兄さんが戦地で死ぬのをおそれた。父さんは戦死して、母さんはいない。兄さんは元々内心ではこの戦争に反対だったのだ。そんな兄さんまでいなくなるのは耐えられなかった。けれど軽はずみな行動のせいで、兄さんは戦争へ行くよりも不幸な事になったのかもしれない。

 すぐにホコリの溜まる家だ。悪臭もますますひどい。自分の皮膚にまで匂いが移りそうだ。なんでそんな事になったんだろう。


 籠を持って帽子をかぶってから外へ出ると、見慣れた我が家もなんだか煤けていた。

 どこにでもあるような木造の家で、壁は白く塗ってある。けれど白いペンキが古くなって、焦茶色の地が透ける。白い部分も落書きで汚されている。


 黒い家。


 強い日光が照りつけて、ますます暗い。

 外からでも匂いは不快だった。単なる腐臭ではなく、どこか磯臭い。港特有のものだろうか。男が少なくなり、ひどく静かになったこの村での悪臭は、どこか死臭に似ている。

 

 私が出歩くと、女達は囁き合う。

 曰く「兵役を拒否して逃げた男の妹」。

 ──それは事実なので、仕方ない。

 曰く「愛国心の欠片もない女」。

 ──兄さんはともかく、私には愛国心くらいある。

 曰く「婚約が破談になったのはかわいそうね」。

 ──あんな男と結婚せずに済んでせいせいしたわよ。


 切符とお砂糖を交換してから「ありがとう」と言っても、無視された。とはいえ石を投げられないだけマシだった。今年の根平ねべら家はオヒムジ様の担当だ。そうひどい事はされない。集まりには呼んでもらえないけれど、しょせんそれだけなのだ。

 吉富よしとみ家のキヤカさんなどは私を気の毒そうに見る。キヤカさんとは学校で親友だった。キヤカさんに会ったらきちんと会釈する。しかしキヤカさんは泣き出しそうな顔でそっと顔を背けた。

 昔は楽しかったと思い返してみて、けれどもうどうしようもなかった。キヤカさんもマキナさんも、私のお友達であった人は皆離れていってしまった。


 ──だから何?


 そう思おうとしたのに。

 我慢しようとしたのに、家へ帰る道の途中で泣いてしまった。


 帰ったら兄さんに言われた。

「ミナヱはいつも泣いて帰ってくるね」

 慌てて首を振った。

「そうでもないって」

「嘘つけ。昔から泣き虫だったもんな」

 気まずくなった。私は話を逸らした。

「そんな事より、まだひどいじゃないの。匂い」

「ごめんごめん。結局原因がわからなくて」

「うそ。暑いし臭いし、信じらんない」

「案外慣れるさ」

 兄さんってばいつも無頓着すぎる。

 衛生的に良くないに決まっているのに、本を読むのに熱中すると、シャワーを浴びるのも嫌がる。

 私が言わなくちゃ面倒がって髭も剃らない。

 食事も私が作らなきゃずっと何も食べない。

 掃除だけは頼んだらやってくれる。

 頼りない人。

 不甲斐ない人。

 けれど兄さんは誰より優しい。

 頭のいい人なんだ。

 こんな状況になってようやく兄さんと二人きりになれた。

 私にはそれが嬉しいけれど、自分のエゴにはぞっとする。兄さんを日陰者にしてしまっている。

 少し遠巻きにされているだけの私なんかよりも、兄さんの方がよっぽどつらいのだ。

 兄さんの無念を思えばたまらなく辛い。


 朝起きて、二人で食事をして、掃除して、食事して、掃除して、掃除して、掃除して、少し出かけて、食事して、──それから二人でこんな一日の汚濁を洗い流す。それだけの生活。兄さんは頭の良い人なのに。やさしい人なのに。

 こんなところに隠して閉じ込めておいたままでいいの?



