さらば、楽園。

犬井作

  1


 後部座席には私がいて、運転席と助手席にはそれぞれ母と妹がいた。母と妹の雑談に、私は耳を傾けている。私が見ている私は鏡で見るよりどこか世間知らずの顔立ちをしていて、それで、これが夢だとわかった。


 十年前の、あの日。まだ私が地球に住んでいた頃。私は幼い私の隣に座っていて、シートベルトもつけぬまま、車に取り憑いた幽霊のように左後ろに腰掛けていた。


 窓の外を見ると、キャベツ畑やビニールハウスが並んでいる。田んぼでは、機械が畑を耕していて、持ち主と思わしきおじいさんとおばあさんはあぜ道でお茶を飲んでいる。


 農業の完全自動化はまだ難しくて、ああして調子を確かめないと、時折トラブルが起きてしまう。私の隣に座る私が、咄嗟に検索した知識を、母と妹にひけらかす。二人は感嘆のため息を漏らして、大変ね、そうね、なんて相槌を打つ。


 二十歳をとうにすぎた私は、まだ大人になりきれていない私の団欒を前に、唇を噛む。


 この瞬間も選択をし続けていることに、この私は気づいていない。時間は可能性を犠牲にして流れていく。あのころ私はそのことを、言葉の表面をなぞった程度で、理解した気になっていた。


 苦しみが、蘇る。


 この日は、久しぶりの旅行だった。

 だから思い出になるはずだった。

 スマホを触りながら、行き先の港町の美味しいお店を検索している私はそれを知らなかった。

 家族との雑談に相槌を打ちながら、遠い未来を夢見ている。

 これからなにが起きるなんて、そこにいる私には想像しようがなかった。


 だけど、叫びそうになる。

 もっと、ちゃんと前を見ろと。おまえだけが止められたのだから。気づけていれば、少しくらい違ったかもしれないんだ、って。


 結末を知っている私は、わかっていても、次第に、息が苦しくなっていく。来たるべき結末を見たくない。ただそれだけに取り憑かれる。


 母はあぜ道を真っすぐ進む。いい天気ねえ、とのどかに言う。フロントガラスの向こうに広がる青空には、突き抜けるような入道雲が伸びている。嘘みたいにきれいな景色に、母も妹も見とれている。


 妹は腕時計をつけた腕を後部座席の私に伸ばす。スマホなんか見ずにあれを見ようよ。そう言われながら膝を叩かれ、ようやく私は顔を上げる。


 そのとき、手遅れなのに、気づいてしまう。私は視界の端に、影を捉える。信号機のない交差点にさしかかって、気づきもせずに進行している私たちを。左手から、猛スピードで、突っ込んでくる白い車を。


 私たちに気付かないままの運転を。


 私は息を止める。


 妹の手を掴み、引っ張る。シートベルトがついているのに。どうにかできないかと思って、必死に、引いて。


 衝撃。


 世界がひっくり返った。

 落下感に体が動く。

 そのとき、六分の一の重力を脳が知覚する。

 私がいる本当の場所を。


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