第2話

 夕べ、西の丘に日が沈み、地平線でイシュタル女神の星が輝き始める。夕食を終えた王子は昼寝のせいかまだ元気だ。羊毛の綴織をかけた入り口からかれの部屋に入る。絨毯の敷かれた床に座るかれは、机に向かい、粘土板に文字を書き付けている。胡麻油のランプが香り、わたしは目を細める。灯り、というものにわたしは慣れない。村ではだれもが日暮れどきに寝入ってしまい、闇のなかで動くことはあまりない。獅子の仔は侍従の上下させる鞠にじゃれかかっていた。

「ヤヨタ!」

 王子は顔を上げ、ぱっと笑みをひろげる。

「殿下」

「こちらに来て。お話しして」

「……はい」

 わたしはそろそろと絨毯を進み、少年のそばに座る。

「なんの話がよろしいですか」

 少年はびっしりと長い睫の生えた瞼を上下させる。

「なんでもいいよ。ヤヨタのお話はなんでもおもしろいもの」

「そうかしら。この前いらっしゃったときは、途中で眠ってしまわれました」

「ええっ、そうだったっけ……」


 エサギルのマルドゥクよ、御身の天の星ぼしのような額飾り、耳飾り、冠はどうしてしまったのか?

 神々の戦士ネルガルよ、答えよう

 わたしは久しき以前、ほむらのように怒り、まなざしは震え、座所を発った

 すると天地は混乱し、洪水が起こった

 その洪水のため、わたしの装身具はそこなわれ、わたしは薄汚れた


「このお話は?」

「……覚えてないよ」

 わたしはほほえみ、清らかな身なりの少年を抱き締めた。

「では、このお話をいたしましょう」

 はるか昔、付き従う神々に扇動され、殺戮の旅に出た冥界神ネルガルの話を、わたしは語る。王子は瞳をきらきらと輝かせ、わたしの話に聞き入る。ひとびとを懲らしめにバビロニアの各地を破壊して回るネルガル。その地の都市神も、かれに振り回され、ある者はかれに従い、ある者はあらがう。神に座所を発たれた都市は、燃え上がり、あるいは川の氾濫で押しつぶされ、ひとびとはネルガルに慈悲を乞い、供物を捧げる。

「……人間はどうなってしまうの? このまま滅びてしまう?」

 わたしはころころと声を上げて笑った。

「そうであったなら、いまバビロニアにはひとは住んでいないでしょう」

「なあんだ」

 安心させるように、わたしは少年の背中をやさしく叩く。

 バビロニアの地をあらかた破壊して回り、満足したネルガルは、ひとびとが悔い改めて祭儀を行うのを見て、


 よろしい、ならばふたたび、この地を興すことを許そう


 と言って、都市の再生を許す。かれは冥界に帰って行く。バビロニアには麦が生え揃い、用水路には水がとうとうと流れ、ひとびとは木陰でまどろむことを楽しむ。

「ヤヨタはバビルに行ったことある?」

「いいえ」

「じゃあどうしてこんなお話を知っているの?」

「母が、そのまた母から聴き、祖母はバビロニアの商人からこの話を聴いたそうですよ」

「ふうん」

「……ニヌアでは」

 わたしは思いついて訊く。

「王子にお話してくれる方はおられないのですか」

「……」

 少年は絨毯をごろごろと転がった。途中で楽しくなってきたのか、でんぐりがえったり、四つん這いで歩いたりしながら、かれは答える。

「乳母がいたときはお話してくれたけど。もう里に帰ってしまったし。夜はひとりで寝るの」

「まあ」

 まだちいさいのに。そう言えば少年は怒るだろうと思い、わたしは黙る。

「でも、文字の勉強を始めたら、先生たちが古いお話をしてくれるようになったよ。まだ長いお話は読めないけど」

 少年は部屋の隅に置かれた棚から、かれの手にはおおきい重そうな粘土板を持ってきて、わたしに示す。

「これはギルガメシュ王のお話の一部が書いてあるんだって。もっともっと勉強して、たくさん文字が読めるようになったら、この粘土板も読めるようになる」

「それはすごい」

 少年の前にひろがる広大な物語に、わたしは感嘆する。

「人間は、自分が覚えているお話しかできないけど、粘土板は、書かれたらずっと残るし、ずっと読めるんだ。いろんな人間が残したお話を、たくさん知ることができる」

「そうですね」

 王子はわたしの背に自分の背をもたれさせる。

「でも、いまはヤヨタのお話のほうが面白い。粘土板の文字は、まだぜんぜん読めなくて……」

「すぐに、たくさん読めるようになりますよ。あんなに練習しているのだから」

「そうかな……」

 わたしは振り向くと、少年の黒い豊かな巻き毛をかきまぜた。

「そうですよ。絶対、そうなります」

 少年はくすぐったそうに笑った。

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