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『 牟月朔日むつきついたち

 一年のはじめなので、日記を書き始める。

 新年なので気持ちも一転。

 大みそかは大ワラワ。お料理やら、おソウジやら、母さんと一緒に終始男衆のお世話をしていたので、まだくたくた。けれど今日はカマド神のおやすみになる日。だから家事の必要がない。晴着を着てあいさつをした後は、ゆっくりしていてもよかった。知事の奥様は以前ここの風習を男尊女卑的だとおっしゃってたけどね。男と女で別の仕事があるのは仕方ないことだ。父さんも兄さんもあいつもオマツリのため日の出前から漁へ出ている。



 牟月八日むつきようか

 忙しいからもう一週間日記を書かなかった。

 アキッポイとバカにされる私だが、まさか初日で飽きるとは。

 去年に初学を卒業してからは家計ボと献立のほかにほとんどなにも書かなかったものだから、兄さんすっかり呆れてしまって、この日記帳をくだすったのだ。「毎日書くわ」と私言ったのに、この始末。「ごめんなさい」と謝ったら兄さんは「こうなるのなんてわかりきってただろ」って。ひどい。

 けれどこの日記はとてもかわいい。色はピンクで真紅のカーネーションが表紙に目立つ。初学のときに買って欲しいと母さんにねだって断られたものと同じだ。少し子供っぽいのだけれどもたまらなくかわいい。これまでに持っていたじみなノートと違って、見ているだけでいい気分になる。



 牟月九日むつきここのか

 あいつがまたうちに来た。父さんはうれしがってお酒をたくさん飲んだ。あいつ、再来年には結婚する予定とはいえ、尋常を出たばかりの女を相手に鼻の下を伸ばすなんて頭がおかしいんじゃないか。あと、私だけでなく兄さんにも偉そうだ。学校なんか行かずにすぐ家を継げばよかったのだのなんだのと勝手なお説教。

 私も兄さんも一日ニコニコしていたが、ホントは最低な気分だった。

 私は嫁になんぞ行かず一生兄さんと一緒でいたいけれど、職業婦人をやれる頭の良さもない。親にハンコウする気の強さもないから、諦めた。けれどあんなやつ相手はイヤなので、ケッコンが破談になるおまじないをためしてみた。青いリボンをオヒムジ様の碑へ結ぶやつ。こっそり兄さんに話したら、「父さんと母さんが泣くぞ」って。でも、笑ってた。さすがの兄さんもあんなのをオトウトと呼ぶのはさすがご遠慮願いたいんだろうと思うと、変に面白い。


 

 牟月十日むつきとおか

 ひさびさにキヤカさんがいらっしゃって、お茶とお菓子をお出しする。キヤカさんは、豆の缶詰でスープを作るときは水を入れないのだとお話していて、今度ためしてみたくなる。



 牟月十二日むつきじゅうににち

 今日の日記は、いつものより丁寧に書きます。朝、お洗濯をしながら、ラヂオを聞いたのです。それで、戦争が始まったのを知りました。党の命令で、今年のヒムジ鎮祭はおそらく中止でしょう。せっかくうちが当番の年なのに残念だけれども、お国のためならいくらでも我慢いたします。私たちの生活も苦しくなるでしょうけれども、前線の兵隊さんと比べればきっと平気です。ラヂオは軍歌ばかり流すので、私も嬉しくて歌いました。母さんに音痴だと叱られました。父さんも漁から帰ってきて、実に調子の外れた胴間声で軍歌を歌っていました。親子だなぁと思います。兄さんと母さんはイヤそうにしていました。



 牟月十五日むつきじゅうごにち

 いよいよ兄さんが学校へ戻ってしまうので、またさみしい。「手紙は書くよ」とのこと。けれど兄さんはこういう部分だと信用ならない。毎年そうだ。お友達と遊ぶのが楽しくて、すっかり忘れてしまう。



 牟月十六日むつきじゅうろくにち

 お隣のマキナさんがお魚の酢漬けを分けてくだすって、ごはんがよく進む。



 牟月十九日むつきじゅうくにち

 帰ってから「結婚はイヤです」と父さんに言ってみたら、最悪。どうせ来年結婚するんだから少しくらい許してやれって。減るもんじゃないんだからだって。その辺のおじさんみたいなことをいう父さんにはがっかりだ。一生口をきいてやらないことにした。


 牟月二十日むつきはつか

 父さんが謝ってきたので許す。でも結婚はしないといけない。



  月二十二日

 快進撃。ラヂオは戦場での勝利の報告一色で、わくわく。兄さんは悲観的な事を言ってたけれど。なぁんだ。やっぱり余裕そう。



 猿月十三日さつきじゅうさんにち

 夜ごはんはひさびさに揚げもの。

 潰したお芋に山椒を混ぜてから揚げたら、いつもより美味しい。けれど父さんより母さんより私が沢山食べている気がした。ちょっぴり気恥ずかしい。



 猿月さつき  日

 キヤカさんと町へ行って、髪を切って貰いに行った。腰まであった髪をばっさりやったあと、毛先は内側に巻いた。なんかはすっぱな感じがしやしないかと思ったけど、母さんからは好評。』



