繋がっていた蔓

紫 李鳥

第1話

 


 横浜に住む看護婦の霧島美希子は、母親の阿佐子からのその見合い話に乗り気だった。これまでは、阿佐子を一人残すことに躊躇ためらっていたが、そんな配慮は無用の長物になっていた。相手は誰でも良かった。忌まわしい現実から一日も早く逃げたかった。


 阿佐子の知人でもある紹介者の安達夫人は、


「三十代の若さで課長ですからね。将来が楽しみですわ」


 と、セールスレディのあともうひと押しのように色を付けた。


 阿佐子の方も、


「あんたも適齢期を過ぎたんだから、贅沢ぜいたくなんか言ってられないのよ」


 と、巣立ちをさせる親鳥のような心境で冷酷に言い放した。


 ……そんな配慮は必要ないのに。見合いの話がなくても、今の私は自ら「結婚したい」と口走っていたに違いない。そして、ついでに誰にも相談できない、その悩み事を顔も知らないその見合い相手に、破談覚悟で打ち明けてみるつもりでいた。もしかして、名案を提供してくれ、進路を導いてくれるかもしれない。美希子はそんな他力本願の心境だった。



 木下祐輔は、濃いネイビーのスーツに紺と白のストライプのネクタイをして、綺麗に切った爪はネイルサロンで金を使ったかのように光沢を帯びていた。いかにも、“デキル”と言った印象を受けた。と同時に、悩み事を打ち明けたくなる度量の広さも感じさせた。が、見合いをした本当の理由を口にするのはやめた。木下に会った瞬間、破談にしたくないという欲が出たのだ。


 だが、姉のことは正直に話すことにした。後々耳にして、つまらないそしりを受けたくなかった。それと、木下の人間性も試したかった。


「……姉は、私が中学二年の時に、死にました。……自殺でした」


 木下を一瞥いちべつすると、感慨深そうに目を伏せて話を聴いていた。


「……付き合っていた男に騙され、金を貢いだ挙げ句、てられて。……姉は結婚まで考えていたのに……」


 美希子は悔しそうに唇をきつく結んだ。


「……お姉さんは、彼とのことを汚いものにしたくなかったんだろうな。綺麗な思い出のままで、その恋を終わらせたかったんじゃないのかな」


 美希子は、木下のその言葉に思いやりを感じた。



 挙式は、木下のマンションで内輪だけの質素なものにした。それを提案したのは美希子だった。退職届を郵送するとすぐに目黒にある木下のマンションに引っ越した。親友はおろか、お世話になった婦長や同僚さえも招かなかった。事前に辞めることを告げなかったのも、結婚式の招待状を送らなかったのも、アイツにバレないようにするためだった。自分勝手で無責任な行為だが、そんな非難より、アイツから逃れることが先決だった。


「豪華な結婚式なんて、お金の無駄。その分貯蓄。いい女房でしょ?」


「君がそれでいいなら……」


「あー、良かった」


 美希子が安堵あんどの表情を浮かべた。


「……盛大な結婚式をしないからって喜ぶなんて、変わってるな」


「倹約家の女房って、褒めてよ」


「ああ。しっかり者で助かるよ」



 ――招いたのは、木下の両親と阿佐子だけだった。


「……綺麗なお前の花嫁姿、大勢の人に見てもらいたかったよ」


 阿佐子が涙ぐんだ。


「……お母さん、ごめんね。私の我が儘でこんな結婚式になっちゃって」


 美希子も泣いた。悔しかった。


 アイツのせいだ! アイツが憎い! 婦長や同僚に招待状を送れば必然的にアイツの耳に入る。そうなると転居先も知られてしまう。絶対に嫌だ! アイツにバレたら、隠れるように横浜から逃げてきて、不本意な侘しい挙式にした意味がなくなる。


 美希子は阿佐子に念を押した。「誰が訪ねてきても、誰から電話があっても、例え親友であっても、病院関係者であっても、決して私の居所を教えないで」と。その理由を知らない阿佐子は、「……何があったんだい」と、心配そうに声を震わせていたが、美希子は真相を話さなかった。口にするのさえおぞましく、腹立たしかった。



 ――結婚して四年になる。碑文谷ひもんや公園近くの一戸建てに移り、木下は既に次長に昇進していた。子供は授からなかったが、その分新婚気分で新鮮味を維持していた。休日は、木下の趣味のゴルフに伴ったり、映画や小旅行も楽しんでいた。


 そんなある日、木下から、大切な書類を忘れたから持ってきてほしいとの電話があり、ついでに一緒に昼食をろうと言われた。美希子は木下に恥をかかせない装いをすると、日比谷に向かった。



 会社のロビーでエレベーターに目を据えていると、蟻の大群のように出てきた人達の、隣のエレベーターから降りた数人の中に木下の顔を認めた。木下は軽く手を上げると、美希子に歩み寄ってきた。


「すまん、すまん。何にするか」


 書類の入ったA4の茶封筒を受け取った木下が食べたいものを訊いた。


「あなたに任せるわ」


 淡い水色のツーピースを着た美希子は、清楚で気品を感じさせた。


「うむ……、お多福はこの時間混んでるしな。どこにするか……」


 木下が迷っていると、部下らしき数人を従えた長身の男が、美希子をじろじろ見ながら近づいてきた。

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