そして再び六時に返る

マムシ

一部

第1話 今村尚志1

「ここまででいいわよ。尚志も仕事があるんでしょ」


 成田空港のロータリーで妻がそう言った。妻は車の後部座席にあったボストンバッグを引っ張り上げ、助手席を降りると、車の後ろへと回り込んだ。


「いいよ、中までついて行くよ。それにそのバッグは俺が持つ」


「いいの? なら甘えるわ」


 妻はトランクからキャリーケースを持ち上げ、息を吐きながら、地面におろした。タイトのスカートにタイヤの跡が少しつく。


「やだ汚れちゃったわ」


「だから言っただろ、俺が持つって、由和ゆわは向こうに着いた後の事だけ考えていればいいんだ」


 妻はフリーのジャーナリストだ。証券会社に勤務する俺よりも数段、稼いでいるし、その名前も多少は有名だった。そんな妻を俺は誇りに思っていてる。そして今日はジャーナリズムの性と言うべき、お別れの日だった。

 妻は革新派によるデモ活動とそれを弾圧する共産党が争いを続ける台湾に飛び立つ。それがいかに危険な仕事かは分かっている。本当なら夫である俺が止めるべきなのかもしれないが、俺は妻の好奇心と仕事に対する熱意を優先させた。


「時間大丈夫?」


 成田空港に入り、荷物のチェックを済ませると、俺は電光掲示板を見上げた。


「搭乗する二時間前に空港に入るのは常識よ」


「俺、あんまり海外に行ってないからな。最後に行ったのは大学の卒業旅行かな」


「海外はいいわよ。あたしがこの仕事を始めたのも海外を飛び回って、色々なものを見てみたかったからよ。日本だけは体験できないこと、多文化に触れることで人生観はがらりと変わる。その高揚感を尚志にも味わってほしいわ」


 妻は笑顔を見せた。


「そういうものかな」


「そうよ、今のメディアは本当のことなんて絶対に言わない。特にテレビなんかは特にそう。みんな誰かに規制され、他国の顔色を伺っているのよ」


「それって日本に限ったことじゃないでしょ」


「勿論、メディアなんてみんなプロパガンダなのよ」


 妻は真っ直ぐと正面を向いて喋っていた。その目に映る不動の意思が俺が遥か先にいるような気分になった。


「内戦に巻き込まれて死ぬなよ」


 俺はそう言った後、すぐに口に手を当てた。

 何気なく、口に出してしまった。そんなことは言いたくなった。言霊信仰とかスピリチュアルとか確証のないものは信じていない。しかし、妻との別れでナイーブなっていた部分があったのかもしれない。あまり旅立つ前に「死」と言葉を出したことに対し、申し訳なさを感じて、すかさず謝った。


「ごめん変なこと言っちゃって……」


「なに変な事って?」


目を逸らして、ばつが悪そうにする俺に対し、妻は笑いかける。


「安心して、あたしは死なないわよ。いいネタ拾ってきたらすぐに帰るから、それまでは辛抱してね。そんなことよりも尚志のほうが心配だわ。ちゃんと家事出来る? これが初めてじゃないけど、あたしが出張から帰るといつも家の中が滅茶苦茶じゃない」


「だ、大丈夫だよ」


「なに動揺してんの?」


 妻が俺の顔を覗き込んできた。


「まぁさ、そのためにも早く帰ってきてくれよ由和」


「分かってる」


 妻はボストンバッグを両手で持ちながら、立ち上がった。

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