御園みそのコレクションから発見されたA4サイズの日記帳。書き手は戦中の少女である。

 表紙の裏側に、4つ折にしたスーパーマーケットのチラシが挟まっていた。水濡れの痕跡有。裏側に鉛筆で『× 日无璽命顕現のイエ』と書かれている。このメモ書は筆跡鑑定の結果、雉矢きじやユキノ嬢によるものと推定された。

 

 



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 鼻の曲がるような匂いは今や家中に匂う気がしてきて、私達兄妹は内風呂を沸かす回数を増やす事にした。昔は色んな人がうちにお湯を借りにきたのだが、今では家族だけで独占している。


 明るい浴室って、なんだか不思議。

 いつもより白い。

 光がきらきらと明るく、普段より何倍も清潔に見える。

 

 ぴったりくっついて入って、兄さんの髭に剃刀を当てる。

 「血が出ないように」と思いながら若干硬い肌へと刃を滑らせ、その感覚に緊張する。兄さんは借りてきた猫のようにおとなしくなった。

 かわいかった。

 兄さんにも私の背中を流してもらう。腐敗臭をたっぷりの石鹸で洗い流してもらう。髪も洗う。

 重たく長い、腰まで伸びた髪。

 見た目はともかくさわり心地は気に入っていて、兄さんにさわらせるときは自慢に思う。

「気持ちいいでしょう? 足の裏に擦り付けて。足指に絡ませて。足を拭う布の代わりに使っちゃったっていいの」

「汚いぞ」

「でも、兄さんが洗濯してくれるでしょ」

 兄さんは黙った。

 しばらくしてから言う。

「……石鹸もそろそろ貴重品だぞ」

「幾らでも用意できるわ。だって……」

 ──何でだっけ?

 目の前が一瞬ぼやけた。

 兄さんの裸体がぼんやりと黒っぽく見えて──、すぐに戻った。

「大丈夫か? のぼせた?」

 気遣わしげな声が尋ねる。

 兄さんの顔はすぐ近くにある。

「大丈夫……」

 

 腐った匂いが消えない。


 ドアを叩く音。


 兄さんを隠れさせて応対に出る。

 いやいやの事だった。

 居留守を使うわけにもいかないと思ったのだ。


 濡れた髪を軽く拭いてから「こんにちは」と出ると、相手はものすごく嫌そうな顔をした。私の方がもっとずっと嫌な気分だ。言わないけれども腹は立つ。

「おじさん、どうしましたか」

 自然と声が尖る。

「ミナヱちゃん……。今年のお役目のことなんだけど、本当に大丈夫かい?」

 気遣わしげな声。

 彼が訊きたいのはそういう事だったらしい。オヒムジ様の御神体を置いている家の男子には不幸が起こると言われていて、実際今年に入ってから父さんが死んだ。その上に兄さんの兵役拒否事件だ。迷信深い人なら心配もするかもしれない。

 嫌われ者に面倒な儀式を押し付けておいて、馬鹿みたいだ。

「大丈夫です。万事つつがなく──」

 それでも私にとっては好都合な事だった。

 預かっている御神体のためのお供え物は、こっそり兄さんの生活用品にあてていたのだ。

「そうかい。ならいいんだが……」

「あまり心配するなら、もっと信頼できる家に当番を変更なさったらいいでしょう。うちの醜聞は予定外のものですし、迷惑を掛けたとはわかっています」

 ヒムジ信仰はこの土地でも特に古い。迷蒙だというので禁止するよう国から言われた時代もあったとか。それをこっそり続けているのだ。

 悪い事だとは思わない。

 私にも似たような罪があるからだ。──兄さんを匿ってる。

「……いいや、いいんだ。じゃあ大丈夫なのだね」

「はい。大丈夫です」

 それきりばたんとドアを閉めた。


 真夏の昼であっても薄暗い家だ。玄関は昨日も掃除したけれど、拭いがたい泥が乾き切って落ちない。虫の死骸もある。

 真っ直ぐ続く短い廊下のすぐ右手、玄関に程近い場所が私の部屋。じめじめとした空気がいつでも充満して息苦しい。じっとりとした湿気が充溢する。鏡台はすぐに曇ってびっしりと水滴をつける。

 昔はこうではなかった。


 箪笥の陰に隠れている兄さんを呼んで、「お茶を入れてくるわ」と声を掛ける。

「干菓子も下ろしてくれ」

「わかった」

 この家は間取りが珍妙極まりなく、お台所が2階にあるのだ。隣が母さんの部屋で、オヒムジ様の御神体を置いている。御神体は300年以上の歴史があるらしく、古びて壊れてしまわないよういつも布でぐるぐる巻きした上で箱に入れている。

 だから私は箱に向かってお祈りをして、お供え物を下げるわけだ。


 お盆にお茶とお菓子を載せた。やけに急な階段をゆっくり降りて、今年もまた鎮祭がないとしても、対の御神体をそろそろ見つけないとなぁと考えた。


「兄さん! こんなお菓子がまだこの国にあるなんてねぇ」

 弾んだ声で丸い卓にお盆を置いて、兄さんの向かいに座る。

「そうだなぁ。誰が隠し持っていたんだろう」

「でも幸運ね。私達今年がお役目の年で本当によかった。……なんてね! 思いっきり反社会的だわ、今の私」

 ふと気がついた。

 この家がこうなったのは、兄さんの事件があってからだ。神罰なんだろうか?




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蓮月八日はづきようか

 1年ホウチした。今度こそ日記を書く。絶対続ける。


 蓮月はづき 日

 父さんも兄さんもいない事だし、志願して工場へ通い始めた。母さんとは支え合っていかなくてはならない。


 月十日

 犬猫を供出したおうちもあるらしい。そういう家は気の毒だ。びっくりしたのは一昨年のメヒムジ様の御神体を、佐地家が供出していた事。仕方ないご時世ではあるけれど、なんだか驚いてしまう。


 月 日

 風が強くて洗タク物が落ちた。雨上がりの地面のせいで泥だらけになってしまった。「落ちる」ってなんだか不吉だ。父さんに何かあったらどうしよう。



梓月しわづき 日




梓月三日しわづきみっか

 くじ引きで来年のオヒムジ様を安置するお役目がうちに回ってきた。母さんは気がすすまないような顔だ。家の男に不幸があるというのだ。けれど今年の担当だった家には何もなかった。「きっと大丈夫だよ。どうせ迷信よ」と慰めながら、母さんを気の毒に思う。きのうのように私の婚約者にぺこぺこする姿を見ているとイヤな気分にもなるけれど、これも女しかいなくなった家で一生懸命に頑張ってくれているからこその事なのだ。

 学生も出征しなくてはならなくなって、しばらく経つ。もしかしたら兄さんも招集されるかもしれない。心配だ。


梓月二十日しわづきはつか

 あいつに召集がかかった。年明けの十日ごろには発つという。少し早いけど発つ前に結婚式を挙げる事になった。つまり来年の頭には私の人生も台無ということ。イマイマシイ。

 私はまた願を掛ける事にした。

 以前にもヒムジ様の夫婦碑に願を掛けて婚約がなくなるよう祈った。今度はもっと強く祈る。


梓月三十一日しわづきつごもり

 兄さんが戻ってきた。


牟月朔日むつきついたち

 母さんがいなくなった。


 月 日



 月 日

 兄さんが戻ってきた。


 月 日

 兄さんが戻ってきた。



 月 日

 黒い柱がおちてくる。』



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 虫の声がうるさい。

 虫が多い。

 家中に殺虫剤を撒いた。


 やりすぎて気分が悪くなるかと思ったけれど、意外と爽快だ。兄さんもけろっとしている。


「今日ね、また変な夢見たの」

「おれが乗っかったせい」

「そう、兄さんのせい。魚になって漁師に捕まるんだ。解体されるかと思いきやお供え物みたいなお盆に乗るんだけど。こわかったぁ」


 昨日は流木になる夢を見たし、一昨日は海底の石になった。最近はやたらとそういう夢を見る。


「女になる夢は見ないか」

 兄さんは尋ねる。

「私、もとから女よ」

「そういう事じゃない。350年前の女だよ」

「そんなの見ないよ。見たら教えてあげる」


 暑い。

 兄さんの事がバレると困るので、窓を開けてもカーテンは閉めておく。ついでにラヂオの音を大きくする。

 

 最近気づいたけれど、どちらかというと兄さんの隠れ場所にしている2階の方が悪臭がひどい。

 そんなところに閉じこもっているのだから、兄さんも最近少しおかしい。

 私もつられていて、もうおかしいかも。

 ──少なくとも近所の人はそう噂している。腹立たしいが私自身もそれを完全には否定できない。

 時々変な事を喋っている。


 たとえば

「そういえば母さん帰ってこないねぇ」

 私が言うと、

「今更かよ」

 兄さんは無表情に言う。

 私は兄さんにとまった虫を払ってあげる。

「うん。でもそろそろ戻ってきてもいいと思って」

「戻ってこないよ。戻ってこれないから」

 兄さんがどうしてそんな意地悪を言うのかわからなかった。

 けれどよく考えたら、母さんが戻ってきたら逆におそろしい。




 家を出る。

 今日は白いワンピースを着た。こんな目立つ服を着るのはちょっとした反抗なのだけれども、流石に化粧まではしない。戦中の娘として最低限の良識だ。

 皆なるべく私を見ないようにしている。どんどんそうなっている。やっぱり私を異常者と思っているのだろう。けれど私はここにいるのだから、見ないフリなんてさせない。

 

 声を掛けられた。

 まともな愛国者の格好をした少女、──キヤカさんだった。


「ミナヱさん」

 私を呼ぶ、耳によく馴染んだ声。

「お兄さんのこと、本当に辛かったよね。お母さんの事も。……でも今のあなたはあんまりだわ。元のミナヱさんに戻ってよ」


 私にはわけがわからない。


「急になに? ……ずっと無視してたくせに」


 キヤカさんは泣いている。

 すると他の人がキヤカさんの腕を掴んで、私から遠ざけた。


「キヤカちゃん、こんな■■■■に構っちゃダメよ」

「もう柱に憑かれてるから」


 呆れた人達だ。

 私は幸福なのに、■■■■呼ばわりときた。

 全部オヒムジ様のおかげだ。

 私は結婚したくないと願った。その裏では兄さんと結ばれたい気持ちがあった。最悪のカタチとはいえ、それは叶ったのだ。


 今はたしかに精神的に参っているけれど、それは私自身の責任ではないのだし。

 路上で奇声を上げているわけでもないのだし。

 この人達に迷惑を掛けているわけでもないし。

 それを憑かれてるだなんてひどい!

 ■■■■呼ばわりなんてあり得ない。

 最悪な場所だ。

 この戦争が終わったらこんな場所出て行ってやる。偽名でも使って都会で兄さんと暮らすんだ。

 私は料理がうまいし、兄さんは頭がいいからきっとなんとかなる。


 そんな事を考えながら家に戻った。

 家の周りにはひどい匂いのする水がぶちまけられていて、魚が死んでいた。血でピンクに濁った水は湯気が出そうなほど熱い。傷んだ魚はくらくらするくらいに生臭い。


 それはよくある事だからもういいんだけど、それよりも──、私の家って、こんなに黒っぽかったっけ?


 けれどそんな事も、まあいいか。


 と。思う。

 

 


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 月 日

 思うに柱は祀れば祀るホド良くなるのでしょう。だから私達はより良いメヒムジに為らねばなりません。母さんが為りましたが、それでは足りなかったのです。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。



 月 日

350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しました。350年前の罪を私達は思い出しましたので私は』





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 ノック、ノック、ノック。


 兄さんが「居留守を使えよ」と言う。

 そうする。

 最近では流石に怪しまれているようなのだ。

 退屈だった。欲求不満だった。兄さんの布団に潜り込み、スカートをまくり上げた。

「兄さんだいすき」

 ひとつになるといつも汚れる。

 けれど、私は兄さんのそういうところが好き。

 兄さんはこのクソ田舎で生きるのには向いていなかった。破滅は目に見えていて、けれど純粋だ。だから好き。兄さんは人を殺したくなかった。頭のおかしい妹の求愛を受け入れたくなかった。みんなは兄さんを犯罪者扱いした。


 けれど兄さんは結局、私のもの。

 私だけのもの。





 私は黒い柱を抱きしめている。


 


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